始まりの夜

 闇夜に浮かぶ星のように、松明の火は点々と広がっていた。地上の明かりは、館の門をくぐり、広場へと次第に流れ込んで行くのが良くわかる。そこを一望できる三階にてではあるが、彼らの足音や息使い、鼓動まで届きそうだ。
「迫っているね」
「ええ、鬼気として」
 だが、声は全くと言っていいほど聞こえては来ず、梟の鳴き声と蝙蝠の羽音がいやに強調されて聞こえた。皆口を閉ざし、ただ黙々とこの館を目指して来たようだ。それが却って彼らの内面を切実に示している。館を守る兵と揉み合った様子も一向に聞こえて来ない。それに、彼ら―――ヴィオール家の兵士ら―――も、民たちと意志を同じくしているのは、彼も前々から知っていた。主とは反対の志を。

「さて、私はどうしたらいいと思うかね?彼らは私の案が余程お気に召さなかったようだ」
 ヴィオールは体ごと窓から離れ、肩をすくめた。
「お分かりでしょうに」
 彼に長年仕えて来たセルジュは、くすりと笑って返す。確かに彼の意には背いているが、至極落ち着いたものだった。

 松明に照らされた皆々の顔には、固い決意と領主への怒りがはっきりと浮かび上がっていた。つい先日も、小国だが武勇を誇るソンシンが帝国に下ったとの報が、ヴィオールにもたらされた。民衆もそれを知ったのだろう。更には、ヴィオールが村々の顔役に出した提案。それが彼らに火を点けてしまったようだ。武装して集まれば民意を汲んでくれると思ったに違いない。どこから調達したのか、いっぱしの傭兵にも見える装備をしている男もいる。

「しかしねえ……」
 ヴィオールの指は彼の細い顎を撫でる。
 もう一度顔を窓の外へ向けると、燃える松明の炎が彼の目に飛び込んだ。彼はじっとそのまま、その炎を目に写す。


「領主様!」
 夜空に男の怒号が響いた。広間に面したひとつの部屋の明かりで、ヴィオールの姿が浮かび上がったのが見えたらしい。最初の声を口火に、他の民衆たちも一斉に声を上げた。
「抗戦を!」
「おれ達は戦う!」
「もう帝国軍はそこまで迫ってるんだ!」
「ロザンヌ以外におら達の居場所はねえ!」
 今まで押し込めていたものを全て吐き出さんばかりに。夜半の冷たい空気は民衆の決意を高々と響かせる。

 静寂が急に喧騒の世界へと変わるも、やはりヴィオールは顔色ひとつ変える様子はなかった。正直、意外ではあったと彼も驚いている。まさか領民が意を決し、武器を取って抗おうとするなど。
 ヴァルム帝国は破竹の勢いで勢力を増しながら大陸中を暴れ回っている。近隣諸国は瞬く間に飲み込まれ、滅ぼされ、帝国の版図の一部にならざるを得なかった。今のヴァルム帝国、いや皇帝ヴァルハルトは、吹き荒れる嵐そのものだった。

 ゆえにヴィオールは、とある決断を領民をまとめる顔役らに告げた。ヴァルム帝国が攻めて来る前に皆で故郷を離れると。
 顔役達は驚きを隠せなかったが、真っ向から反対する者は誰もいなかった。老人たちは今広間に集まっている男たちより冷静だった。ヴァルムに抵抗できる力など、ロザンヌにはない事を。体力のない彼らとて、住み慣れた土地を離れ、新たな土地を探して長い旅をする体力はない。しかし、このままヴァルムに搾取されて生きるか、戦いに散るか、流浪の民となるか。選ぶ道は限られていた。
 だが、民衆の大半は流浪の民になる事を拒否した。ロザンヌの民としてヴァルム帝国に抗う道を選んだのだ。

「セルジュ君」
「はい」
「……私は、間違っていると思うかね?」
「思いませんわ。全く」
「やはり思い止まり、彼らの意を尊重―――」
「などとは、露ほどにも思っていらしてないでしょう?」
 即答にヴィオールは苦笑いを浮かべて首を横に振った。
「それを聞いて安心したよ」
 暖炉へと足を向ける。暖炉の上には、二張の弓と矢筒が飾られていた。ヴィオールはそのひとつを手にかける。娯楽用の華美な狩猟弓ではなく、戦弓の方を。

「……ヴィオールさん……?」
 初めてセルジュの声と顔が曇った。その様子にヴィオールは眉を上げる。
「さあ、行こうか。皆が待ちくたびれている」
 弦の具合を確かめ、矢筒を腰に下げると、ヴィオールは扉へと体を向けた。しかし、その背中に「お待ちください」と制止の声がかけられる。

