風が呼ぶ声




 荒野のただ中に響く甲高い声。
 少年が何かを必死で呼んでいる。顎を上げ、喉が張り裂けんばかりに叫ぶ。身なりはかなり薄汚れ、髪も爪も伸びるがままに任せるその姿は、一見すれば女児と間違えられるだろう。

 身なりなど、彼は生まれた頃から気にした事がなかった。それに、今彼が求めているのは心の拠り所。ただひとつの存在。それさえ傍にあれば、例え汚い格好であっても、ひもじくとも構わない。
 しかし、彼がいくら切望しても、喉から鉄の匂い溢れ出ても、求めているものは現れない。

 呼んでも来ない。
 誰かがそう彼に囁きかけた。
 乾いた大地と、冷たい風しか、彼を取り巻いていないのに。確かに、その声は彼の鼓膜を打った。

 その"声"にも関わらず、彼は叫び続けた。びゅうびゅうと吹きつける風が、か弱い少年の声を攫う。それでも何度も、何度も、何度も彼は呼んだ。
 喉奥から血がどっと湧き出る。同時に、首の根元からも真っ赤な血が、滝のように溢れ出た。声の代わりに鮮血が飛び散ろうとも、呼んだ。

 彼が求めるものは、ただ一つであったはずだった。強く願い、強く請えば、必ず来てくれるのだと、信じて止まなかった。
 風がぴたりと止み、小さな砂埃だけが舞う。砂埃を立てたのは風ではなく、ひとりの女の姿。
 彼は、大きな瞳をさらに大きくさせる。何が起こったのか、分からなかった。だが、"彼女"こそが―――少年は、ようやく立ち上がった。
 




 天幕の継ぎ目からうっすらと陽が差し込み、中は明るい。目を閉じていても、完全な闇とはいかなかった。
「さあ、思い浮かべるのよ」
 女性特有の高さがあるが、この上なく鈍重な声が降りかかる。その声を聞いただけで、太陽も沈んでしまいそうな程の。お陰でリベラは明るい日中の真下でも、先刻嗅がされた薬香の力もあり、闇の世界へ溶け込む事に成功していた。

 奇妙な香りが頭を支配し、同時にうっすらと浮かぶ姿は、幼い頃の自分だと確信を持っていた。
 金の髪は短く整えられ、陽光に当たると健康そうな色を跳ね返している。纏っている服は質素だが、こまめに洗濯しているのが分かる。着古し感はあるが不潔さは感じられない。

 幼いリベラは、屈託なく笑っていた。優しい父と母に囲まれて。彼は慌てて記憶を手繰り始める。が、すぐに止めた。小さな両の手は、左右のふた親の手をしっかりと握っているのが見えたからだ。その手は、温かかいか、柔らかいか―――その思念を、リベラは手繰り寄せようとした。

「違う」
 短くそう言い切り、リベラは両の瞼を開いた。
 呪術師の女の、陰湿そうな瞳とリベラの視線がぶつかる。実験が失敗したというのに、髪同様、彼女の漆黒の瞳は、さほど失望しているようには見えなかった。

「―――すみま、せん……」
 女は、すっと彼に背中を向けた。リベラは思わず椅子から腰を浮かす。
「あの、サーリャさん、もう一度、もう一度だけお願いします……!」
 サーリャは緩慢な所作で、首だけをリベラに向けた。
「なぜ、あなたはそこまでするの?」
 サーリャの好奇心が元で始めたまじないで、偶然準備に居合わせたリベラが実験台を買って出たのだ。
「なぜ、でしょう……」
「ただ単に心を覗いて欲しいという訳じゃなさそうね。随分と深い闇なのは分かったけれども……」
 困ったような笑みを前に、サーリャは軽く溜息を吐いた。

「何を求めるのか、はっきりすれば成功に近付くかもしれない。あなたは、何を望むの?」
「記憶を」
 短く言い切ると、リベラは目を閉じた。
 修道院へ文字通り投げ込まれる日々は、正直覚えていない。ただ、冷たい両親の背中だけは覚えている。優しい瞳も、温かい肌の感触も、無論愛情深い心も幼いリベラには無縁だった。己は両親に必要されていなかったのだと気付くまでに、何度ナーガに祈っただろうか。

「記憶を、辿って思い出したいものがあるのです」
 だから、僅かでも思い出したかったのだ。例え暴力的な、憎しみが籠った視線でもいい。氷のように冷たい瞳だっていい。自分に向けられるのならば。

「そう」
 サーリャの返答は、相変わらず何も孕んではおらず、それでいて鉛のような重たさだった。しかし、"実験"は続行する意はあるらしく、妖気が漂ってきそうな古い呪術の本をめくり、まじないの薬の調合を調べ直していた。

