わたしは光に会いにきた




 ひら、と雪ではない何かが、確かに目の前を横切った。
 瑠璃色に、深い青に縁取られた光を追っていると、空の色が、灰色とも青色とも言えない色に染まっている事を知った。
 幼い彼にとっては初めて見る、この不思議な光と空の、表現しがたい色にあんぐりと口を開けて仰いでいたのだが、首根っこ辺りが痛くなった所で彼は我に返る。

「あっ……」
 早朝の時間帯にもかかわらず、人の波は。しかし、彼の心は一瞬にして不安と絶望に染まる。冷たい外気がつん、と鼻の奥を突いた。その瞬間に、熱い感覚を目がしらに覚える。

「おとうさん!おかあさん!」
 人ごみの中で彼は叫んだ。
 しかし、騒然としている空気は彼の呼び声をいとも簡単にかき消されてしまう。少年の近くを通る大人も、彼を振り返る事すらせずに道を往く。

「おとうさん!おかあさん!」
 彼は雪を蹴って走り出した。
 老若男女、皆々一方向へ歩いているのだが、人の流れに逆らって駈け出す少年には見向きもしない。ぶつかりそうになり、ようやく彼の存在に気付かれるも、面倒だとばかりに一瞥されるだけで、反応は決して友好的ではなかった。少年自身も別段誰かに頼ろうなどとは考えてはいなかったのだが。普段から、彼に対する見知らぬ大人の反応は、このようなものであったのだから。

 まだ幼い少年ではあるが、己の両親や親戚以外は、まるで己が最初からいないような素振りである時があると勘付いていた。彼の父は、自分に似たんだと苦笑いされた事がある。

 おとうさん―――
 少年は脳裏に優しい笑みを浮かべる父親を思い出し、冷たい風に涙をさらす。走っているために目の周りが一気に冷やされるも、一向に構わなかった。大人の数は、少年が最初にここへ来た頃より増えていた。だが、誰も彼に興味を示さずにやはり一方へ歩いている。辺りを見回しても、やはり両親らしき風貌は見当たらなかった。もう両親には会えないのか。このまま、どうすればいいのか。不安で不安で、口を開けば泣き声が漏れ出そうになる。男が滅多な事で泣くんじゃない、と、普段は優しい父が泣きじゃくる彼に言った事がある。それを思い出し、少年は歯を食いしばった。

「どうしたのですか?」
 頭上から声がかけられ、少年は思わず振り仰いだ。少年は目を見開いた。彼に興味を示し、声をかけた大人がいたからではない。
「……っ、お、おとうさん……!」
 少年は思わず背後にいた少女に飛びついた。少女は慌てて小さな体を受け止める。迷子に声をかけ、反応はある程度予測できたが、母と間違えられるのではなく「おとうさん」は予想外だった。
「え、いや、違います」
 まだ薄暗い空の下では、顔がよく見えなかったせいもあり、父と同じような濃い色の髪で真っ先にそう思ってしまったのだ。よくよく考えれば、この少女の背丈は、それほど高くなく、少年の母よりも低かった。それを背が高くがっしりとした父親と間違えるのも、いくら平静ではないとは言え、妙なものだった。
「じゃあおかあさん?」
「お母さんでもないですよ」
 今度は苦笑いされる。彼女が女だからではなく、少女が羽織っていた上着は、紛れもない母親が愛用しているものと同じだったからだ。闇色の上着には、黄銅の縁取りがされ、両腕には四対の複雑な模様が染め抜かれている。
 それを身に着けていただけで、どう見ても子供がいるようには思えない少女を母親と呼ぶほどに、少年の頭は混乱していた。

「お父さんとお母さんとはぐれたの?」
 がっしりと抱きつく少年の髪を、彼女は優しく撫でた。周囲を見回しても、はやり親らしき姿は見当たらない。
「それなら、わたしと一緒に行きましょうか」
「どこへ?」
「ナーガ様のお姿を見に」
 でも、と少年はたじろぐ。両親から常々知らない人について行ってはいけないと言われているからだ。だが、この少女は不思議な感じがする、と少年は思った。第一が母と同じ上着。"知らない人"とは到底思えなかった。

「ここへはナーガ様のお姿を拝みに来たのでしょう?だったら、"きみの"お父さんとお母さんもあっちへ行っているかもしれませんよ」
 と、少女は大人達が向かっている岬へと指差す。少年は、そこでここへ両親と来た理由を思い出す。あれだけ暗かった空は、先刻よりも白みが増し、うごめく人の顔もはっきりと浮かび上がらせる。
 白日の下の少女の顔立ちは似ていた。父でも、母でもなく、少年が"お兄ちゃん"と呼んでいる、彼と同じ名前の青年に。

「さあ、行きましょうか。大丈夫ですよ、お父さんとお母さんには、きっと会えます」
 厚手の手袋に覆われた少女の手が、すっと差し出される。
 いたいけな子供を巻き込むような犯罪に、同じく子供が使われる事は珍しくはない、という事も彼は知っていた。だがそれでも、少年は目の前の少女を疑う事ができなかった。少女の手に、彼は手を重ねる。ふわりと笑った顔は、最初の印象よりもずっと大人に見えた。幼く見えて、実はもっと年上なのかもしれない。少年は心の隅でひっそりと思った。

