公爵夫人




 これも復興のためなのだよ。
 と、屋敷の主は自慢の長い髪を、理容師の手に委ねながら吐いた。
 言い訳などしなくても良い、と言った口のまま、彼女は顔色一つ変えずに矢継ぎ早に指示を出す。主が身ずまいを整えている間も、彼の周辺では屋敷の使用人が忙しなく動いていた。使用人が駆ければそれだけ埃が立ち、折角整えても意味がないように見えるが、彼に言わせれば貴族の気品とやらが、汚れの方から彼を避けてくれるのだそうだ。

 そのような御託を耳に入れているほど、彼女も、使用人たちも暇ではなかった。
 屋敷の主は少しだけ眉を動かし、白磁の茶碗を傾ける。すまないね、という声も、きっと彼女の背中で止まってしまったのだろう。

 陽が傾く頃には、多くの馬車が屋敷へ向かって駆けていた。
 かつては領民が様々な装備をまといこの屋敷へ集まっていたが、今では様々な様式の馬車や紋様が集まりつつある。

 昼間の張り詰めた空気とはがらりと変わり、華やかな風が敷地内に運び込まれた。
 円卓には所狭しと料理と燭台が並べられ、太陽よりも強い灯りが参加者の宝飾に跳ね返り来賓の館をより一層明るくしていた。
 昼間は完全に議論や何気ない報告まで含みをもたらす。しかし、昼間の狸の化かし合いとは違い、夜半の駆け引きは政治的な意図はもちろん、政治とは無関係な策謀も参加する。混ざった空間が生まれる。それらが混ざった空間が面白いものを生み出す。ヴィオールはそう信じて止まなかった。壁の花は置かぬとばかりに、諸侯の令嬢、夫人の手を取り、広間に文字通り踊り出る。彼の周りにも、同じ心意気の男女が見事な踊りを見せている。

 絢爛たる花畑は枯れる事もなく続き、幾度も戦場や政治を駆け抜けたヴィオールの額にも少なからず汗が浮かび上がる。彼の眼前に、すうっと絹の手巾が差し出される。
「これは私めの為に」
 ヴィオールは柔らかい手つきで手巾を受け取る。
 手巾の持ち主は目尻を細めた。まだ咲いたばかりの若い花で、思わず見とれてしまいそうになる程の美しさだ。他の貴族の子弟らも放ってはおかないだろう。
「ありがとうございます。重ねての要求にご無礼ながら、一曲踊る名誉も下さいませんか?」
 楽団から流れる曲が終わり、拍手の音が渦巻いていた。拍手が止めば、貴族たちは次の花を探すためにさ迷うのだろう。白く細い顎はこくんと揺れ、絹に包まれたヴィオールの手が名も知らぬ姫君の手を取ろうとした時、
「公爵ではありませんか」
 髭を蓄えた貴族がヴィオールを呼び止めた。
 背が高く、がっしりとした体つきの彼は、ヴィオールと旧来の仲だ。ヴァルム戦役の際はサイリ率いる解放軍の許で抵抗していた。
「これはこれは。楽しんで頂けていますかな」
「ええ、ここまで盛大に開催できたのも、ヴィオール公爵のお力あってのもの」
「いや、まだ戦前には及びませんよ。しかも、ヴァルム諸侯との会合という名目がなければ催けぬ有様」
「暮らしは安定て来たとは言え、まだまだ気軽にはとは言えませんな―――ところで」
 貴族は会場を見渡した。その目には、戦や政治が絡んだ緊迫はない。隠された宝物を探すような、少年のような目だ。
「夫人のお姿が見えませぬが。お加減でも悪いので?」
「いいえ。今日の夜会も、妻が指揮を執って準備したものですが」
 ふと、朝から屋敷中を駆け回っていた妻を思い出す。あれだけ忙しく指示して回り、夜会が始まると気が抜けたのだろうか。戦も準備には万全を期し、彼が手を出す隙もない事が日常であった。
 そう言えば、夜会が始まってから、彼女の姿がヴィオールの記憶にはない。まずいな、と声に出さずに口だけを動かす。
「折角ロザンヌまで来たのに、ロザンヌ一の花をまみえずに帰る訳にはいかないでしょう」
 友は屈託なく髭を上げ、ヴィオールの妻を探す為に、再び貴族たちの中へ戻って行った。
「さあ、お待たせ……」
 先刻踊りを誘った婦人は彼の隣にはもうおらず、美しい花は、別の若い蝶に手を取られて踊っていた。
 
