飛竜と家族と 1



 眼下は深い谷。生い茂る木々から、頼りない吊り橋の掛かる大地までは、天と地ほどの距離があるかに見えた。セルジュはその更に上空を愛騎に跨って、ゆっくりと旋回している。谷の住人らは、見慣れない飛竜と人間の気配をすぐに察していた。あちらこちらの空で、鳴き声が反響し合っている。

「どう?」
 セルジュは、振り返りもせずに、背後の同乗者に話しかける。天気は良く、気候も風も穏やかではあるが、竜に乗って飛んでいれば、轟々と空気が擦り切れる音が絶え間なく耳を騒がせる。おまけに、谷から空に渡ってあちこちで響く竜の鳴き声。敵意はないとセルジュは言うが、警戒を解いていないのも彼の勘が告げている。それでも、同行者―――ロンクー―――には、セルジュ

「二十……六、いや七だな」
 飛竜は生息地が限られているが、群れを成す事はほとんどない。上空も、かなりの数が飛んでいるが、鳥のように整然とした列を組んで飛ぶ姿は見られなかった。
 ロンクーは、足が地につかない不安定さに冷や汗をかきながらも、滑空する飛竜を素早く数えていた。さすが日頃鍛えているだけの事はある。恐怖に色を染めつつある状況でも、動体視力は伊達ではない。深い谷に響き渡る竜の鳴き後だけでは、個体数は判断つきにくく、目視に頼るしかなかった。飛竜での飛行に対し、多少の苦手を持っていてもロンクーを連れて来たのはこの為でもある。
「そう。こっちは六頭ばかりいるわ」
 セルジュは前方にいる飛竜の数を把握すると、手綱を引いてミネルヴァの首を下げさせる。降りるわよ、と言うなり、変わらない速さで谷に降下して行った。ロンクーは少し身体を緊張させた。何度もミネルヴァの背に乗っている。しかし、浮上している時も勿論だが、降下中のこの体に張り付くような風と、腹の底から湧き上がる不快感は慣れる事はなかった。

 

 谷に降り立てば、薄暗い世界が広がっていた。上流から流れる沢の水は澄み、木々や草は所狭しと生い茂っている。ひんやりとした空気が、長旅には心地よい。セルジュの肌を、澄んだ空気と竜の気が撫でる。いつ訪れても、彼女にとっても安らぎを覚える場所だ。

 地上に降り立ったロンクーも、安堵の表情で汗を拭い、沢へ小走りに急ぐ。ミネルヴァの背に乗るのは数え切れないほどあるが、空での疲労感は、地に足を着けている時とは比較にはならないようだ。
 ロンクーはひとしきり喉を潤すと、顔を上げて谷を見渡す。ジェロームは、とセルジュに尋ねた。息子とは、数多く流れる沢の中でも、一際大きな沢の下流であるこの場所で落ち合う事を約束していた。しかし、いくら首と視線をを巡らしても、息子とその愛騎の影も気配も見つからない。地に降り立てば神経は上空とは段違いに働く。
 邪竜との戦いを終えた後、"未来の"ミネルヴァと、彼女の同胞の安寧を求めて、飛竜の谷へ暮らし始めたジェロームだった。土地勘はセルジュたちよりあるはずである。

「まあいいわ。こちらはこちらの"仕事"をしましょうか」
 ミネルヴァに水を飲ませていたセルジュは、息子との合流をあっさりと諦め愛騎の鞍を整え始める。深い竜の谷で、人ひとり探すのは、例え飛竜に乗っていても困難だ。今回二人が出向いた件も、ジェロームが偶然谷から出た際に、無理矢理こじつけた約束で、彼は乗り気ではない顔をしていた。それに、ジェロームも子供ではない。息子の住む場所で、当人が迷おうが気にする必要はない。
 ロンクーも同感らしく、軽く頷いて沢から離れる。長らくの飛行で疲れは普段よりも重く、歩いた方が気楽なのだが、細長い谷底を絶壁が囲むような地形となると話は別だ。
 また頼むな、とロンクーはミネルヴァの岩のような額をひと撫でする。見た目通りに気性が荒い飛竜が、乗り手以外の手にあっさりと首を下げるのは、彼を家族同然と迎え入れている証拠だった。

 二人を乗せた竜は再び空高く羽ばたく。地図などはなく、飛行する方角は状況任せだ。もっとも、今回の目的は、地形や土地勘に頼るものではないのだが。
 上空から大雑把に製図する事も出来ない事はないが、ジェロームがそれを許さなかった。万が一にでも地形図などが流出すれば、この谷に入り込む不届き者が増えるかもしれない、と彼は言う。
 飛竜そのものの価値は勿論だが、翼や鱗、血液、爪―――飛竜の体の一部だけでも、妙薬の原料になると、怪しげな医師や呪術師が高値で買い取っている。ゆえに、ならず者の侵入は後を絶たない。

「どう?ミネルヴァちゃん」
 尋ねてみるも、ミネルヴァは空を飛ぶ竜にどのような目を向けているのかは分からない。幾つもの修羅場を映し出した鋭い瞳は、確かに大空を滑空する同族を捉えてはいる。だが、その視線の先にセルジュの思惑の実を果たして結ぶかどうかは、例え家族と言えども予想がつかなかった。今までの経験上、目的を成すのは難しいと、セルジュも充分すぎる程に分かっている。

 だからこそ、息子の手も借りて竜の谷まで、遥々海を越えて訪れたのだ。イーリス大陸にも、竜の谷ほどではないが飛竜の生息地はある。だが、ミネルヴァはこの谷の生まれだ。同郷の同胞ならば心許すであろうと期待して、この時期を選んでフェリア王より暇を得たのだが―――

