同郷




 歓喜を孕んだ声で名を呼ばれ、時には涙を湛えながら駆けつけらる事が、レンハの身にはままあるようになった。
 顔ぶれを見れば、皆ソンシン風土の顔をしており、中には見覚えのある顔も少なからずいた。皆々、妹と共に祖国に残ったソンシン兵なのだろう。離散した祖国の兵が無事でいるのは、純粋に嬉しいと思う。しかし、そうさせてしまったという罪悪感が、彼らの歓喜に素直に応えられずにいる。

 "レンハの世界"でも、この世界同様ソンシン軍は散り散りとなった。レンハに付いて帝国の一部となった兵、ソンシンに残り、解放軍として戦い続けた兵、どちらにも付かずに野に下った兵―――この世界では、レンハに付いてヴァルムに下った兵のほとんどは、レンハが決戦として選んだ火山地帯にて命を落とし、サイリに付いた兵は生き残った。軍籍を抜けた者以外は、命運が真逆になった事となる。ただ、その数もわずかながらで、イーリス大陸から渡来した二国連合と合流する前までは、ヴァルム帝国軍に一方的に押されるだけだったと、ソンシン兵から涙ながらに告げられた。

 誰も、レンハが帝国に下った事に、真正面から恨み言を言う者はいなかった。
 ヴァルハルトに下る理由を、軍師やサイリから聞かされていたのもあるのだろう。それでも、多くの民を混乱に巻き込み、離散させてしまったのは事実。それを胸に抱えながら、ただ「己も皆と同じ兵である」と、彼を王とすがる者に、レンハは答えるだけしかできなかった。

 その思いから、レンハは王族ながらも、サイリのように軍の進路を決める重要な軍議には出席しなかった。王族としてヴァルハルトにも敗れ、そのヴァルハルトから任された軍をもっても敗れた将が、戦術の面で何の力になれようか。己に出来る事は、敵を撃破する一騎の兵であり、さもなくばその兵を育成する事だと、レンハはその任に精を捧げた。剣を持つのも初めてだと言う新兵の教育係も進んで請け負った。ヴァルム帝国を打倒したイーリス・フェリア連合軍の名と功績は、光の速さで二つの大陸を駆け巡り、各国からの入隊希望者が絶えない。大所帯となった今、新参者の教育係は何人いても足りない。


「相手を頼む」
 夜も更けてかなり経た頃、ようやくレンハ個人の鍛錬の時間ができる。普段の習慣通りに、無人の鍛練場の片隅にて剣を振っていると、レンハの背中にそう声をかける者がいた。
 
 レンハの身元は、ソンシン兵でなくとも知れ渡っていた。新兵であろうが、熟練兵であろうが、剣の国として名高いソンシンの王に教えを請おうとする者は後を絶たない。それも己の役目だと、レンハは嫌な顔ひとつせず要請に応じている。
 
 振り返ると、そこにはソンシンの出自らしい顔つきの男がいた。同郷の者は皆レンハを王と過剰に謙った態度を前にするが、この男はそのような素振りは全く見せない。この男の淡々とした態度に、むしろ好感を覚えた。
「いいだろう」
 レンハはこの軍に入って日も浅い。彼の射抜くような瞳と、ソンシン風の出で立ちで、目の前の剣士の名を思い出した。その剣士―――ロンクーはレンハが応と答えるが早く、手にしていた剣を構えた。断りもなく真剣を持ち出したのには驚いたが、レンハはそれを咎める事なく相対するように構える。ソンシンの剣は、他国の剣よりも薄く、鋭い切れ味を持つ。向かい合った二人は、鏡に写したような剣と構えだった。
 
 双方間合いを取りつつ、ゆっくりと擦り足を動かすだけに見える。ロンクーから既に見えない攻撃を仕掛けられているのをレンハは覚った。ソンシンの刃を思わせる鋭い気魄がびりびりとレンハの肌を伝う。気を抜けば眼前の真剣で斬られるだろうと言うのに、いやに心地よく、腹の奥底から熱いものが沸き立つ。同国人の手練が、既に失ったと思い込んでいた歓喜の感情を引き起こしているようだ。

