horizon

 眼下には平地が広がり、赤黒い顔をした異形の兵が累々と転がっている。
 風に乗って立ち上る血の匂いと焦げ臭さ。鼻につくも、長年重ねて来た戦の経験がセルジュの脳を麻痺させ、特有の臭気の中でも、平然と愛騎に跨らせている。彼女は悠々と上空を飛び、―――だが、意識の糸はぴんと張っていた―――敵味方双方の残存兵を探す任に当たっていた。竜の飛行速度を上げなくとも、風はゆったりとセルジュの髪を流している。

 そのゆったりとした風が、飛竜の嘶きをセルジュの耳に届けた。
 聞き間違えるはずもない声の主は、今セルジュが跨っている。だが、セルジュは遠くから聞こえるミネルヴァの声を、不思議には思っていない。風の吹く方角に、未来の愛騎と新たな主は恐らくいるのだろう。セルジュはその方角へ首を向け、手綱を握り直した。手綱はセルジュとミネルヴァの意思を繋いでいた。飛竜の巨躯は、彼女が向いた方角へ向き直る。

 
 ミネルヴァが啼いた空を辿れば、主戦場からかなり離れた場所にあった。
 目に映った、近い未来の愛竜は、新たな主を乗せて翼を羽ばたかせている。"今の"ミネルヴァから十数年の時を経た身体は、少しの衰えは見えない。
 また彼女の「主」も、ミネルヴァの動きに恥ず事のない、迷いない手綱捌きと斧捌きで、敵を次々と薙いでいた。
 成人もまだであろう若き身であるはずなのに、その所作は熟練兵に引けを取らない。セルジュ自身もまた、幼き頃より武芸を習い、ミネルヴァと出会ってからは彼女の背の上で竜騎士として鍛錬を積んで来た。それでも、彼くらいの年かさのセルジュは、彼には届かないだろう。それは、息子だけではなく、他の仲間の子らにも言える事だった。それくらい、彼らは過酷な戦いの中を、年少時より過ごして来たのが伺える。


 彼らを取り囲んでいた敵飛行兵の姿は、セルジュが到達した頃には、ほとんどが地表に墜ちていた。
 セルジュはミネルヴァをすい、と滑らせ、もう一頭のミネルヴァの隣に寄せる。
「ジェローム」
 名を呼ぶも、ジェロームはセルジュへ顔を向けもしない。息子は仮面を着けているが、その下は仮面と変わらず堅く冷たい表情なのだと直感する。突き放すような態度は一向に改められる気配はない。
「あなた、単騎で奥へ行き過ぎよ」
 いくら敵影が見えたからと言って、隊列を離れて一人斬り込むのは無謀としか言えない。武に定評があろうとも、感心できるものではない。

 ―――馴れ合うつもりはない。
 健在な両親を前に喜ぶ他の仲間たちとは違い、ジェロームはセルジュ達と対峙するや否や、はっきりとそう宣言した。
 だが、それが許されるのは私的な場のみであって、軍隊の中の一兵士としては、協調と規律を重んじなければならない。それは彼も知悉しているはずだ。事実、作戦を無視した単独行動など、今まで一度も見せた事はなかった。それなのに。


「すまない。気を付ける」
 意外にも、ジェロームはセルジュの諌めに素直に謝り、手綱を握り直した。しかし、それ以上は何も言わずに本隊へと竜の首を向ける。並んで飛ぶのは許さないとばかりに、ジェロームは母を置いて、滑るように空を進んで行った。

 未来のミネルヴァの影が小さくなるのを見届けると、セルジュはふと背後を振り返った。どこまでも続くような広い原野がそこにある。肌で感じる空気や、目に映る植物それらは全て見慣れないものだった。同じ大陸の、少し離れた土地ではあるが、故郷とはまるで違う。
 それが却って脳裏から故郷の風景を引き出してしまう。セルジュの故郷も、肥沃な土地が広がった平地にあった。子供の頃は、陽が暮れるまで飽きもせず領地を駆け巡ったものだ。
 平原の先へ行けば太陽へ辿り着けるはずだと、幼き頃の夫の言葉を思い出す。あの頃の彼は、まだ無邪気であったと、セルジュは無意識に目を細めた。