 ミネルヴァの気配が逆立つのと、強い風が吹き付けるのは同時だった。ロンクーは思わず呻き、身を低くする。ただ飛行するだけなら何とか体勢を保っていられるが、飛竜の背での戦闘となると、剣を抜くのが精一杯で、地上と同じく振る事は叶いそうもない。
「ロンクー、しっかり掴まっていてね」
 その忠告は、これから起こる事態が、ロンクーの予想を超えるものだと示していた。無論、ロンクーの剣に期待を寄せていないのも含んでいる。ロンクーはその声に従い、身を低くしたまま、セルジュの背中にしがみつく。ロンクーの頬がセルジュのうなじに押し付けられ、彼女の長い髪が強風になびくのを防いだ。彼女の髪と肌が淡く香り立つが、それに胸を火照らせる余裕すらない。脳裏の片隅でみっともないとの言葉が浮かぶも、これから起こる不測の事態を思えば、面子など気にしてはいられない。
 片翼だけでも一杯に広げたならば人の背ほどもある。近距離で両翼をはためかせられれば、まるで嵐のような大風だった。ロンクーは吹き飛ばされないようにするので必死だった。当然、剣など抜けはしない。
 他の竜に比べれば、大きめの躯を持つその竜は、ミネルヴァたちの周りを旋回しては、時折先刻のような大風を吹かせて大声で啼いていた。もしかすると、ミネルヴァの背に乗る二人を"異質"とみなして、彼女の背から二人を落としてしまおうとしているのかもしれない。

「躯もがっしりとしているし、翼も強くて素敵だわ。何より、鱗の艶がいい―――」
 至近距離の嵐をものともせずに、セルジュは冷静に相手の品定めをしていた。信じられないと思うと同時に、さすがだと、ロンクーは心の中で感嘆する。
 しばらくして、ロンクーの周りの空気が、重く皮膚にのしかかる。雄竜の風ではなく、ミネルヴァが降下しているのだと感じた。地面が近くなるにつれ、ロンクーの胸に安堵が下りる。まだミネルヴァの躯が浮いている内にロンクーは飛び降りた。セルジュも同様だった。

「下がって」
 言うな否や、セルジュはロンクーの腕を引っ張り近くの岩陰へと身を寄せる。
「上手くいけばいいが」
「本当にね……」
 如何にミネルヴァと一心同体同然のセルジュとて、こればかりは見守るしかない。ミネルヴァは勿論、彼女の後を付いて雄の飛竜も地表近く降りて来ていたが、ロンクーとセルジュの腰が浮いたと同時に、すぐさま上空へ飛び上がる。二頭の竜の啼き声は、ロンクーの腹にびりびりと痛いほど響く。間近で雷鳴が幾つも落ちたような感覚だった。
「大丈夫か……?」
 腹に残る余韻を抱えながら、空を仰ぐ。ロンクーは飛竜の求愛行動を初めて目の当たりにする。
 彼の目には、獰猛な飛竜が上空で戦っているようにしか見えない。だが、セルジュは順当な求愛行動だと視線を空に遣ったまま告げる。このまま二頭はぐるぐると旋回し睨み合っているが、セルジュの思惑通りに事が運べば、いずれ尾を交わらせるはずだ。 
 雄の飛竜は鱗の一部と腹を赤く染めていた。発情期に入った飛竜の特徴だが、ミネルヴァにはその変化は全く見られない。ただ相手が気に入らないだけなのか、それとも恋そのものに関心がないのか。セルジュもロンクーも固唾を飲んで見上げていたが、二人の願いも虚しく、数周の旋回と躯のぶつかり合いの後、ミネルヴァは雄竜の首を食いちぎらんばかりにかぶりついた。雄の飛竜の悲痛な声が空に吸い込まれる。

「やっぱり、ミネルヴァちゃん以上の強い竜は存在しないのかしら……」
 谷の奥深くへ逃げ込む雄竜を眺めながら、明らかな落胆をセルジュは吐き出す。こればかりは、彼女とて意図的に操作できる訳もない。
 そもそも、自分が竜の谷へ付いて来たのも間違いではないかとロンクーは思っていた。陸路の護衛ならともかく、空路ではロンクーは何の役にも立たない。ましてや、飛竜の交配など。だから、セルジュの旅は一人で向かわせる心づもりだった。谷にはジェロームもいる。しかし、バジーリオに「女房が実家から戻らなくなっちまってもいいのか」と強引に城を追い立てられてしまった。

 得意げに降下するミネルヴァに、セルジュは困ったように笑みを向ける。先刻上空にいた飛竜だけでも二十数頭ほどいる。谷間にも更にいるのだろう。その内、ミネルヴァを見初めた雄がどれだけいるか。ジェロームは数を把握しているようだから、彼がいれば出会いも楽になると踏んでいたのだが。

 ロンクーは空を見上げる。木々と断崖に狭まれた空を、時折飛竜が飛び交う。ざわざわと枝が風に揺られる。ロンクーはすぐに首を戻し、谷中を逡巡する。その目つきは、戦場の色に変わっていた。
「セルジュ」
 視線は遣らずに、低い声で妻を呼ぶ。セルジュの顔にも、落胆の色は完全に消え失せ、完全に別の気が張られていた。ミネルヴァも同様、いや、二人以上に谷に広がる異質な気を感じ取っている。ばさばさと忙しなく翼を動かしながら、身を低くしていた。乗れ、と言っているように。

 
14/03/02   → Back