飯不味進化論




   何とも形容しがたい匂いが、辺り一面を支配し始めた。
 匂いだけではない。
 もくもくとした鉛色の煙までもが、その一帯の支配者に加わる。
 思わず手で目と鼻を覆っても、えづいてしまう程強烈なものだった。

「だい、大丈夫……っ」
 そんな事態を引き起こしても、カラムは細い目を更に細め―――強い刺激の煙でまともに目を開けていられないのもあるが―――妻の謝罪を制しようとする。
 張本人すらも、想定外の事態に涙を禁じえなかった。やはり、刺激が強すぎているのもあるが。

 懐の広さには定評のあるカラムだが、さすがに"それ"を口にするのは憚った。
 当然、作った本人もこれを無理に愛する夫に食べさせようなどとは思ってもいなかった。
 鍋には一杯の、煙と同じ鉛色の液体が粘り気のある泡を立てている。呪術師ですらも、何の呪いの薬かと眉をひそめるであろう。現に、異常な煙は外に漏れ出しているようで、外から兵士の慌てた声が聞こえて来た。

「は、は……皆に、何でもないって伝えなきゃね」
 カラムの力ない声に、ルフレも頷くしかできなかった。

 

 なぜ、このような事になってしまったのだろう―――

 料理本を手に、塞ぎこむように座っていた。
 机の周りに重ねてあった軍の状況や物資の在庫が記されている羊皮紙を無造作に除け、彼女の目の前には、料理に関する本が高々と積み上げられていた。
 どれも料理初心者の為の教本ばかりで、ルフレがざっと目を通しても工程が理解できるようなものばかりであった、はずだのに。材料も、調味料も、分量も工程も全て本に従った、はずだのに。

「ただいま戻りましたーって母さん、どうしたのですか?」
 マークは塞ぎ込んでいる母の様子に慌てて駆け寄る。
「さっきは―――まあ、母さんでも失敗はあると言う事で」
 幼い顔が、屈託のない笑みを見せる。
 先刻の騒ぎの真相は、彼も知っていた。
 誰もがつられて笑ってしまいそうな無邪気な笑顔だが、マークですら今の母を元気付ける事は叶わなかった。 何がいけなかったのでしょうねえ、とマークは料理本の一冊を拾い上げ、ぱらぱらとめくる。
 彼とても、さほど料理ができるという訳ではない。
 で、あれば、"未来"では、カラムが家族に食事を用意していたのは容易に予想できる。
 ルフレは深いため息を吐いた。
 女だてらに一国の王の側近として腕を奮ってはいるが、家庭の事を夫任せにしているなぞ、収まりが悪い。

 互いに職を持ち、立場があるのは分かっている。未来で、己がどうなっているのかも。
 それでも、いや、だからこそルフレは料理ができなければならない。
 絶望の未来の道への運命を絶てば、待っているのは夫婦の門出。
 若妻としては、一度は経験してみたいのではないか。

 あなた、お帰りなさい。
 ご飯にします?お風呂?それとも―――

 ルフレは肩を震わせる。
 彼女の親友とは違い、二人が将来を約束し合った仲なのは、ペレジアとの戦いを終えて久しい月日が経っていた。心は常より互いに向いていたのだが、それを確かめ合う暇もなく、戦いの激しさだけが増すばかりであった。
 終戦を勝利という形で迎えても、国は復興へ向かわなければならない。
 ルフレはクロム同様城詰めの日々を送り、カラムは自警団の一員として、治安の安定にひたすら国中を回る身であった。
 まともに顔を合わせた頃には、次のいくさが幕を開けていたのだった―――

 まあつまりは、カラムとルフレの進捗具合はさほど早い訳ではない。
 ゆえに、ルフレは密かに焦りを抱いている。
 現在も進軍中。
 のんびりと男女の仲を深める暇などはない事などは重々承知だ。
 しかし、多忙を盾に料理の腕を上げる事を怠るなど。
 半分意地でもあるが、国に帰った後の平穏な夫婦生活の為だと、ルフレは隙を見つけては鍋と食材と格闘していた。
 その執念と鍋から発せられる怪しげな煙で、何かのまじないにしか見えないのは、本人は全く気付かぬほどに、彼女は真剣であった。