「何をなさるおつもりで?……まさか」
 従者の目には、今まで見た事のない光が灯っていた。彼女からは、数え切れないほど軽口や皮肉を浴びせられたが、この様な目を向けられたのは初めてだった。
「何をって、予定変更さ。今から民を先導しなくては」
「危険ではありませんか」
「時間がないのだよ。帝国はともかく、民たちが浮き足立っているからね。だから、」
 セルジュの危惧が主の身ではなく、領民と領地に対しての言葉なのは、ヴィオールも充分に理解している。
 しかしこのままヴィオールの設計図を悠長に辿れば、帝国軍が攻めて来る前に領土が内々の炎に飲まれてしまう。民衆の怒りの炎は、ヴァルハルトの冷酷な嵐に比べて自制を知らない。そして、彼らを制する力が今の己に足りないのも事実だ。しかし反省するだけでは事態は何も変わらない。
「多少の領民の血が流れるは致し方ないと?」
「なに、戦うなんてしないさ。見てわかるだろう?軍馬に蟻が挑むがごとくだよ」
 その言葉は、セルジュの瞳を猜疑から軽蔑に変わるのを防いだ。
 そして、"変更された予定"―――つまり、民衆の前に出てやるべき行動をセルジュに告げると、彼女はそれをゆっくりと咀嚼するように頷いた。
 
 純粋なヴァルム軍だけでも、歯向かうに到底敵わぬ強固な軍隊だった。それに加えて、傘下に入れた諸国諸勢力も武勇を誇る。また、帝国の手が伸びる前に服従の意を示した領主、日和見を貫いている領主もいるが、立ち向かおうとしている勢力は、ソンシンが敗れた今、ほぼないと言っていい。一地方だけの私兵と民兵で立ち向かえるはずもないのは明らかだった。
 それでも誇り高く立ち向かい、散って行けば、さも悲しくも美しい戦乱の逸話と吟遊詩人が歌ってくれるかもしれない。芸術を愛するヴィオールではあるが、己の耳に届かぬ歌など、彼には路傍の草よりも価値がなかった。また、自らの首を代金に領民の安寧を買う事も選択肢にはない。降伏して巨大な嵐の一部になるつもりも。


「わかりました」
 セルジュは深く頷いた。
「君には少し大変な役目を負ってもらう」
「それは承知しております」
「民は驚くかもしれないが、ミネルヴァ君が一度吠えさえすればどうにかまとまるだろう」
 ふふ、と従者は笑みを見せる。目が笑っていない事にヴィオールは気付かないふりをした。
「それじゃあ、頼むよ」
 彼女は「かしこまりました」と頭を下げる。書類や隠し文などは極力使わない。もしも、それが彼女の手を離れ、他の者の手に渡ってしまってはいささか問題だ。そもそもセルジュは、ヴィオールの命は一度聞けば充分過ぎるほどにこなしてくれる。

「では、わたしはミネルヴァちゃんを連れて、広間へ参ります」
「ああ」
 セルジュは再び一礼し、主より先に扉へと向かう。踵を返すと、彼女の大きく開いた背中が見えた。
 おや、とヴィオールはさも意外そうに眉を上げ、扉の影に消え行く白い肌を見ていた。彼女の背後が、あんなに大胆に開いたものだったと、今ごろになって気付いた。

「私は随分と、君に守られていたようだ」
 幼き頃から共に遊び、学び、並んでロザンヌの地を守って来たと思っていたのは、彼だけだったようだ。セルジュはずっと前を走るヴィオールの後ろにいたのだ。己は後ろを守ってくれている従者の身など一向に気遣わずに。髪をかき上げると、彼も広間へ向かった。


 ヴィオールは、最初は説得を試みたものの、やはり民衆の沈静化は叶わずにいた。大勢の民衆に囲まれ、彼は半ば譲歩する形で、帝国軍の通過経路となっている開けた平地に民衆を移動させた。
 竜騎士セルジュを先頭に、領堺を目指している間、ヴィオールはひとり密かにロザンヌ軍を離れた。向かった先は、帝国の兵士も駐在していない小さな漁村。戦に明け暮れる帝国軍は、辺境に置く兵を惜しんだ。本来民を乗せるはずの船はまだ製造中で、ヴィオールは小さな漁船を買取り、ひとりイーリス大陸を目指した。五隻の大型船の製造費で、公爵家の財はほとんど尽きてしまったが、後悔はしていなかった。
 ヴァルムに抵抗できる勢力は、最早ヴァルム大陸にはない。統一も時間の問題で、遅かれ早かれヴァルハルトは侵略の手を外海にまで伸ばすだろう。その前に、他国と協力関係を築くのだ。イーリス大陸には、かつて邪竜を斃した英雄王の末裔がいる―――最も、ヴァルム帝国の皇帝も、邪神を滅ぼした英雄の末裔なのだが―――例え卑怯者と誹られようとも、民の血を流すよりはましだ。
 
 

 そして無事イーリスへ辿り着いた彼ヴィオールだが、土地勘など当然ない。彷徨い歩いている内に陽は沈んでしまった。
 深い森にて途方に暮れかけていると、突如闇夜の世界が一変した。地が割れ、異質な空気が森に満ちる。更には獣よりもおぞましい雄叫びと、絹を割くような少女の声が聞こえた。ヴィオールは咄嗟に声の方角へ顔を向けた。と、同時にすぐ傍を一頭の馬が駆けて行った。野良馬ではなかった。馬上に騎士然とした赤髪の女の背中が見える。闇夜の、さらに地面が不安定な森とは思えない手綱さばきだ。これ幸いとヴィオールは弓を手にした。それが、彼にとっては始まりだった。  
12/12/12   Back