眠りし力は天からの呼び声に応え……

 


 ばらばらと厚い布を叩く雨の音で、マーク少年は瞼を上げた。今が夜半だとわかると、身を起こそうと身体をよじった。その時、

「……くっ……その力は……!駄目だ……」
 隣で横たわっているはずの仲間の声に、慌てて跳び起きる。しかし、続いて「嗚呼……!……が血に共鳴して、暴走を始めている……」と唸りながら(最初の長い名前は聞き取れなかった)ウードが身体の向きを変えた。その様子をマークは、ほう、と息を吐いた。周囲を見回すと、ウードだけではなく、他の仲間たちも既に夢の中にいるようだ。

 マークはゆっくりと起き上がり、息を潜めて身を整えると、天幕の入り口をそっと上げて空を仰いだ。天幕の傍には、硫黄を染み込ませた篝火が灯り、空から落ちる雨粒と天幕の輪郭を照らしていた。外は闇が広がっている。だが、用心を重ねる意味で外套のフードを目深に被り、湿り気を帯びた土へと踏み出す。

 点在する篝火を頼りに、マークは身を丸めて歩いた。交替で見回る仲間の足音を感じると、素早く近くの天幕に身体を隠す。母譲りの外套は―――と言っても、"現在"いる母も同じ物を身に着けているのだが―――夜色で、夜陰に紛れるにはちょうどいい。その母の言い付けを守るため、彼はこうして出歩いている。

 
 自分の出自すら覚束ないマークにとって、母との断片的な記憶はかけがえのないものだった。
 他の仲間たちのように、滅びた未来から来たのか、それすらも定かではない。自分の名前と母の事だけは憶えているのは、余程母親が好きだったに違いない。周囲からそう揶揄されていた。マーク自身も、きっとそうだと信じていた。

 元来楽天的な性格らしく、記憶を失ってもそれ程悲観的にはならずに済んでいた。何より飛ばされた時代は母がいる世界で、若かりし母と出会う事ができたのだ。そして敬愛する母から戦術を学び、軍師の道を進んでいる。
 
 それに対して、父の事は断片的な記憶すら残ってはいない。それが無念だと悔まれてならない。母から父を紹介された時も、優しい面持ちと、頼もしそうな大柄な体躯は、すっぽり抜けた彼の頭の中を埋めてくれはしなかった。だが、我が子だと接してくれる男に対して、素直な性格も相まって、悪い感情など持つはずもない。それに、母とあれだけ仲睦まじいのだから、自分の父親あるに違いないと信じていた。

 夜も深い時刻だが、見回りの当番以外の兵の気配と物音も幾人かする。父もその一人のはずだ。ある日から父の動向は注視している。

 父に宛てられた天幕をそっと覗くと、幾人の寝息が聞こえる。足音を聞かれぬよう歩くのは緊張が走るが、目的の為ならばと足を踏み出す。雨音に紛れ、息を、心臓の鼓動すらも止めんとばかりに、マークはそっと天幕内に入った。やはり父はいない。だが、"代わり"はいる。天幕の奥に鎮座しているそれを、夜に慣れたマークの目が捕える。丸みを帯びた頬が歪んだ。


 雨足は止む事なく、少年の足音を消してくれる。兵士たちの眠る天幕群から少し歩くと、ひと際大きな天幕が見える。そっと中に入ると、広い背中が見えた。「備蓄品がいつの間にか補充されている」という最近の噂通りで、マークは心中でほくそ笑んでいた。
「父さん」
「うわっ」
 その背中にそっと近付いて声をかけると、びくりとしてカラムは振り返る。やはり、雨で気配と足音は完全に消えていたようだ。
「……マークか。こんな夜遅くに、どうしたんだい?」
 マークはふふ、と今度は笑みを顔に出した。
「父さん、ぼくに気付きませんでしたね?」
「う、うん……そうだね。気付かなかったよ……」
 成功だ!とマークは諸手を上げて喜んだ。一方、息子の歓喜にカラムは首を傾げている。
「父さんに、あの父さんに気付かれずにいたなんて!」
 父は、―――本人は至ってその気はないのだが―――気配を消す事にかけては他の追随を許さない。大きな身体と鎧姿で陣内を駆け巡っても、気付かずにすれ違う者は少なくないと言う。

「ああ、訓練の一環だったのかい?」
「まあそんな所です」
 ようやく息子の言動が理解できたカラムは、かつて自分に倣って気配を消す訓練を重ねた天馬騎士を思い出していた。カラム自信、誰にも存在を気付かれない事を気に病んでいるのだが、他者から見れば、それは大それた特技と受け止めているようだ。事実、偵察任務をよく命じられている。

