始めての飲酒




 椅子の背もたれにだらしなくもたれかかる姿は、酔っ払いそのものであるが、グレゴ当人は酒精に呑まれているつもりは毛頭なかった。

 元より、お行儀とは無縁な生育環境、そして生業をしている。
 きちんと椅子に座って相手を慮って酒を飲んでいて、己が愉しめなければ意味がないではないか。
 その調子で瓶を傾け、時折手を伸ばして皿の上の乾豆を掴んでは口に放り込む。
 
 酒精が喉を焼き、塩が舌を刺激する。
 次第に全身に心地よさが広がり、何もかもを、薄ぼんやりとさせてくれるのだ。そして翌日には、過去のものとすっきりと片付けていられる。
 この家業を始めた頃とは、明らかに違う飲み方なのは気付いていた。
 それなりの長い道は、色々と変えてくれる。剣の振り方も、考え方も、価値観も。

 手にしていた瓶の中の酒も、そろそろとなくなりそうになっていた。
 次のあったか―――?だらしなく崩していた身を起こし、適当に置いていた瓶に手を伸ばす。

「おうい、こっちこないか?」
 振り返らず、グレゴは背後の少女に声をかける。
 特殊な力などはないが、人の気配くらいは分かる。
 しかも、彼の背後にずっと立っていた少女は、別段気配を消していた訳でもない。だからと言って、彼に声をかけれられるのをずっと待っていたという訳でもない。

 軽い体はすっと足を繰り出し、さして音も立てずに床を踏む。明るい赤茶色のおさげ髪も、彼女の服の裾と一緒に揺れた。 

「みっともねえか?こんなんが父ちゃんだなんて」
 少女―――ンンは首を振った。
「おいしいのですか?」
「うん?」
 ンンの瞳は、じっとグレゴの手、正確には彼の手中の酒瓶にある。ああこれか、とグレゴも薄汚れた瓶を眺める。
「旨くなきゃあ口にしねえよ」
「でも」
 何か言いたげな少女を尻目にぐい、と残り少ない酒を流し込む。
「まあ、昔は大して旨くもねえと思っていたがな。でも、そんな時でも自然に手が伸びていたもんよ」
「そういうものなのですか?」
「そういうもんなんだよ、これは」
 
 始めて酒を口にしたのは、村の祭りの時だった。
 村を上げての祝いで、寒村であったがみなみな備蓄していた食糧や、少しだけ余裕のある者は街から買い付けて、皆で騒ぎ立て始めた。何の祝いであったのかは覚えていない。
 祭で出された精一杯の料理も、思い出せば貧相なものであったが、普段は乾いたパンか麦と、塩気のない野菜スープしか口にしていない少年にとっては、年に一度の馳走であったのだ。 

 当時は、今目の前にいる娘くらいの年だったと記憶している。ああ、そうだった。まだ、"グレゴという名前ではなかった"頃。
 その位の年となれば、子供らしい素直さは幾分風化され、年相応の悪知恵も育ってくるというものだ。大人たちが食事よりも楽しんでいるそれに手を出そうとすると、いくら祭の席とは言え、叱責が起こる。
 
 ―――やめなよ兄ちゃん。
 弟のたどたどしい言葉も聞かず、むしろ悪巧みに加担させようとした。
 すでに酩酊していた老人の口から、酒臭い息と共に昔の苦労話を滾々と弟に吐き出させている内に、彼はそっと酒の入った椀を両手で抱え込み、広場から急いで離れて行った。

 眼前に掲げた途端、ふわっと鼻腔に入る酒精の匂い。
 大人たちの口から吐き出されるそれとは違い、純粋に、より強烈に鼻をついた。眉をしかめ、椀を顔から離した。
 大人ってのは、こんなものを好き好んで飲んでいるのか。
 正直これ以上顔に近付けるのも嫌なのだが、ここで引く気にもなれなかった。苦労して手に入れたのだ。
 つんと鼻に付く匂いを我慢し、欠けの酷い椀の縁に口を付けた。恐る恐る傾けると、唇に酒が到達した時点で、じわりと苦みと酒精が広がる。目を瞑って彼は一気に傾けた。
 どうっと喉が熱くなり焼けてしまいそうだった。激しく咳込んだが、喉に絡みつく熱は取れない。次第に頭も熱くなり、ぼうっとして体がふらついてしまう。