「ヘンリーが言っていたわ」
 薬香の匂いが再びリベラの鼻腔へと侵入する。その際に、サーリャは、ふとこの軍にいるもう一人の呪術師の名を口した。彼女が世間話など珍しい。闇へ入らんとしながら、リベラは思った。
「あなたの戦い方、随分と無茶をするそうね。まるで、自ら傷付きに行っているような」
「己の身を案じていては、人を殺める資格はありません」
「聖職者の大義名分、というものかしら……体だけでなく、精神も進んで傷付きに行くだなんて、あなた―――聖職者の鑑ね」
 傷付くとは限りません。そう反論したかったのだが、リベラの精神は闇にほとんど溶け込み、口を開く事は叶わなかった。

 
 イーリスの地方都市。
 気が付けば、彼はその中心地に立っていた。
 眼前に広がる風景に見覚えがあるのは、彼がそこで生まれ育ったからだ。
 ほんの数年で、街の広場も、賑わう目抜き通りともほとんど無関係の暮らしとなるのだが。

 イーリスの国祖の生誕祭ゆえに、この日は一層の賑わいを見せていた。王都ほどではないが、遠い国から行商人が集まっている。戦争は終結したものの、未だ緊張が続く関係である隣国ペレジアからも商人や曲芸団がやって来ていた。
 
 リベラ少年は、先刻の"実験"で視た姿同様、質素だが清潔感のある身なりで、血色も良く、珍しい品々や生き物に目を輝かせる。ある露天に立ち止まり、並べられた見た事もない菓子をじっと眺めた。それらはきらきら、きらきらと陽光にきらめき、町の祭りでよく見かける兎や竜を象った飴とは違う美しさを放っていた。

「坊や、これが欲しいのかい?」
 黒い髭が豊かな中年の商人が、菓子を眺めているリベラを覗きこむ。男のヴァルム訛りが酷かったが、何とか通じたらしく、少年の小さな顔がこくんと揺れる。

「ここじゃ今日以外は絶対に手に入らないだろう。何せ、シムリカ公国産の黒砂糖と林檎を使っているんだからな」
 そのような国名を聞いたとて、リベラは首を傾げるばかりであったが、どこか遠い国でしか採れない作物から出来ている事だけはようやく理解できた。
 頷くリベラに、露店商の縮れた髭の下から大きな口が上がる。年端もいかぬ少年相手だが、彼は商売人。情に揺れ、菓子のひとかけらでも渡そうなどとは全く考えていなかった。

「父ちゃんか母ちゃんに小遣いもらいな。すんごく美味えんだって言ってな」
「うん!」 
 元気よく頷き、人込みの中へ消えて行く小さな姿に、商人は笑みを浮かべたまま眺めていたが、すぐにはっと目を見開く。
 ―――ああ、駄目だ!
 そう思った瞬間、あれだけ人で賑わい、物が溢れ返っていた地方都市の広場がすうっと消え、薄暗い路地裏に変わった。
 先刻まで商売をしていた広場は舗装され、見事な噴水や美しいナーガ像、時計台が建ち、少し離れた場所には美しい色彩の屋根が立ち並んでる様は彼の背後に遠くにある。しかし、そこは同じ町とは思えないほどに日当たりは悪く、塵が散らかり、野良猫も痩せこけ、剣呑な空気が漂っている。

 人の気配に商人は振り返る。背後に立っていたのが先刻の少年だと、彼は一目見た時からわかっていた。幼いリベラの姿は、先刻とは見違えるほどにみずぼらしかった。美しいはずの金の髪は汚きっており、先刻まで見た太陽を跳ね返すような輝きはすっかり失せ、伸びるがままにさせている為に一見すれば少女に見える。服はおよそ洗濯というものを知らず、だが長く着古している為に肩がずり落ちそうになり、そこから露わになる肌は垢と埃で汚れていた。孤児と見紛うばかりだが、これでも二親が揃っている家の子供なのだ。頬は涙と不自然な腫れで赤黒く膨らんでいた。

「坊や、どうしたんだい?」
 少年は目に涙を浮かべ、固く口を閉ざしていたが、しばらくしてか細い声を出す。
「父さんが、いない」
「父ちゃんがいないのかい?母ちゃんは?」
「お酒、飲んでる……だから、お菓子買えないよ、ごめんね」
「いいんだよ」
 露店商人は思わず少年を胸に抱いた。すえた匂いが、つんと鼻に突く。彼は、空手であった。少年に菓子も小銭もやれないのが、商人らしくもなく、ひどく残念な思いが広がる。
「おじちゃん、ありがとう」
 そんな商人の心情を察してか、リベラ少年は汚れと腫れのひどい顔で懸命に笑顔を作る。
 くるりと踵を返し、裏路地の更に薄暗い方角へと走って行った。あそこには、少年の住む家がある。予想とも確信ともつかぬ思惟が、商人の脳裏によぎった。
 少年が駆けて行った方角から、派手に物が壊れる音がし、同時に甲高い女の怒声が響いた。そのような光景には慣れているのか、物々しい音と怒声が辺りに響き渡っても、扉は動く気配はない。
 
