月の光と火の灯り




 川の水は、夜の冷えた空気よりも冷たかった。肌に刺すような感覚だが、疲れと行軍の汚れを落とすには充分なほどだった。しかし、川辺に上がるとさすがに皮膚は粟立った。手早く手巾で水滴を拭い、衣服を纏う。残念ながら汗と埃で汚れた服を洗う余裕は今はないのだが、夜間だけはと特別に替えの衣服を軍から支給されていた。中には、軍が駐屯している間の余暇を利用して街まで服を買いに行く兵もいるが、ルキナは母への服は用意しても―――なぜか受け取ってはくれなかったが―――己の物は手巾一つこの世界で買い足してはいない。

 天幕の並ぶ野営地へ戻ると、見張りの者以外は思い思いに過ごしていた。松明の下で、戦争のさなかだという事を忘れてしまったかのように馬鹿騒ぎしている者もいる。その中に、一人の少年がいた。ルキナにとって、知らないどころではない顔だ。共に未来からこの世界へやって来た仲間の一人なのだから。彼は、他の若い兵士に肩を組まれて小突かれていた。別の若い兵が、彼に木杯を渡す。彼は戸惑いながらも木杯を傾けた。どっとした笑いが再び起こった。少年は少し咽せつつも、苦笑いを浮かべて周囲の仲間を見渡した。その際に、遠くにいたルキナとも目が合った。彼は一瞬だけ驚いたような顔をしたが、ルキナを無理矢理振り切るようにして元の苦笑いを兵らに戻した。

 
「ルキナ」
 と天幕越しに声を掛けられたのは、それから半刻ほど経ってからだった。ルキナは横になっていた身をそっと起こし、天幕の入り口を抜け出た。
「ごめん。寝ていた?」
 いいえ、構わないのです、とルキナは首を横に振る。彼に呼ばれて起きたと言うよりも、彼の声で仲間を起こさぬように気を遣ったと言った方が正しい。彼の母は踊りだけではなく、充分に良く通る歌声で多くの人を魅了して来た。息子である彼も、踊りの素質だけでなく、良く通る声も受け継いでいた。
「かっこ悪いところ見せちゃったね」
 彼―――アズールの苦笑いは、先刻と変わらないものだった。ルキナは、腹の底が穏やかではない事に違和感を覚えた。
「休息は大切ですが、騒ぎすぎるのも考えものですよ」
「そうだよね」
 二人は歩き始めた。皆の眠る天幕の前で夜半話し込むのは、それこそ皆の迷惑になるからだ。
「ねえ、ルキナ、その服」
 急に、アズールはルキナの袖を引っ張った。
「軍から支給された着替えですよ」
「うん。でも、本当に着る人いるんだと思って―――」
「支給されたのですから、有難く利用しないと」
 そうだけど、と、アズールは口籠る。彼らの世界とは遥かに豊かな時代とは言え、物資は無限に湧き出る泉ではないのは彼自身も理解している。しかし、替え用にと渡された生成りの綿の服と股引きは、どの体格の兵士も着用できるよう大きめに作られており、小柄な者や女兵は自分で縫い詰めるか帯巻きで調節せよという大雑把な支給品だった。これで不平が出ない訳がない。
「ほら、ルキナは街へは行かないの?」
「お母様へとはこの前行きましたし」
「じゃあさ、今度ぼくと行こうよ」
 誘いの言葉に、思わず顔を見上げる。アズールの顔は、やはり苦笑いに近かった。
「遠慮します」
「ええっ?」
「"成功第一号"になるつもりはありませんから」
「そういう意味じゃないって!」
 諸手を振って否定するも、ルキナには通用しない。
「でもさ、この服いくらなんでも大き過ぎるよ」
 生成りの袖の余った生地を引っ張る。帯巻で余った部分は留めてはいるが、強く引っ張れば肩が
すぐに露わになってしまいそうだ。
「明日になればすぐにいつもの服に着替えますから。大丈夫です」 
 素っ気なく言い放つと、ルキナは踵を返そうとした。しかし、肘のすぐ上を掴まれ、天幕へ戻るのを遮られる。
「大丈夫じゃないよ。袖がこんなに余ってる。それに前よりも腕、細くなってるよね?」
「も、元からです」
 太いと言われるよりかは良いのであろうが、ルキナの本来の世界では、一国の王女たる身でも、充分な栄養が摂れたとは言い難い。更には、絶え間ない屍兵の襲撃が、ルキナの身体を酷使していた。それに、腕回りを把握されるほど、ルキナはアズールに触れられていないはずだ。
「食糧も"向こう"よりはあるのに、あんまり食べてないみたいだし。このままじゃ、倒れてしまうんじゃないかっていつも思っていたんだ」
「アズール、離して下さい」
 掴まれた腕を振り払おうとしても、叶う事はなかった。アズールの力が強いのか、それとも、彼の言う通り本当にルキナはか弱くなってしまったのか。
「アズール、わたしには、出来ないのです」
 観念したように、ルキナは溜息と共に吐き出す。
「皆のように、この世界を愉しむ事など。お父様とお母様の元気なお姿が拝見できて、それだけで充分でした」
 月の冷たい光が、ルキナの顔をより一層青白くさせていた。
「未来で出来なかった事をしようとする皆を責めるつもりはありません。ただ、この世界に慣れ親しんでしまう余り、元の世界へ帰るのが怖くなってしまいそうで―――」
「凄いなルキナは」
「凄くなんて」
「いや、すっごく偉いよ!ぼくなんて、こっちへ来たら、真っ先にたくさんの女の子とあそ―――じゃなくて、一杯笑顔にさせるぞ!って意気込みで来たのに」
 ルキナの青白いかんばせが、より一瞬だけ凍りついたが、聞かなかったふりをするのは彼女のせめてもの計らいでもあった。 
「そういう気高いところ、本当に尊敬するよ」
「ありがとうございます―――ところで」
「うん?」
「そろそろ、離してもらえませんか?」
 あっ、ごめん!とアズールは素っ頓狂な声を上げ、ルキナの腕を掴んでいたのは片手だと言うのに、両手を高らかに挙げた。
「でもさ」
 互いにひとしきり照れ合った後、アズールは口を開く。
「栄養を摂らないのは話は別だよ。君が倒れてしまったら、みんな困ってしまうからね」
「わかりました」
「あ、栄養補給の薬なんかじゃ駄目だよ。今度余暇が出来たら街に行こうよ。そして、美味しい物一杯食べるんだ。君だったら、少し食べ過ぎなくらいでも大丈夫だよ」
 先刻の松明の下ではなく、月明かりの下でも彼の顔は赤かった。またもや苦笑いを浮かべるが、今度はルキナの心は変に鼓動を乱した。思わず、頷いてしまうほどに。
 
14/04/02   Back