 跳ねる己の鼓動を感じていると、ロンクーは身を低くして一気に間合いを詰め寄って来た。すかさず飛び込んでくる剣を真横に薙ぎ払うと、レンハは真上に振りかぶった。ロンクーはレンハのその剣道を予想していたかのように軽々と薄刃を受け止め、薙ぎ払うと同時に後ろに後ずさる。砂埃が軽く舞った。しかし、間合いを再び取らせる暇も与えず、レンハは次の一閃を繰り出す。ロンクーも彼の剣目掛けて飛び込む姿勢を取る。鍔の鉄粉と汗が飛び散った。夜が明けた時分から、双方ともに休みなく兵の鍛錬、そして己の鍛錬に精を上げていたのだが、それを思わせない覇気が訓練場に満ちていた。
 それから更に激しい打ち合いが数十合続いたかと思うと、突如、双方は示し合わせたかのように後ろに引いた。構えは崩れてはいないものの、さすがに肩を大きく上下させていた。

「見事だ」
 構えを解きつつ、レンハは口を開いた。ロンクーも大きく息を吐きながら両腕を下げた。引き分けに終わったが、勝負を終えるのを了承した証拠だろう。実際、ともに体力は限界まで来ており、これ以上無理すれば明日の行軍に支障が出るのを弁えていた。

「ロンクー、と申したな」
「ああ。"お前の国"の出身だ」
 お前の国、と言われ、レンハは眉を渋く寄せる。無礼な呼び方に気を悪くした訳ではないが、皮肉が含まれているようには聞こえた。
 レンハは"この世界"の人間ではない。妹を喪い、国も兵も全てを喪った男だ。しかし、この世界のレンハは違う。己とは違い、国を失いはしたが妹と彼女に従う者を守り切った。

「そなたの師は誰だ?」
 その苦渋を振り切るように本来の目的を尋ねると、今度は逆にロンクーの眉が動く。しかし、レンハとは違い、彼の口の方は微動だにする様子もなかった。
「言いたくはないか。基礎はソンシンの剣が残っているが、様々な国の剣技が混ざっているように見えたから気になってな―――もしかして独学か?」
 濡らした手巾を渡すと、ロンクーはやはり無言でそれを受け取った。レンハももう一本の手巾を首に当てる。籠った熱気が早急に解放される感覚がして、心地良い。
「すまぬ。喋り過ぎたようだ。つい羨ましくてな」
「羨ましい?」
 剣の名手と出会い、心浮かれているレンハの声とは逆に、ロンクーの声は低く響く。
「ああ。その剣、遊歴の長さが伺える。私も近隣諸国へ剣を学びに行った事はある。しかし、短い期間だった」
 父王は後学の為にと嗣子を諸国へ遊学へ出したが、ヴァルム全土に広がらんとする戦乱の影を悟るとすぐにソンシンへ戻した。その時からだろうか。レンハ自身も国が、いやヴァルム大陸に吹きすさぶ風に不穏なものを感じ取り始めたのは。
 
 故郷の有りし日に思考を旅立たせていると、不意に、隣で鼻を鳴らす音が聞こえた。声色だけだった皮肉さが、今は笑みとなってありありと彼の顔に浮かんでいた。
「遊歴、遊歴か。随分と呑気なものだ」
「なに?」
「ソンシンの王よ。おれは、ソンシンのハルダ地方、東ミンダガの出自だ」
 レンハは口を噤む。無論、ロンクーが告げた地名に覚えがない訳ではない。
「分からんか?ソンシンの城で育った高貴なる者は、自国であろうと片隅の地名など知らんのか」
 その地出身であるという事は、どのような暮らしぶりだったのかもすぐに理解できた。口を開こうとしたが、憎悪と皮肉が混じった声に畳み掛けられる。
「おれの最初の"師"はな、ソンシンの兵士崩れどもだ。毎日酒びたりで、孤児や浮浪者を斬って憂さを晴らすどうしようもない連中だ」
 重い口から紡がれる言葉には微かに熱が篭っていた。レンハは完全に言葉を失っていた。いずれソンシンを率いるとして、幼い頃から厳しい鍛錬を積んできた身ではあった。ソンシン王家の男子は皆通る道で、時には命を落とす者も出たほどの過酷さだった。しかし、彼の歩んで来た道と比べれば、己のいた環境なぞ平坦なものなのだろう。無論、父や歴代の王が自国の貧民に対して無関心であったはずはない。