「―――何か言ったか?」
 セルジュの問いに、ヴィオールは大仰に腕と足を組みかえ、瞼を閉じた。元より身振り手振り、言葉も芝居がかっているのは彼なりの"貴族的"な表現らしい。

「愛息子の氷の仮面を溶かす為、日々努力しているのだけどね。ジェロームへかけた言葉など降り注ぐ太陽の光よりも数多で、そして……」
「ご婦人の心も溶かすような、甘くて熱い、そうリベアナ産のチョコレートのような」
「我が妻よ。そろそろ夫を信じてくれもいいんじゃないか。私は他の道楽貴族とは違う。結婚と恋愛は立つ舞台は決して別ではないと思っているよ」
「舞台裏や袖は観客に見えぬ良い休憩場所となりますわね」
 セルジュは満面の笑みで瓶を夫に向けて傾けた。
 ヴィオールは満ちた木杯を悠然と手に取る。放たれた棘など、全く意にも介さない様子で。この様なやり取りは、夫婦の契りを交わす前より―――二人が主家と従者の頃にはすでに―――頻繁にある。

「彼の返事は手厳しい事この上ないよ。ご婦人を篭絡する―――誤解しないでくれたまえ、昔の経験と比べてだよ―――それよりも難関な砦だね。何より二言以上の言葉を私にくれないんだよ。次期ヴィオール家を背負って立つ身が、鉄の人形では先が思いやられる」
 次期ヴィオール家当主。そこで、セルジュの長い髪が揺れる。
「それを直接あの子に仰ったのですか?」
 ヴィオールは、しばらく思考を巡らせると、ああ、そんな事も言ったかもしれない―――と呟き、手にしていた杯を軽くあおった。先刻放った言葉はすぐに脳裏の片隅に追い遣り、ヴィオールは木杯に怪訝な視線を送っていた。
 彼にとっては何気ない一言かもしれない。生まれながらにして、公国の未来を背負って生まれ、当人も公爵となる道以外考えた事もないだろう。

 セルジュは瓶を卓に置き、天幕の入り口をちらと見た。入口から覗く夜空には、星が点々と瞬いている。

「セルジュ君、これは……」
「お酒とは一言も言ってませんわ」
 そう言い放ち、セルジュは夫の手をすり抜けて天幕を去った。



 まだ夜も更けて間もない時刻だ。月も星も、まだ顔を出し始めたばかりだろう。
 厩舎へ足を運ぶと、二頭のミネルヴァが並んで繋がっている姿が、月明かりに浮かんでいた。ミネルヴァは―――他の飛竜に比べればの話だが―――温厚な性格で、セルジュが心を許す相手に対して、荒れ狂い襲うなど絶対にない。セルジュとしては、他の馬同様に繋ぐのは不本意なのだが、怯える兵士たちの心情を汲んでくれと請われて従った。

 ミネルヴァ達はセルジュの姿を感じると、鼻を低く鳴らして頭を下げる。月の淡い光を跳ね返す漆黒の鱗をそっと撫でる。大きく裂けた口から覗く牙も、頭から無数に伸びる角も、全てが磨かれた象牙のように滑らかな艶を放ち、耳鰭も、上質の薄衣を彷彿とさせる。
 同様に、未来の世界のミネルヴァも、全く衰えてはいない美しさだ。違う所は、今彼女の背にある主と、彼女が目にして来た光景。


 未来のミネルヴァは、黄色い眼を細め、頭をセルジュにこすり付ける仕草をする。ジェロームとミネルヴァのいる時代には、自分はもういないらしい。そう言われても感じるものはないが、肩にもたげかかる竜の頭が、ずしりと重く感じられた。