 坊や、坊や―――
 商人は考えるより先に足が動いていた。風がいやに強い。足を速める度に、周りの景色も変わり出し、次第に吹き付ける風も強さを増して行く。取り囲んでいた薄暗い壁も空も、陰鬱な空気が嵐のような風に取り払われ、すべてがなくなった。"何もない"大地が、彼の眼前に広がっている。

「あ、ああ―――ああ―――」
 荒野に囲まれ、彼は愕然と膝を着いた。髭も唇もすっかり乾き、そこから漏れ出る声も、はやり乾いたものしか出なかった。
 はやり、こうなってしまうのか―――

 びゅうびゅうと風が吹き付ける。強い風に乗って、泣き声が耳に届いた。ただ一つを求める声。強烈に吹き付ける強風で歩くどころか、立つ事すら難しい。それでも、彼は這うようにして前に進む。乾いた不毛の大地を伝って、少年の声が響く。求めている。あの子は、求めている。手も脚も胴体も―――彼が今大地に触れている部分に、ただひらすらに熱望する叫びが流れ込んでくるようだった。

 渇望の嵐の先に"彼"はいた。
 ただ泣き叫んでいる。吹きすさぶ冷たい風は、幼い子供が母を求めて泣き叫ぶ声に呼応しているようだ。男は見えない手に逆らうようにして足を前に運んだ。吹き付ける風は収まる事を知らず、真正面から彼を阻んでいるかのごとく、背を伸ばす事すら困難であった。

 ―――呼んでも来ない―――
 風の中、男は口を開いた。
 声にならない声ではあったが、遠くにある少年には、その声が耳に届いたのか、風に髪を巻き込ませるようにして確かに首を振った。そして再び大口を開け、懸命に母の名を呼ぶ。

 来ないんだ、決して。
 男はまた一歩踏み出した。

「何をするの」
 不意に背後で声がした。知っている声。だがここにいるとは思ってもみなかった。
「サーリャさん」 
 振り返った瞬間に、彼はヴァルム大陸から来た旅の商人から、イーリス教の信徒の姿に戻っていた。術者の干渉と、それにリベラが気付いた瞬間、術は解け始めていた。
「"彼"に何をするの?あなたが今ここで行動を起こせば、"彼"は救えるのかしら」
「私は……」
 言いかけて、リベラは押し黙った。
 そうだ。己は確かめるために彼女の術に頼った。どこの胤かは知らぬ自分は、結局生んだ母親からも捨てられ、神にすがるしか道は残されていなかった。

 リベラは、再びサーリャに背を向ける。
「これ以上は無理よ。あなたの精神が持たなくなると困るわ」
 彼女の言葉が、心底リベラを心配しての事ではなく、戦力を徒に喪った事による軍の損失を、彼女が敬愛して止まない軍師が落胆する事を指しているのは、彼も分かっている。しかし、リベラは足を止める気にはなれなかった。自分の精神を犠牲にしても、という訳でもない。

「彼に、告げるだけです」
 長い髪が真後ろに流れるような強風であったが、泣き叫ぶ自分へ向かおうとすると、少しだけ風は弱まる。サーリャは別段彼を止める様子もなく、相変わらず陰鬱な瞳は彼の背中を眺めているだけだった。
 荒野を一歩一歩進むたびに、甲高い声は空に響き渡るが、風は次第に弱まって行くようだ。

「かあ、さん……!」
 リベラの気配に、少年は泣きはらした顔をくしゃくしゃにさせる。しかし、すぐに違うと気付く。唖然としながらも、不思議とその顔には絶望は浮かんではいない。
「……さま?」
 呼ぶ声に、リベラは頷きはしなかった。ただ短く、私は女神ではない。そう告げた。たったそれだけでも少年は妙に納得したようでった。その証拠に、あれだけ暴れ回っていた風も嘘だったかのように、鎮まっている。少年は鼻を鳴らしながらも汚れた袖で涙を拭う。汚い布地で、涙と砂埃を一緒に擦ったせいで、本来なら紅顔であるはずの少年の面はさらに黒く汚れてしまった。リベラの手は、戸惑いもなく汚れた両の頬を挟む。
「立ちなさい。そして、歩くのです。自分の足で」
 彼は、それだけを告げるとすぐに踵を返した。
 己の言葉が、"彼"に届いたのか―――それはリベラの知るところではなかった。
 
 サーリャは振り返った先、すぐそこにいた。彼女が近付いた訳ではなく、術が解け、今いる世界が消えかけているために縮まっているのだろう。
「お手数をかけました」
 そう言うと、リベラは流れるような金の髪を軽く下げた。今までのサーリャの瞳は、何も映らぬ陰鬱な黒水晶と思われたが、今は呆れたような色を湛えている。
「行くわよ」
 素っ気なく彼女は言うと同時に、黒い髪が大きく揺れる。リベラはその背中を追った。遠くで、大地がこすれる音がする。風は、もうない。  

15/02/04