「でも、今回は雨が助けてくれたようなものなんですよね。だから父さんにこつを教えて欲しいんです」
「……うーん、でもこればかりは……ぼくも意識してやっている訳じゃないし……」
「そうなんですか?」
 残念そうに顔を曇らせる息子の頭に、カラムの大きな手が乗った。ランタンに照らされた髪はカラムと同じ色をしている。  息子は記憶のほとんどを失っているが、彼の母のような軍師になりたいという思いは残っていた。彼の母への憧れがそれほど強くあったのだろう。存在感のなさは諦めつつあったが、まさか新たな悩みが出来てしまおうとは、とカラムは内心で苦笑してしまう。
「ぼくが教えられる事なんて、あまりないけど……一緒にできる事はあると思うよ」
 そう言うと、マークの表情も急に晴れたようになった。
「そうですね!父さんの事思い出せるきっかけになるかもしれないですし」
 父子は笑い合った。


 夜はさらに更けていた。陣営の土はまだ屍兵の足には踏まれてはおらず、雨に叩かれ続けている。
 貯蔵庫と武器庫の整頓を少しだけ手伝ってもらうと、息子をすぐに彼の天幕へ帰した。夜半の敵襲もいつ遭ってもおかしくはないし、朝はいつも早い。年若い息子をいつまでも起きさせている訳にはいかない。カラム自身も早々に天幕へと戻る事にした。
 カラムは自分の天幕の入り口をくぐると、そっと足を踏み入れた。起きている際も気付かれないのだから、寝ている仲間が彼の気配で起きる事など一度もなかった。それでもカラムはゆっくりと足を繰り出す。奥の彼の寝床には"留守番"がカラムの帰りを待っていた。
「あれ?」
 思わず(小さな声だが)声が漏れた。
 存在を消す事には長けている彼だが、反面、誰かの気配には機敏なきらいがある。暗闇の中でも、自分の寝床、性格にはその上の鎧に誰かが触れた事にすぐに勘付く。傍のランタンを点け、眼前に掲げた。
 鎧の内部には「誕生日おめでとう」の文字と、小さな箱が収まっていた。誰が、とは疑問にすら思わない。
「……汚い字だね……」
 愛用の鎧に落書きされたというのに、怒る気などまったく湧かなかった。ただただ、これを施した相手の顔を思い描いては笑みを浮かべるだけだ。皆が寝ているのが幸いだ。



「と、言う訳で母さん、成功しました!」
 夜更けだというのに、息子は幼さの残る頬を赤くさせ、元気に胸を張っている。喜ばしい事なのは間違いないが、それを敢えて及第点だ、とルフレは告げた。予想外の評価に、マークは丸い輪郭を更に膨らませる。抗議の声にも、母はただ首を横に振るだけだった。
「うーん……父さんの行動を予測して、鎧から長時間離れている時を上手く狙ったのですが……次は更に厳しい条件下でやれという事ですね?」
 母が評価内容を言う前に、マークは一人で納得して大きく頷いた。母のような軍師になる。それを目指して師の訓練に勤しんでいる。今回の事も、「ただ正面から祝うだけでは面白くない」との師の提案だった。
 
「……よし!じゃあ次はもっと母さんをびっくりさせるような事をします。見ていてくださいね!」
 しばらく考え込んでいたかと思うと、マークは突然、膨れっ面が弾けるように笑顔になった。お休みなさい!とマークは飛ぶような速さでルフレの天幕を出て行く。ひらひらと舞う帆布を前に、元気な子、と感心せずにはいられない。未来の自分は、一体この子にどのような教育を施していたのだろうか。


 マークが去り、天幕内に静けさが戻ったかと思うと、時を置かずに新たな来客が来た。だが、今度の"客"は、マークとは逆に、しっとりとしたこの雨に自然と溶け込むような、そんな空気を纏っている。お疲れ様です、という声に彼も顔を綻ばせる。

「君も、遅くまでご苦労さま」
 カラムは照れながら頭を掻いた。それから、君もありがとう。と小さく付け加えて。ルフレも口の端を上げる。"もう一つ"にも気付いてくれたようだ。

「それにしても……ちょっと感服したよ」
 何が、とばかりにルフレは夫を仰いだ。
「マークの事だよ。数日間ぼくの動向を探っていたんだって」
 凄いねえ、と、カラムは感慨深く頷いた。確かに、と、ルフレも素直に頷く。もう一人、カラムに倣おうとした騎士がいた。だが、彼は"師"を陣内から探し出す事がどれだけ難関かを想像して、すぐに諦めた……。
「そこは君に似ているかもね。いや、案外これって才能なのかも……」
 自分は数日も探れない、とルフレは首を振った。夫婦は笑い合った。


 雨は一向に止む気配はなかった。
 自分の天幕に入ると、そっと寝床を目指す。脱いだ外套は湿り気を帯びてしまっていた。少しでも乾いてくれるよう、毛布の上に広げてそれを被った。瞼を閉じると、脳裏にて母をあっと言わせる作戦会議が広げられる。
 
「っ……力が、今蘇ってしまった……もう誰にも止められない……!」
 隣に眠る友が、ごろりと寝がえりを打った。
 
12/06/30   Back