星の足あと




 陽もすっかり落ち、灯りがなければ目先も分からないほどの暗さだった。いい夜だ、とグレゴは己の天幕から身体を出した。
 野営地から少し離れた場所に着くと、グレゴは手にした灯篭を無造作に地面置く。どかりと草の上に腰を下ろした。いい夜だねえ、と今度は口に出してみる。眼前には湖が広がり、闇色の湖面は月と星を鏡のように映し出していた。
 
 行軍も終え、明日の行軍予定の告知も既に完了している。その後の訓練もなく、見回りの当番にも充てられていない。更に駐留する場所は、繁華街からの煙すら流れて来ない、人家の影すらない平野。とすれば、彼にとってする事はただ一つ。灯篭の頼りない明かりは、酒瓶の輪郭を照らしていた。武骨な手は、ぐい、と瓶を傾ける。

「あ、いたいた」
 背後からの声に振り返ると、グレゴの灯篭と同じ光がグレゴの目を刺した。グレゴは思わず目を細める。光の主は、この軍の軍師だ。
「うん?なんか用かい?」
「探していたんだ、グレゴ。誕生日おめでとう」
「んあ?」
 突如差し出された言葉と箱にグレゴは眉を寄せ、青年の顔と箱を交互に見遣った。
「誕生日ぃ?」
「そうだよ。今日なんだろ?」
 グレゴは太い指で顎を掻き、しばらくして、ああ、と短く笑った。目の前のルフレは目を丸くしていた。自警団の入団には、一応団員の身辺調査書の提出が求められる。その情報を元に、ルフレは団員にささやかながらも贈り物をしていた。望む者には、出来る限りだが休暇も許可している。
 
 グレゴは成り行きで仲間になった傭兵だが、しばらくは自警団に身を寄せると言った為に、彼も身辺調査書を提出している。身辺調査、と言っても名前と分かる限りの身の上を記入するだけの物で、字が書けない者は代筆で名と出自を書く程度だった。

「そう言えば、そんな事を書いてたっけなあ」
 グレゴはぼんやりと身辺調査書を思い出す。別に嘘は書いていなかった。彼は学などまともにある者などはいない、小さな山奥の村で生まれた。
「村の婆さんからよ、おれが産まれたのは冬の真っ盛りだったって言われたもんでね。きっちりとした暦なんざ、だあれも分かってないんだよ」
「そうだったのか」
「雪が何日も降って、随分積もっていたそうな。そんな時期がこのくらいだろうっつう訳でこの日を適当に書いたんだ。すまんな」
 別にいいさ、とルフレは返す。元より、どのような素性の者でも受け入れる方針なのだ。生年月日の記入くらいでどうのこうの言うつもりもなかった。軍師であるルフレ自身も最近までどこの誰だか、本人すら分からなかったのだから。

「まあ、このくらいの時期ってのは正しいんだからな。素直に受け取っておくよ。ありがとうな」
 グレゴは隣の草地をぽんぽんと叩いた。ルフレは誘いに乗りそこに座ると、酒瓶が渡される。先刻まで彼が飲んでいたものだ。ルフレが遠慮なくそれを傾けると、喉に強烈な刺激が走った。思わずむせ返る。
「おお、強すぎたかあ?」
「……ちょっとね」
 予想はついていたつもりだが、グレゴほど酒に耐性のないルフレには、やはりきついものがあった。
「酒は覚えておくもんだぞ。酒に限らず楽しい事は一つでもあった方がいい……おおーこれは助かるぜ。ありがとなあ」
 グレゴは贈り物に感嘆の声を上げる。剣の柄に巻く滑り止めは、仕事より娯楽を愛する身でも、喜ばすには充分だったようだ。
「真面目な軍師どのらしいな」
「ああ、酒は貰い飽きているかと思ってね」
「いやいや、酒はいくら貰っても飽きねえよ。この湖が酒だって言われたら喜んで飲み干すぜ」
 グレゴは両腕を一杯に広げる。ルフレもつられて笑った。

「それにしても、こんな所に一人でいるなんて驚いたよ」
「そうかあ?おりゃ、自然を愛する男だぜ。こんな星空が綺麗な夜は、しっぽりと行きたいのさ」
「てっきり奥さんと過ごしているかと思ってさ」
「で、その奥さんとの"共同作業中"でも堂々と天幕に入って来たのかい?」
 苦笑いを浮かべ、ルフレは首を横に振った。静かな夜と星空を愛すると称するが、仲間に向ける言葉は相変わらず下品なものだ。
 誕生日だなんて、不確かな日付をグレゴの妻には告げてはいなかった。もし知ったら、彼女は驚いて、そして夫を咎めるに違いない。
「まあ、こうして一人のんびりと飲む時間を許してくれたしな、嫁さんにゃ感謝してるよ」
 グレゴは、持って来たもう一本の栓を空ける。ぐい、と仰ぐと眼前に星が広がった。
 隣にいる友人には嘘を告げた。こんな星空の許で、酒を傾けたのはいつぶりだったか。傭兵になってからは、仕事がない夜は、空が明るくなるまで馬鹿騒ぎするのが日常だった。

 そんな自分が、今夜の空を見て、なぜ外で一人で呑もうなんて思い立ったのか。ルフレがやって来たのも、何か不思議な縁のような気もしてきた。
 
 死んだ魂は、星になる。
 グレゴの妻は、いつの日だったか彼にそう言った事がある。その時、グレゴは軽く聞き流していたのだが、なぜだか今まざまざと思い出された。

 数えきれないほどの星が闇に浮かんでいる。しかし、死んだ人間の数はきっと、この星よりも多いのだろう。たった一人の人間ですら、いくつもの死を見ているのだ。"星にしてしまった"ことも、無論。
 
「―――色々、あったからなあ……」
「え?」
 ルフレが横を向く。
 静かに瓶を傾けていたつもりだったが、声に出していたようだ。
「あ、いや―――何でもねえよ」
「まあ、色々あるよね」
 ルフレは酒瓶を抱きしめるように身を屈めた。
「そうさなあ、色々と」
 最後の言葉は、強い酒と一緒に流し込んだ。 
 久しぶりに、弟の墓に行くか。
 奇妙な夜ではあったが、そんな気にさせてくれる為に星が誘い出してくれたのかもしれない。  
14/01/28   Back