 ―――兄ちゃん!
 弟の声だ、と気付いた頃には、弟の小さな足がぼんやりと目に映った。彼の体は、すでに力を失くし、地面に横たわっていたのだ。

 
 そんな昔の事をふと思い出してしまい、グレゴは口の端を上げた。
 あれから散々親を始めとする大人たちに叱られ、翌日は割れ鐘のような頭を抱えながら、普段よりも重い労働を課せられたものだ。

 だがそれも微笑ましい思い出だ。
 あの初体験から、ほんの数年で酒に手を出すようになったのだから。
 体が酒を受け付けられるようになったのは、単に体の成長か。それとも、あのぼうっとした感覚をまた得たかった為か。
 酒精は頭に膜を張らせる。飲めば飲むほど、より分厚くて、不透明になる。
 大切なものを喪い、剣を手にし、それを振り―――グレゴには忘れたいものがたくさんあった。生い立ちも、名前も、大切なものも、ほんの昨日の事までも、全て忘れてしまえと痛飲した。


 ぱし、と小さな手が、しかし確かに強い力でグレゴの右手を掴んでいた。
「うん?」
 酒が入ってるとは言え、グレゴがその気になれば娘の―――実年齢よりもずっと小さな―――手を振りほどく事も可能であった。しかし、その気にはなれない。じっと、母譲りの大きな目が見ている。ああ、似ているな。改めて彼は心の中で嘆息した。

「良くないです」
「母ちゃんとは違って、随分と真面目なもんだな」
「違います。お母さんもきっと、同じ事をしていたでしょう」
「そうかねぇ」
 はは、と乾いた笑いが出る。新しい酒瓶は、栓も開けられずに止められたままだ。
「だがな、大人ってのは時には飲まなきゃやってられない事もあるのさ」
 お前にもいつしかわかるさ、と、らしくもなく優しい声を娘にかける。ンンはそれでも違うと言い張る。
「忘れるのですか?」
 グレゴはよく口が回る方だ。しかし、娘のその問いに、唇すら動かない。マムクートというのは、半人であろうとも、人の気を読む事に長けているのか。
「そういう時もあるのさ」
 グレゴはゆっくりと娘の手を解き、酒瓶を机の上に置く。
 諦めや悟りは、この稼業には大切な匙加減だ。違え、こだわり続ければ命に関わる。しかし、それでもどうしようもないものがある。手っ取り早くふっ切る為には、これが一番有効なのだ。いや、もっと有効な方法はあるが、結果的に己の命を縮める事を彼は知っている。

「お父さん」
「大丈夫だ。明日に響くような飲み方はしねえよ。だからお前ももう休め」
 ンンは再び、明るい茶色の髪を振った。
「わたしにも下さい」
「あん?」
 思わず、口をあんぐりと開けて聞き返した。ンンの指は、先刻置いた酒瓶を差している。ちらと娘の顔を見る。どうやら本気で言っているようだ。
「知らねえよ」
 口の端を上げ、酒瓶の栓を抜いた。口を付ける前の、新しい物で良かった。グレゴは適当に傍に置いていた木杯に酒を注ぐ。琥珀色の液体から、ふわりと馴染みの匂いが立ち上った。
「まさか、もう自分の子供と酒を飲むとはなぁ」
 物分かりのいい親父で良かったなあ、と杯をンンに差し出す。ンンはそれをおずおずと受け取り、縁を鼻に近付ける。己が始めて酒を飲もうとした時も、こんな風であったのだろうか。まあ、見た目からしてこんな可愛気はないだろうが。
「ちょっとだぞ、ちょーっと。一気に飲むと倒れっちまうからな」
 グレゴが言うまでもなく、ンンは慎重に杯を傾ける。ほんの一口だけ、口にしたのだろう。大きな目がさらに大きく開かれ、顔がほんのり赤くなるのが分かった。
「どうだ。かなり刺激的だろ……っておい!」
 一口飲んだ後、じっと酒が満ちた面を見ていたンンだが、意を決したようにぐい、と一気に杯を傾ける。茫然とグレゴが見ている前で、ンンの白い喉は何度も鳴った。
「あ、ああ……」
 さすがにこれはまずい。
 傭兵生活の中で、慣れない酒を一気に飲んで手酷い目に遭った者を、幼少期の己を含め幾人も知っている。まだ幼い彼女であれば尚更危険だ。
「大丈夫か、ンン……!」
「……」
 ンンの頬は上気していたが、大きな目は普段と変わらない輝きを持っていた。泥酔した者特有の、充血し据わったものではない。

