チキとサイリ




 「か、つ、も、くせよ〜!」  
 アンナは突如、持っていた仕入れ用の荷物から一つの箱を取り出した。  
 箱は手の平ほどの細長い紙箱で、アンナの手の中でからからと乾いた音を立てていた。  
 その場にいた者は十あまりの兵士たちだった。アンナの突然の大声に、驚いてつい立ち止まる。皆、彼女の事だから、何か"ろくでもない"商売を思い付いたのであろう―――すぐに脳裏がそう結論を出していた―――が、イーリス、ヴァルム両大陸に全に何かしらの繋がりを持つアンナである。もしかすると、かなり役立つ品々を仕入れて来たのかもしれない。止めようとする声を背中に受けつつも、幾人かの見物客は女商人の方へ吸い寄せられる。年かさの兵士らの忠告よりも、若い兵士たちの心では興味の方が勝っていたようだ。  

 数人の兵士―――しかも十代の若い―――たちの興味深々といった顔ぶれに、アンナは満足そうに両の頬を上げる。
「今日はね、この中のお菓子を使って、好きな人と"ある事を"すると、幸せになれる日なのよ!」
 アンナは箱の蓋を開け、細長く焼き上げられた菓子を皆の眼前に摘み上げた。  
 当然、彼女の言っている事は嘘である。しかし、細長い焼き菓子を初めて見る若者達が、それが嘘と知るはずもない。  
 それに、"ある事"は、意中の人物、または恋仲の相手と縁が深まるのは確実だった。ゆえに、嘘への罪悪感は微塵もない。
「そのやり方ってのがね……あ、ちょうどいい所に。チキー!サイリも、ちょっとこっちにいらっしゃいな」  少し離れて、神竜の巫女と、その護衛役となったソンシンの王女が歩いているのが見え、女商人はすかさず大声を上げる。  
 チキはアンナの呼びかけに何の疑問の持たずに足を向けようとしたが、サイリがすぐさま彼女の腕を引く。
「巫女どの、行かない方が」  
 神竜族の王女であり、巫女であるチキは、あの女商人には何度も商売道具にされかけた身である。が、気の遠くなるような年月の中で幽閉や眠りに就いた時間がほとんどの彼女の人生では、ろくな事がないと予測できてもつい反応してしまうらしい。
 巫女どの、と諌める声が強くなろうとも、チキは悠然とアンナへと体を向ける。巫女の守護者として、いや、この先に待っている巫女(と己の)の被害を少しでも軽減する為に、サイリは溜息をついてチキの背中を追った。

「ねえ、チキ。あなた今大切な人はいるのかしら?」
 側にやってきたチキに、アンナは満面の笑みを浮かべてそう問う。絶対に何かよからぬ事を考えている。サイリがそう思わずにいられないほどの笑みだった。
「そうね……」
 チキは、穏やかな顔にほんの少しだけ翳らせる。誰も気づかなかった。
「わたしにとっては、今いる皆が大切だわ」  
 すぐさま返って来たチキの答えは、さすが巫女らしいものであった。
「じゃあ、もっともっと仲を深めたいなあ〜って思う人は?」
「アンナ殿!」
「サイリ」
「……はっ、申し訳、ございませぬ……」  
 チキに咎めを孕んだ声で名を呼ばれ、サイリは調子に乗っているアンナについ声を荒げた事に恥じる。が、すぐに別の声色で巫女からサイリの名が呼ばれる。
「サイリと」
「えっ?」
 最初に鼓膜を打った時は、間違いではないかと思った。
「巫女ど……」
「あ、サイリなのね」
「ええ。友達だって言うのに、こんな態度のままなの」  
 そうよねえ、と言いながらアンナは箱の中から細い焼き菓子を一本摘み上げる。
「巫女どの、何たる事を仰るのです?わたしは巫女どのをお守りする―――」
「だから、そういうの止めましょうって言ったのに。わたしは皆と同じように、サイリと仲間、いいえ、友達でいたいのよ」
「そうそう。だから"これ"で仲を深めましょ。ね?」  
 細い棒のような焼き菓子が、つい、とチキのサイリの眼前に付き出された。  
 見た事もない細い形状の焼き菓子に、チキもサイリも、周囲の若い兵らも目を丸くするだけだった。まるで針か、若枝を彷彿とさせる。斯様なまでに細く焼き上げることが可能なのか。皆々折れそうなまでに細い菓子に目を奪われていた。

