私には光があるもの



冷えた空気は音を良く通し、ペン先が羊皮紙にこすれる音がだけが響いていたが、扉を叩く硬い音がしんとした空気を破る。廊下からの風で傍の燭台が揺れ、その冷たさにようやくペンを握る手を止めた。

「……こんな夜更けまで、体に障るぞ」
 彼の言葉と、いきなり長身が入り口に立っていた事で、部屋付きの従者を下がらせていた事を思い出した。
 
 顔を上げて来訪者の顔を見遣ると、聖王の顔は、心底ルフレを心配しているような、困ったような顔になっていた。日没の鐘が鳴ってもなお部屋に詰めている理由を口にするも、それで納得するような王ではない。
「復帰したばかりのお前だけ働かせて、おれも休める訳ないだろう。明日は早いのはお前も一緒だ―――え?出席しない?」
 ルフレはしっかりと頷くと、クロムの顔は余計に険しくなる。
「しかしな……そんな事は誰も気にしてはいない。お前も国の重鎮のひとりだ。式に参列する義務はあるぞ」
 クロムはルフレを友として、国の家臣として重く置いている。ルフレも私人としてクロムの友でありたかった。しかし、公人としてはイーリス軍の軍事を取り仕切る役目は受けたが、表に出るのを由としなかった。右手の忌まわしい印は消えて久しいが、流れる血はあくまでギムレーを信奉する男のものであって、この身も一度はクロムとイーリスを滅ぼさんとした。

「―――分かった。気が向いたら参列してくれ。"おれ達"だけでめかし込んでいるのはたまらんからな」
 "おれ達"とは、新年の祝賀の主宰となる聖王一家の事だ。幼い頃から市井に慣れ親しんで来たせいか、王族である癖に、公的な行事やそれに伴う服装をひどく嫌がる。新年早々、窮屈な礼服を纏い、何かするでもなくずっと座っている事に既に嫌気が差しているようで、どうせならばとルフレも巻き込む魂胆らしい。
 ルフレの顔が緩んだのを見て安心したのか、クロムは片手を軽く挙げて部屋を去って行った。クロムも彼女の頑固さは良く分かってはいるようで、新年の祝賀の出欠はともかく、彼女の仕事をこれ以上邪魔するつもりはないようだ。

 友が去ると、静かな夜が帰って来た。
 昨日降った雪で外は白く覆われている。今は雪は止んでいるが、またいつでも降って来てもおかしくない程の冷え込みようだった。
 山積みの書類からひと束の羊皮紙を取り出し、目を通す。来年の部隊編成の仮の案だ。イーリス王国軍は、大規模な縮小を強いて来た時代から方向転換し、防衛を目的に徐々に軍備を強化している。経済的な余裕もない上、先王エメリナの悲願を踏みにじるのかと、数年前に壊滅を味わったにも関わらず反対意見も少なくはなかった。だが、実質無政府状態のペレジアの安定と、そのペレジアと隣接するイーリスの治安を考えれば、軍の拡大は必要不可欠だった。今までのように、私設の自警団だけでは守り切れるはずもない。

 自警団。
 その名を思い出し、ルフレの瞳がふっと細くなる。
 思えば、ここが彼女にとっても最初の場所だった。記憶を喪った、どこの馬の骨とも知らない者を手放しで受け入れてくれた。いつからかルフレはここを己の帰る場所と思っていたようだ。邪竜と共に消滅したはずだった身は、イーリスの、"始まりの地"で目が覚めた。結局ルフレもクロム同様自警団の一員のままでいる事を許されはしなかったが、ルフレは帰って来たのだと信じて止まない。

 イーリス正規軍の仮案をまとめ負えると、一枚の書類が目に付いた。ほとんどが羊皮紙の束であるのに、これだけはたった一枚の紙。ルフレはそれを何気なく手に取り、目を通すと、白い光が紙面を照らした。ルフレは思わず目を細めて窓を見遣る。新しい日が、年がやって来たのだ。

 ルフレは立ち上がる。かなりの時間を座って過ごしていたので、ふらついてしまった。窓の外の世界は次第に光で染め上げられ、同時にわあっと歓声が上がる。新年の為に開放していた王城の敷地へ、日の出を見に来た民たちの声だろう。

 ルフレはバルコニーに出ると、雪の大地に歩く姿を見つける。積もった雪と、雪に光が反射する中では余計に風景と同化しているようで、ルフレはそれがおかしくて堪らなかった。名を呼び、手を振ると、彼も微笑んで手を振ってくれた。が、次の瞬間、カラムの顔が凍りつく。ルフレはバルコニーの手すりを乗り越え、カラムの許へ、正確には雪が厚く積もった先に背中から飛び込んだ。

「ルフレ!」
 鉄靴が雪を急いで踏みしだく。
「何て事をするんだ……!」
 普段は穏やかで、滅多に感情を逆立てる事はないのだが、今回ばかりはさすがのカラムもルフレの所業に眉を寄せる。
「雪の山なのを見越してたって言ってもね……」
 おまけにこんな寒い格好で、とカラムは己の羽織っていた外套をルフレに掛ける。礼を言うルフレの顔が、思ったよりも血色が良い。顔では咎めていても、カラムの内心は安堵していた。年明けの会議の為とは言え、最近は彼女は城に詰めっぱなしだった。ルフレも、家に帰らずにいる日が多い事を詫びる。ルフレは軍師で、カラムは自警団勤めだ。ただでさえ共にいる時間が少ないのに、年の瀬が迫るとそれに輪をかけていた。
「いいんだ。君は君のやるべき事があるんだからね。それに、手紙を読んでくれて嬉しいよ。奮発して紙を買った甲斐がある」
 カラムの細い眼がより細くなった。
 彼は未だ自警団にいる。イーリス正規兵より、自警団でいる方が居心地がいいと言うのが理由だ。自警団はイーリス正規兵に比べて碌はかなり低い。警備も国境や辺境も多くなり、自警団古参のカラム自身も、冷え込む深夜から今まで、王城周辺の警備に当たっていたのだ。自警団の待遇も改善させるのも己の使命だとルフレは思う。

「さあ、立って。体が冷えるよ」
 カラムに手を取られ、ルフレは立ち上がる。腰から下がほとんど埋まっていた為に、ばらばらと白い塊が足元に落ちた。
「部屋まで送って行くよ。新年の祝賀もあるんだよね」
 ルフレは目を丸くして、カラムを見ていた。どうしたの?と訊くより早く、繋がっている手が強く握られた。カラムの頬も、思わず緩む。
「ああ、そうだね。陽が昇りきるまで」
 東の空から降り注ぐ光を、真正面から受け止める。この光のために、自分は帰って来たのだ。
     

14/01/03   Back