「大丈夫です」
 口調も、呂律が回っていない様子はない。しかし、だからと言って手放しで安心できはしないが。
「大丈夫です。忘れていません」
「は?」
「嫌な事を忘れる為に、お父さんは飲んでいたのでしょう?でも、わたしは忘れてはいません。誰も、なにも」
「お前なあ」
 やはり、酔いかけているようだ。グレゴは苦い顔で頭を掻いた。
「お父さんはわたしも、お母さんも忘れたいですか?」
「そうじゃなくてな、まあ、自分にとって都合の悪い部分をだな」
「幼い娘にしか興味のない変態と誹られ……」
「それは言うな!」
 つい声を荒げてしまった。すぐに平静になり、浮きかけた腰を椅子に戻す。腰が落ち着くと、何だか妙におかしくなってきた。もしかすると、己も酔いが回ってきているのかもしれない。
「お父さんには忘れて欲しくないのです」
「大丈夫さ、忘れねえよ。少なくとも、お前さんやノノはな。むしろ逆だな。ノノが、忘れっちまうかもしれねえ」
 グレゴはンンの肩越し、すでに夢の世界で楽しく遊んでいるであろう彼の妻がいる方角へ視線を向けた。彼女は竜族だ。人より遥かに長い年月を歩く。グレゴが寿命を迎えたとしても、彼女の見た目はほとんど変わらないだろう。
 人間であるグレゴの血が半分混ざっているらしいンンも、今現在成長は他の同世代の若者よりも遅いのが顕著に現れている。
「……マムクートは、長く生きているけれども、大切な人は絶対に忘れない。チキさんが言っていました。でも、お母さんはなんだか心配です」
「だよなあ」
 二人して声を上げて笑う。ノノが心配なのは、二人が共通する項目だ。
「だがよ」
 ひとしきり笑った後、グレゴは目尻を拭った。
「今のおれはな、忘れる為に飲んじゃいねえよ」
「本当ですか?」
「ああ―――少なくとも、今のおれなは」
 変わっちまったなあ、と酒瓶を傾ける。喉を焼けつく感覚は変わらない。だが、あの頃とは違い、それが妙に心地よく感じる。
 大切なものも、辛い事も、全て脳裏にしっかりと残っている。ただそれを、一時でもどこか遠くにあるものとさせてくれるだけで、強い酒精をいくら流し込もうとも、全てを捨て去る訳ではない。
 昔は、酒の力を借りないと心の均衡を保てない時もあった。だが今は、ただそれだけの為に飲んでいる訳ではないのははっきりと言える。心配させてはいけない者が、彼にとっては増え過ぎた。
  
「ところで、どうだ?酒の味は」
「正直なところ、あんまり美味しくないです」
「だよなあ。だがよ、いずれ分かるようになるさ。お前さんはおれの娘だからなあ」
 不思議そうに首を傾げるンンを他所に、グレゴは酒瓶を無遠慮に傾けた。ついでに、塩で軽く味付けた乾豆も進める。やはり子供で、ンンは豆の方を好んでいた。
 
 翌日、ンンは元より、グレゴの頭の中でも鐘ががんがんと鳴り響いていたという。
 痛む頭を抑えながら軍師どのに説教されている中年男と幼い少女は、多くの兵の目に奇妙に映っていた。
 

14/12/07   Back