「まあいい。口が過ぎた。忘れてくれ。おれの本当の師はな、フェリアの西の王だ」
「フェリアの……バジーリオ殿の事か」
「ああ。貧民街で腐っていたおれを、たまたま外遊へ回っていたバジーリオが見つけてな。なぜか気に入られてフェリアへ連れて行かれた。遊歴が長いのはバジーリオだ。あいつから剣を学んだのだからな」
 そうか、とレンハは生返事で呼応するも、彼の過去については、それが総てだとは思えなかった。勿論、バジーリオが彼を見込んで片腕としているのは知っている。だが、レンハはフェリアの事情をも折込済みでいざなうつもりではあった。しかし、彼の西の王を語る口調は、深い信頼の重みがあるのを知り、本来の言葉を紡ぎ出せずにいた。
「済まなかったな……」
「謝る必要はない。どの国にも貧民は必ずしもいる。ただ、その数をいたずらに増やす事だけはしてくれるな。おれが言いたのはそれだけだ」
 レンハは片眉を上げる。レンハが彼に謝った理由は、ロンクーの思惑とまるで外れている。それに、ロンクーの言い分は、まるで己がいずれソンシンへ戻るような口ぶりであった。
「違う。ロンクー殿……違うのだ。私はこの世界の者ではない。この世界では、レンハは死んだ。そうであろう」
 吐き捨てた言葉に、ロンクーはさして興味のないような顔色だった。
「私がそなたに謝ったのは、この戦が終われば、ソンシンへ行ってもらえまいかと軽々しく誘おうとした事に対してだ」
「おれが、ソンシンへだと……」
「うむ。私はもう祖国の土地は踏めぬ。だが、ソンシン出身でもあるそなたが、我が妹の力添えとなってくれれば、どれだけ頼もしいかと思ってな」
「くだらん」
「そうであろうな。そなたは次代のフェリアの西の王―――」
「そうではない」
 レンハの言葉をロンクーは刃のようにばっさりと切り止める。その言葉通りの、心の底からの声色が訓練場に響いた。
「くだらんのは、お前のそのこだわりだ。なぜ祖国へ"帰れない"?お前の存在を喜ぶ連中は大勢いる。望まれるのならば、妹と、彼らと共に帰るがいい」
 それは、と口篭る。レンハがこの軍に参戦してから、ソンシン兵の部隊は滅法強くなった、とルフレも彼に感謝していたのも思い出された。
 妹も国も失くし、我が身も死んだも同然と思っていた。しかし、妹が生きている世界へ飛んだからには、元の世界で成し得なかった事を果たそうと剣を抜いた。だが、その後の事とは話が別だ。本来いるはずのない人間が、いつまでものさばるのは理から外れている。それに、己は祖国に対してどれだけ罪を犯したか。今更故郷の土を踏めるはずもない。
 
 しかし、ロンクーはそれこそ愚かだと言い放つ。
「帰る場所を決めるのは自分だ。王ではないと言うのなら、道理を考える必要もないだろう」
 ロンクーは手巾で汗を拭きながら、ぽつりと言った。もしかすると、豪傑王の精神も受け継いでいるのではないだろうか。レンハはふとそう思った。
「全てが終われば、おれはフェリアへ帰る。おれが後継者だからとかそういうものではない。おれが決めた事だ。」
「そうだな」
 少し、喋り過ぎた。そう言い放つと、ロンクーは訓練場を後にした。
 レンハは純粋に彼が羨ましかった。道を標してくれた恩人のお陰でもあるが、己の進むべき道に迷いがない。
 
 ともに、ソンシンヘ。
 レンハの脳裏には、涙を浮かべて縋る妹の顔が浮かんで仕方がなかった。
 邪竜を斃したそののち、剣聖レンハは忽然と姿を消した。彼の姿を見た者は誰もいない。  
13/12/03   Back