「何をしている」
 背後の声に、セルジュはミネルヴァの頭を肩に乗せたまま、振り返える。
「ミネルヴァから離れろ」
 相変わらず冷たい声色だ。彼の相棒も、この時ばかりは牙の間から荒く息を漏らす。
「随分と無粋ね」
 相棒と触れ合うひと時間は、恋人のそれにも勝る事を知っているだろうに。
 ジェロームはセルュの声にと視線に構わず、彼の竜の許へ歩み寄る。手巾と水桶を手にしていた。
 二人の主―――ましてや親子を―――を天秤に掛けるほど、ミネルヴァは愚かな飛竜ではない。セルジュとジェロームの心情を察すると大人しく首を彼へもたげた。

「丁度いいわ。あなたにも用があったの」
「私にはない」
「……いい加減、一言一言に突っかかるのはお止しなさい」
 黙々と愛騎の身体を拭き始めている。仮面の下の顔は窺えない。だがしばらくして、喉から絞り出すように「用はと何だ」と言ったのは確かに聞こえた。用件を聞く気にはなってくれたようだ。

「一緒に行きたい場所があるの」
 息子に向き直りそう言うと、否、と温度のない答えがすぐさま返って来た。

「この時代で余計な行動はしたくない。それに、こんな夜更けに無用な飛行はミネルヴァに障る」
 そういう態度は織り込み済みだ。いつもなら呆れつつ引き下がるセルジュだが、今回はそのつもりはない。

「ただ一緒に飛んでくれるだけでいいの。あなたの手綱さばきを見習いたくて」
「私から教わる事などないだろう。私の騎乗技術はほとんど我流だ」
「ええ。だから尚の事。いくらわたしの子だからと言って、ミネルヴァちゃんがわたし以外をすんなり乗せるとも思えないのよね」
「……それは……」
 普段なら、余計な事は言わぬ主義のジェロームだった。だが、今は仮面の上からでも狼狽しているのが見て取れる。
 主の清拭に甘んじて、大人しく頭を下げていたミネルヴァだが、思い立ったように顔を上げた。ジェロームの腕を咥える。どうした、とジェロームが言うよりも早く、彼の腕を咥えた口を、鞍と手綱を保管している棚へ向けた。

「ほら。こっちのミネルヴァちゃんも行きたいって言ってるわ」
 にっこりとほほ笑むセルジュの手には、彼女の飛竜の手綱があった。





「―――で、どこまで行くんだ」
 ミネルヴァに跨って早々、ジェロームはそう切り出した。どこか苛立ったような様子に、セルジュは口の端が上がるのを抑えた。

 目の前は闇に月と点々と光る星。少し冷たい風。夜の散歩の供には不足ない。しかし、足下は冥府へと続く穴ぐらのごとく、吸い込まれそうな闇が大口を開けている。ミネルヴァが主を振り落とす事など絶対にないが、昼間と比べれば不安ではないと言えば、セルジュでもはっきりとそうとは言い切れない。

「松明でも持ってくれば良かったかしら」
「っ……必要ない……!」

 ジェロームの横顔は、いつにもまして固い彫像を思わせた。確信した。

「頑張ったのねぇ」
 身を少し屈め、"隣の"ミネルヴァにそう言う。頭上から、慌てるように息を飲む音がした。余計におかしく思えて来た。人にとって、地に足が着いていない事がどれだけ恐ろしいか。高い場所が苦手であれば、恐怖以外でも何でもないだろうに。それを押して、息子はミネルヴァに乗って戦う事を選んだのだ。

「―――あなたの両親は、戦う事をあなたに強要してしまったようね」
「それは違う―――!」
 ジェロームは急に、強い口調でセルジュの言葉を打ち消した。飛竜のはばたきにも負けない声が夜半の空に響く。
「私が、自らの意思でミネルヴァに乗った。両親に戦えなど言われた事など、一度もない」
 ジェロームの声を真横に聞き、セルジュの瞳は、ミネルヴァが飛ぶ方角をまっすぐ見ていた。木々も街も人もみな闇に飲まれ、灯りも次第に減って行く。冷たい風が頬を撫でる。松明を持って行っても、すぐに消えてしまっていただろう。

「我流と言ったが、正確に言えば、基礎は仲間が教えてくれた。斧の構え方も、」
「ミネルヴァちゃんの乗り方も?」
「……ああ」
 先刻とは真逆の小さな答えは、風に乗らなければ聞こえなかっただろう。