 そんな彼女に、母であり、師であるルフレを唯一応援しているがの、マークであった。
 彼は本に向かって呪文を唱えるようにぶつぶつと何か言っている母を他所に、そっと天幕を抜け出る。
 彼もルフレ同様出自の記憶はないが、多くの書物の知識は脳裏に残っている。
 頭の片隅に、ふとある植物が閃いていた。
 彼は、早足で備蓄庫に向かい、管理する兵に記憶の薬草の所在を確かめた。
 しかし、薬草に詳しい僧兵は首を振り、ここにはないと告げるのを見ると、マークは礼もそこそこに踵を返した。
 なければ、取って来るしかない。
 軍の駐留は一両日。
 空を仰げば、まだ日は高く西へ沈むには時間はたっぷりある。
 風は乾き、寒さを運んでいた。
 花の季節は春ごろだが、必要なのは葉の部分。駐留地の傍にある森の中に、沼があるのは分かっていた。鬱蒼とした森に迷わず進み、以前見かけた沼へと進む。
 
 森の色と変わらぬ水が、僅かに刺す光を鈍く跳ね返していた。周囲にはマークの胸ほどまである草が方々に生えている。彼は草を分け進み、慎重に足元を探す。日陰と湿気を好む薬草であるから、この辺りにも生えている可能性は高い。次第に彼はまどろっこしいとばかりに、身を屈め、地を這うようにして目的の草を探し始める。
 すべては、母と父の為であった。
 母が、苦手な料理に奮闘している。マークの記憶にも、家族で食事をしたという場面は霞のように残ってはいるが、それがどんな料理であったとは、どんな味であったかは思い出せずにいた。父が作ったのか、それとも家政婦を雇っていたのかもしれない。
 ゆえに、塞ぎこんでいる母に彼の記憶の料理を話す事ができなかった。
 
 だが、今いる母が、料理と呼べない物を生み出しているのは明らかである。
 これ以上ルフレを悲しませる訳にはいかなかった。
 彼女は、ああ見えても結構な負けず嫌いでもあった。
 万能である事を望んでいる訳ではなく、ただ、カラムに対して出来る事があるのに、力が足らない事を悔やんでいるのだ。このままでは、躍起になってともすれば邪竜の力まで欲するかもしれない―――破壊神なのだから、破壊する力はあっても生み出す力はあるのかは謎だが―――。
 マークの小さな手が、膝が泥にまみれるも、一向に構わなかった。
 目的の薬草を見つけるまで、決して帰りはしない。
 大切な人の為には、寝食を惜しまない。そんな性格も、すっかり母から引き継いでいるようだ。
 

「母さん!ただいま戻りました―――」
 満面の笑顔で母の前に現れたマークは、全身緑がかった泥を被っていた。目を丸くするルフレに、マークは幼い顔をさらに幼くさせ、眼前に数本の草を見せる。それも、根の部分は今のマークと同じ色に染まっていた。
「シチブリ草です。知っていますか?」
 ルフレは眉を寄せ、しばらくして笑顔で頷いた。
「そうです。これをスープに入れるととっても風味が良くなるのです」
 さあ、昼間の続きをしましょう、と言って、泥だらけの草をルフレに押し付ける。
「ぼくは父さんを呼んできますからねっ」
 言うだけ言って、彼はルフレの天幕を出る。
 マークの靴跡がすっかり、泥で象られていた。着替えていらっしゃい、ルフレの言葉は聞えたのであろうか。



 おかしい。
 出来たのは今朝と同じく鉛色のスープだった。
 料理本を一字一句忠実に作り、前回の反省点も調べ上げた上での作り直しでも、なぜこうなるのかは不可思議だったが、起死回生を願いマークが採って来たシチブリ草を入れる。
 当然、泥は洗ってある。泥臭さも綺麗に洗い流されたのは確認済みだ。
 しかし、目の前にあるのは、銀色に輝く液体。とても日々の行軍を労わる羹(あつもの)には思えない匂いであった。ルフレは思わず首を傾げ、そして漂う煙に思わず手で鼻を抑えた。

「おかしいですね」
 同じく、鼻と口を手のひらで覆っているマークも、心底不思議そうに言った。
 煙は容赦なくスープと同じ色が立ち上り、漏れ出た匂いと色に再び騒ぎが起こり始めている。軍師どの!と朝の騒動を知っている兵が叫ぶ声も聞こえて来た。

「あ、ああそうですね。父さんがいなくて良かった」
 想像を絶する匂いにえづきながらも、二人は頷き合った。本当に、不幸中の幸いであったと。
 ルフレが料理をしている最中、マークは父を探していたのだが、なぜか見つからずにいた。普段は、どんなに影が薄くとも父の姿を見つける事は容易いのに。

 本当は、カラムはいた。彼らのすぐそば。天幕の外。
 だが、いくら心根の優しい彼でも、いや、優しいからこそ料理をする妻の元へは行けずにいた。鉛の色が銀の色に"進化"したスープに、どう感想を述べられようか。それ以前に、匂いだけで生命の危険を感じているのだ。

 彼は気配が薄い事を女神に感謝していた。生まれて始めてかもしれない。
 

14/11/30   Back