「この先をね、まずチキが咥えるでしょう」  
 目の前の焼き菓子の細さを凝視していたサイリは、アンナの言葉で我に返る。
「アンナどの、何たるはしたな……」  
 サイリの止める声も聞かず、チキは素直にアンナの言葉に従う。しかも、アンナに促され、焼き菓子を口に咥えた状態でくるりとサイリの方へ向く。
「今度はこっちの端っこをサイリが咥えまーす」
「なっ何を申すか!」  
 サイリの頬が一瞬にして朱色に染まる。思わず腰の剣に手が伸ばしかけた。
「ほらほら、チキが待ってるわよー」  
 目の前のチキの状態を見て、すぐに我に返る。巫女どのをこんな格好のままでさせたくはない。しかし、目の前にはアンナだけではなく、幾人かの軍の同胞らが固唾を呑んで二人に視線を送っている。巫女どのは見世物ではないのだ―――! 
 早く終わらせんと、サイリは渋々と背を伸ばした。やはり、チキの好奇心は意地でも止めるべきだったと後悔を全身に纏わせながら。

 奇妙な静寂の中、その行為は続けられた。
 ―――近い。
 そう意識し始めた途端、同胞らの視線も、息を呑む音もサイリの耳には入らなくなっていた。
 月の光を跳ね返したような肌も、ミラの大樹の新芽を思わせるような髪も、今サイリの間近にあった。手を伸ばさくとも、触れてしまえるような。
 気になるとか、恋慕とか、そういう感情とか抜きに、ただただ近いのだ。いくら仲の良い同性相手でも、この近さで馴れ合うのは気が引ける。しかも、相手は巫女と崇める女性だ。心臓が早鐘を打つのも無理もない。

 そうだ。早く終わらさなければ。巫女どのにも迷惑がかかってしまう。
 意を決して、サイリはチキがそうしているように、瞼を閉じ、待った―――いや、待つ?この先は、どうすれば?
 動揺が勝り、つい瞼を上げ、横にいるアンナに目を遣った。育ちの良さに加えてこの状況のせいもあり、何かを咥えた状態で喋るのは気が引ける。だが、とサイリが言葉を発しようとした瞬間、己の顔に濃い影が被さった―――かと思うと、口元に温かいものが触れた。驚いて視線を戻せば、先刻よりもさらに近くに、神竜の巫女のかんばせが―――
「―――っ!」
 顔がかっと熱くなり、反射的に焼き菓子から口を離す。ほう、と背後でいくつかの嘆息がした。
 神竜の巫女は、慌てるサイリを目前にして平然とした顔で焼き菓子を齧っている。
「おいしいわよ、これ」
 と、チキは呑気に言うが、サイリは二の句が継げずにいた。手を口元に当てる。焼き菓子の味など、当然ながらサイリには分からない。
「と、いう訳で、これ欲しい人!今なら特別価格二百ゴールド!」
 ざわめきと、小銭が鳴る音が忙しない。結局はまたしても神竜の巫女―――と、その護衛―――を商売に使われてしまったのだが、今のサイリにはアンナを咎める気力はなかった。愕然としていると、目の前に細い棒菓子が現れる。
「はい。アンナから一本もらってきたの」
 顔を上げると、チキの容貌があり、再び先刻の事が思い出されて息が詰まりそうになった。
「有り難く……存じます」
 ゆえに、うつむいたままでサイリはそれに手を伸ばす。チキは困り顔でそっと焼き菓子を手渡した。当然だが、先刻のように"口移し"でとはいかない。
 サイリは早鐘を紛らわすために、焼き菓子を齧った。バターの香ばしい香りと、ほんのりとした塩味が沁み渡る。確かに、美味である。サイリは無意識に唇に手を当てた。
 

15/04/04 Back Next