朝起きて、ご飯を食べて、寝る毎日
鳥が、鳴いている―――
ああ、早く起きなきゃ。早く水を汲みに行かなくちゃ。
昨日ぶたれた背中、痛まないかな。痛くて、起き上がれなかったらどうしよう。水汲みに行けなかったら、余計にぶたれてしまうよ。この前の腕の痛みもまだ消えていないのに。
……あれ?
瞼は、まるで窓をさっと上げたかのように開かれた。
普段は、いや、ヘンリーの記憶の中ではいつも重たかった瞼。
朝は嫌いだった。だから、瞼はいつも重い。
しかし、今はどうだ。
体は朝を待ち焦がれていたように覚醒し、体は不思議とどこも痛くない。あれだけ日々折檻を受けて、痛みの感覚を喪ったかと思うほどに。
ヘンリーはゆっくりと起き上がる。
どのような所作をしても、体の痛みはまったくなかった。それどころか、朝日のいざなうままに体は外へと動き出しそうだった。夜着の袖を、裾を、彼はめくった。彼の髪に似た青白い肌に、青紫色の痣が染みている。彼の過去は、やはり悪徳施設の哀れな少年だと、嫌でも思い起こさせる。
「ヘンだなあ」
彼は思わず呟いた。
呪術師となってからも、どんなに暗い部屋の中で呪いの儀式やまじないを行おうとも、彼の朝は早かった。今の空は、早朝と言うにはいささか遅い時間帯なのが、窓硝子一面に広がる青の濃さで知る。
今は、寝坊して朝の仕事をしなかった彼を激しく痛めつける大人はもういない。そう分かっていても、胸に不安が広がるのを止める手立てはなかった。
だが、卵の焼ける良い匂いが、じわりと広がる不安をようやく堰止めた。ついでに、胃も訴えている。空腹は幼い時分は苦しみであったが、今は違う。
「あら?もう起きていたの」
扉が開くと同時に、ティアモのあまり不思議そうではない声がした。
「ごめんね〜寝坊したみたいだ」
別にいいのよ。と妻は返し、洗いたての服を差し出す。以前は着替えも手伝ってくれたが、最近はそれくらいは自分でしろと突っぱねられる。ヘンリーは希望を込めて妻を見上げるが、ティアモは請う視線から目を逸らして服を押しつけた。
食卓に並んだ朝食を前に、ヘンリーの胃はさらに主張し始める。彼の胃は、物心ついた時から飢えに悲鳴を上げていたのだが、いつからか、訴えるという事をしなくなっていた。
「そんなに慌てなくても―――」
ティアモの呆れた顔を前に、ヘンリーは皿の上の料理を夢中で貪っていた。
料理、と言っても卵を焼いただけのものに、茹でた人参、それからパン。随分と簡素な物だった。量も多くはないゆえに、皿が綺麗になるのはあっと言う間だった。
興味本位でイーリスについてから、食糧を自分で探さなくても良い日が続くようになり、そして、添える相手ができてから、長い眠りが覚めたかのように、彼の胃は活発に空腹を知らせてくれる。いや、眠っていたのは胃だけではなかった。体全体が、痛みや辛さを封印し、彼の心身に残ったのは、歪んだ快楽のみ。
「あのね、ぼく、嬉しいんだ」
一通り腹を満たすと、彼の口は食べる事以外に使われた。
「朝起きて、ご飯を食べて、寝るのが」
「ええ、そうね」
満足そうに目を細めるヘンリーを見ると、ティアモもつられて笑ってしまう。凝った料理でなくとも、服でなくとも、彼は大袈裟なほどに喜んでくれる。ティアモは彼のそんな所が嬉しかった。
普通の者なら、他愛のない、幸せと言えるかどうかも分からない生活にも喜びを感じるのだ。彼がどれだけ過酷な幼少時を過ごしていたかは、誰にも想像できない。目の前の妻でも。
「これからずっと毎日続くのよ。たまには、料理、手抜きする事もあるけど」
「うん。朝起きて、ご飯を食べて、寝る毎日」
「そう。朝起きて、ご飯を食べて、寝る毎日」
日常が、ずっと続くとは限らない。それは彼もかつての友を喪った事で経験済みだ。
それでも彼は、妻の言葉を信じていられた。"普通の人"と触れ合い、"普通の生活"は、暗い部屋の壁を派手に開け、光を差してくれたようだ。