 ヴィオールは別段傷付く訳でもなく、颯爽と歩みを速めた。
 社交の場とは案外あっさりしたもので、どのような位の高い貴族の誘いでも、例え王族でも無碍にされてしまう事もざらだった。しかし、ヴィオールはそう言った意味で令嬢の心変わりを気にしていないのではない。彼は数人かのグラスを酒瓶を持った使用人とすれ違いつつも、会場を抜け出し、屋敷へ続く渡り廊下を走り出した。広い来賓管は招待客と給仕係で溢れかえり、主催者がいなくなっても誰も気にする者はいなかった。
 王族でもなく、戦争の傷跡もまだ深く残る屋敷では、例え領主の館とは言え警備兵を数多く置けるはずもなかった。住居としている一角に続く廊下は、ひっそりとしており、燭台も少なく、夜会の会場を出ただけで、ひんやりとして静かな空気が流れていた。

「そんなに汗をかいていらしては、ご婦人が寄りつきませんわよ?」
 暗がりから急に声がしても、ヴィオールはすぐに緊張を解く。先刻令嬢からもらった絹の手巾を無造作に懐の隠しにねじ込んだ。
「寄ってきたではないか、美しい蝶が。暗がりでも分かるとは、余程匂い立つ名花なのだろうね」
 ふふ、と彼女は笑っていた。しかし、目が笑ってはいない。時折、彼女の目が笑っていない事がある。普段ならどんなに嫌味を言われようが意に介せずに思うままにふるまうヴィオールだが、こういう時はつい彼女の瞳を伺ってしまう。
「ところで、先日あつらえた新しいドレスはお気に召さなかったのかね?」
 彼の妻の出で立ちは、昼間と同じ簡素な衣服をまとい、髪も結い上げずにいた。このまま夜会へ立てば、誰も公爵夫人だとは思わずに、給仕を命じていたであろう。
「サミールが気に入っていたので、先月彼女が嫁ぐ際にあげましたの」
「色々手ひどいな、君は」
「嫁ぎ先は隣領の名家ですもの。しばらくすれば社交界の招待状も頂けるはずですわよ」
「気に入りの侍女の結婚をあっさり許したのもその為かい」
 今度の彼女の瞳は、完全に楽しそうにしていた。ヴィオールはほうっと息を吐き、グラスを取る。
「君は夜会は嫌いかい?公爵夫人とあらば、出席も仕事の内なのだがね。それとも……」
「このような場を設ける事には、反対しません」
 反対ならば、ここまで手伝いません、と彼女は付け加えた。確かに、彼女は例え主人であろうが、反対する事も諌める事もする。意に反しての準備など梃子でも動かなかったであろう。
「つまらぬのなら、ミネルヴァ君と遠駆けにでも行ったらよかろうに」
「不備があればいけないので」
「ならば一緒にどうだい?」
 ヴィオールは、会場から持って来た瓶を彼女の眼前に出す。まあ、と彼女の目が丸くなる。
「セルジュ君、誕生日おめでとう。悪かったね、こんな日に」
「……」
「どうしたのかね?まさか、私が忘れていたと思っていたのかい?」
 彼女の長い髪が揺れる。
「誕生日を忘れてた事で、拗ねていた訳ではありませんよ」
 セルジュの目を見て、ヴィオールは思わず口の端を上げる。
「さあ、飲もうか。この酒は君の口にも合うと思うよ―――それとも」
 会場の壁を通り、うっすらと舞踊曲が流れ出していた。
「星空の元、ダンスというものまた一興」
 ヴィオールは腰を折り、右手を差し出した。
 セルジュは迷わず彼の手中のワインを受け取り、ついでに懐にねじ込んであった絹の手巾もするりと抜き取る。腰を折ったのが仇となってしまったようだ。恐る恐る顔を上げる。彼女の目はこの上なく笑っているようにヴィオールには見えた。  

14/10/17   Back