「ナーガ様には、何をお許し願うのですか?」
「ええと」
 新年最初の陽光は、神竜ナーガの光。その光を前に、迷える者は往く道を願い、罪を洗い清められる。光はナーガが天空から差す慈愛の光であり、ナーガそのものであるとも言われている。少年の家は熱心なナーガ信徒ではないが、朝日が拝める絶好の場所が近場にある為に、彼が赤子の頃から毎年訪れていた。
 少年は懸命に自分のした"いたずら"を思い出し、おかあさんには内緒だけど、と付け加えて少女に告げる。告白された無邪気な罪に、少女の丸い輪郭がふっと歪んだ。
「それは、ナーガ様にきちんと言わなければなりませんねぇ」
「絶対に内緒だからね。お姉ちゃんは?」
「わたし?」
 ナーガの光を拝みに来たのだから、彼女も何あるに違いない。敬虔な信徒ならば、特に赦しを請う必要がなくとも、迷いがなくとも新年は必ず拝みに行くものなのだが、幼い彼にはそこまで推測がつかない。少女が少しだけ顔を曇らせて考え込んだのも、何か重大な罪があるのではないか、と思ったくらいだ。
「わたしはですね―――大切な人に会えますように。そう思って来たのですよ」
 少年は首を傾げていると、少女は顔をくしゃくしゃにして笑った。
「大丈夫。ちゃんと会えます、絶対に。それに、友達もできましたし」
 彼女がそう言い終ると、強い光が辺り一面を照らし、同時に歓声が上がる。神竜の名を呼ぶ声が空に吸い込まれ、それに応えるように光は広がる。陽光は想像していたよりもずっと強くて、昼間よりも強くて、少年は思わず腕で目を庇った。

「マーク!」
 焦がれてた声に、少年は顔を上げた。声がした方向へ思わず駆け寄り、父と母へ飛びつく。
「おとうさん、おかあさん……!」
 両親の顔は、幼い少年の不安の堰を切るのには充分だった。強い腕の中で、少年はすすり泣く。二人も必死で手と目を離した事を謝った。
 

「でも良かった……一人でここまで歩いたのかい?」
「あっ」
 その言葉に、マークは思わず母の腕から顔を上げた。後ろを振り返るが、あの少女の姿はなかった。
「あのね、お姉ちゃんが、」
「お姉ちゃん?誰か、ここへ連れて来た人がいたんだね?」
 マークは頷く。父も母も周囲を見回すが、彼が言うような少女は見当たらない。その少女に、両親は感謝に絶えないが、同時によく彼を見つけれくれたと感嘆している。彼らの息子は、マークは"人から存在を見つけられにくい"という父親の特性をしっかり受け継いでいた。親しい者ですら、気を抜けば、見失うほどの気配の薄さであった。

「あのね、あのお姉ちゃん、少しだけ"マーク兄ちゃん"に似ていたの」
「マークに?」
 両親は顔を見合わせた。今は世界中を旅して回っている"もう一人の息子"。その彼に似ている人物と言えば、目の前にいる二人の息子である。しかしもう一人、彼らには心当たりがあった。"彼女"はやはりこの世界の住人ではないのだが、マークの告げた言葉が、二人の憶測を確信にさせた。
「そうそう、お姉ちゃんもね、おかあさんと同じ上着を着ていたんだよ!」
 マークは再び彼女を探して周囲を見回した。彼女が羽織っていた上着は、母と同じ物だが、そう多くは出回っている物ではない。いくら人ごみの中であろうと、目立つと思ったのだ。だが、暗い空の下で出会い、最後に見たのは強い光の中であったからであろうか。彼女の髪の色だけは、どうしても思い出せなかった。
「お姉ちゃん、大切な人に会いたいから来たって言ってたんだ。もう会えたから行っちゃったのかな」
 至極残念そうにつぶやく。
 友達になったと言ったのに、何も告げずに去るなどひどいではないか、マークは顔を陰らせていると、濃い茶色の髪に、ぽんと大きな手が置かれた。
「また、会えるかな」
 父の手に、無条件の安心を覚えるのだが、寂しさは少しだけ後を引いている。
「きっと会えるよ」
 息子に微笑みかける、父と母はすっかり明るくなった空を仰ぐ。マークもつられて空を仰いだ。明るい空に、ひら、とまたあの光が視界に入った。光かと思っていたが、陽光に縁取られた美しい羽根であった。この季節に蝶など珍しい。少年には何となくあの蝶は遠くへ行くような気がした。思い出した。あの少女の髪の色は、この色であったのだ。

「大切な人に、会えるといいね」
 朝日を帯びて輝く蝶に、マークはそう呟くと、まるでそれに応えるかのように、蝶はぐるりと旋回した。  

15/01/03   Back