「頑張ったのねぇ」
 もう一度、身を屈めて隣のミネルヴァに言った。別にいいだろうが、と頭上から荒っぽい声がした。


「ほら、見えて来たわ」
 と、言っても、星が点在する空の下は、真っ黒な大地が広がるばかりだった。案の定、意味を理解できずにいる様子の息子に、この土地の名を告げる。ジェロームは押し黙ったが、「だから何だというのだ」と普段の冷たい声を発するのにそう時間は掛らなかった。

「降りてみましょうか」
 そう呼びかけるものの、ジェロームの答えを待たず、セルジュは愛騎の首を下げさせた。 
 
 セルジュの故郷は、二年前よりすでにヴァルム帝国の版図の一部となっていた。皇帝ヴァルムハルトは、大陸の統一の一環で手を伸ばしただけであるようで、近隣の地と共にまとめて家臣の一人に督させ、すぐに背を向けた。元より、こんな片田に興味はなかったのだろう。

 ほぼ無血で明け渡された土地は、今は帝国の役人と新領主の親族が幅を効かせているだけで、領民も領土も手ひどい扱いは受けていない。セルジュ達が降りようとしている場所も、若い穂の影がゆったりと揺れている。今年も豊作なのであろう。

 
 故郷は変わらない姿で二人と二頭を迎えてくれた。闇に染まった土地は、記憶と同じく真っ平らで、遠くには地平線も見える。
 空と大地の境目にて、月や太陽がどうやって顔を出すか、空がどうやって色を変えるのか。それを見たくて、幼少のセルジュは寝ずに窓に貼り付いていた事がある。気がつけば寝台の上に寝かされていたが。風に揺らぐ草木や畑の中をよく駆け巡っては叱られていた事は数えきれないくらいだ。

 けれども、ジェロームは、この地で生まれ育った男女の子供は、それを知らない。
 これは親の勝手な思想かもしれない。望んでいないのかもしれない。けれど、見て欲しかった。「わたし達の故郷」を。

「本当は明るいうちに行きたかったのだけれど」
「いや……」
 ジェロームはじっと水平線の方角を見ていた。仮面は月の光すらも跳ね返さない。ぽつりと、ジェロームは視線はそのままで口を開いた。
「私が子供の頃は、ここはもう屍兵に荒らされ尽くされ、人は住めなかったと言われた」
 彼が語り始めた故郷の惨劇に、思わずセルジュの眉が寄る。ジェロームも淡々と話しているが、普段のような冷え冷えとした響きは感じられなかった。

「私も親の知り合いを伝手にイーリス大陸へ渡り、そこで今まで生きて来た。両親と故郷の事は、同郷の者たちが教えてくれたのだ。英雄だったと。私の両親は―――」
   ミネルヴァが寝かせていた頭を上げ、鼻先をジェロームに擦り付けた。それでジェロームは我に返ったのか、それ以上は口を急に噤んだ。

「すまん、妙な事を言い過ぎた」
「いいえ。そんな事は」
「いや、不快だろう。自分と故郷の末路を語られるなど」
「……そうならない為に戦っているわ」
「ああ。そうだったな」

 いつものジェロームに戻ってしまったようだ。普段通りの、短く味気ない言葉の遣り取りだけになってしまったが、セルジュはそれでも満足だった。

「随分と冷える。もう帰った方がいい」
「そうね」
 その言葉で、二頭のミネルヴァは首を上げ、背をそれぞれの主に向けた。
 ミネルヴァに跨ると、大きな翼がばさりと鳴り、辺りの草が一斉に薙ぎ倒れた。ばさばさと羽ばたく音が夜空に響く。翼の影に、ジェロームの唇が動いてた。

「そうね」
 と、セルジュは息子に答えた。
 次は、彼の望むように、一緒にここで太陽が沈むところを観よう。そして、母親らしく―――これは彼が嫌がるのを承知で―――一緒に寝てあげるのだ。どうも息子は、寝付きが悪いと噂されているようだから。
 
12/09/23   Back