騎夫人




 昼間の騒ぎが夢の中だったと思えるほど、水を打ったような静けさが広がっていた。だから余計に今身を置いている状況が現実だと浮かび上がる。嗅ぎ慣れない妙に甘ったるい香の匂も手伝ってか、身体は強張り、胸はざわめく一方だった。ひとり―――いかつい甲冑の"供"が默しているだけの―――この部屋に、どうしていいかわからずに、ただうろうろと部屋を歩き回っては、寝台に腰を埋めるを繰り返している。その度に、着慣れない薄絹が脛の辺りをくすぐった。
 
 ソワレはイーリス貴族の一員ではあるが、自警団生活も長く、また、元来の性格もあり、身に纏う衣服は平民の物と変わりない。こんなにもひらひらとした薄布を寝巻きとしたのも、数えるほどだ。ましてや、陽の高い時分に身に着けていた婚礼衣装なぞは、彼女から一番縁遠い衣裳のはずだった。
 亡き兄たちに代わり、立派な騎士になるまでは実家の門はくぐらぬ。
 そう両親に告げて自警団に入ったのだが、再び親元へ帰ったのは、結婚の報告だった。あまりの皮肉さに内心は自虐で満たされていたのだが、当の両親は涙して喜んでいた。
 
 ソワレの家は、代々イーリス王家に仕える騎士の家で、聖王国騎士団の将軍格も幾人か輩出している。しかし、武家である事を誇り、長子次子亡き後の志を継いだとは言え、ソワレは娘。兄たちに負けず劣らず勇ましいと評されてはいるものの、親としては、やはり娘は騎士ではなく良妻賢母であって欲しいと願うものだ。しかも、娘を伴侶と選んだ男は主家の長男。つまりは時期聖王。手放しで喜ばない親はいない。

 

 体力には自信があるソワレだったが、昼間の厳粛で冗長な式典は、思った以上に体力も気力も消費していたようだ。寝台と部屋を幾度か行き来する程度で、身体は重く、胸が息苦しさを訴え出している。
 扉は先刻、侍女が辞してよりずっと黙ったままだ。イーリス聖王国の長男―――すなわち聖王代理―――の気配は感じられない。
 男のくせに支度に随分と時間がかかるもんだ、と何度目かのため息を吐いて、寝台に勢い良く横たわる。身に落とされた香油の香りが、絹の裾と共に舞い上がった。淑女たるもの、しかも初夜に何て粗相を。こんな姿を見れば、実家の母が悲鳴を上げるのは目に見えている。

 ああ、こんな事なら自警団など否が応でも辞めさせて、きちんと相応しい礼儀作法を仕込んでおけば―――

 ひとしきり喜んだ後、母はそう嘆いた。
 長年の忠義の恩賞として、数代前に王家より姓を下賜されてはいるが、所詮は爵位もない下級貴族。その中でも末席に入る位置だ。いくらソワレ自身が、幼少時より王子と懇意にしていても、姻族になるのは話は別のはずだった。だからこの縁談そのものは、ソワレが正式なイーリス騎士叙勲を蹴り、クロムが結成する自警団に行かなければ叶わなかったのだと、ソワレの母は気付いていない。

 新婦は、完全に両手両足を伸ばして寝転んでいた。柔らかな寝台に、引き締まった身体は包み込まれるように沈む。両のまぶたを閉じると、蝙蝠の羽ばたきが聞こえた。改めて、昼間の大祝宴とは正反対の、静かな夜だと実感する。

 異例の婚姻なのは、本人も自覚している。宮廷の家臣たちがよく承諾したものだ。ソワレ自身、相手が王子であろうが、誰であろうが、自分が結婚するなど考えてもみなかった。けれどいつしか、一緒になりたいと思う人が現れて―――いや、近くに居た男にそう思うようになって―――それが偶然王子様であっただけで。
 爵位もない騎士の娘を娶る事が、イーリス王家の長い歴史をいくら紐解いても前例のない事だとは、ソワレですら知っている。イーリスの国祖は、身分の差ゆえに、心から愛した者と結ばれずにいたと伝えられている。以来、イーリスの血族、家臣らはそれを国家の苦渋とでも言わんばかりに、身分や形式にこだわるきらいがあった。
 しかし、当の"世継ぎの王子様"は、先祖の逸話を余所にして、むしろ身分だ血筋だのを排除せんとするような様子だった。彼の創設した自警団は、騎士団とは違い身分を問わず、どのような出自の者でも団員として迎え入れている。更には、国内を哨戒中に"拾った"どこの馬の骨とも知らない若者を手放しで信用し、今ではイーリス王国軍の軍師に命じたほどである。ソワレとも、気にしてなどいたら、夫婦になるどころか、肩を並べて剣を学ぶ機会すらなかっただろう。

 ―――肩、並べていたのだろうか。
 心中が穏やかでないのは、ただこれから起こる未知の世界に不安なだけではないようだと気付く。
 身分を飛び越えた結婚ではある。そうなる前は、何の遠慮もない、家族までとは言わないが、気の置けない間柄を、空白はあるが十年年以上続けて来た。当然、互の幼い姿も知っている。手にするのが棒切れから剣に代わってからも、王家の教育係の目をかい潜って二人してそれを振り回していたのを良く憶えている。
 本格的に剣を学ぶようになってからは、まだ腕力に差がないゆえか、勝っては負けてを繰り返していた。勝つまで勝負を挑み続けて、いつの間にか陽が暮れていた事もままあった。
 
 しかし、永遠に続くかと思われたはずの日々は、思い返せば僅かな年月だった。
 順当に成長すれば、男女の身体の差などは嫌が応でも顕れる。深い青色の髪を、ソワレが見上げるようになるにはそれ程時間はかからなかった。それだけではない。クロムはエメリナが王位に即した年の頃になると、王族としての公務が急激に増え、一介の騎士の娘たるソワレは、王子の前に出る事が急に難しくなった。
 
 今までの関係が特例だっただけな事も、国の事情や王族勤めを、まだ十二も満たない小娘が簡単に飲み込めるはずもなく。ソワレは剣を手にクロムの住む屋敷へ何度も向かおうとしていたが、その都度両親に文字通り押さえ込まれた。
 あの時は、ただ勝負に負けて終わった事に納得いかずに、クロムとの勝負に執着していただけだと思っていた。それは違うのだと知ったのは、いつ頃だろうか。そう思いながら左手をかざす。
 
 燭台の灯りを跳ね返した光が、銀色の筋となって薬指に走っていた。いや、それは分かっている。その気持ちを押し込めながら、自警団に従事していたのだから。ずっと押し込めておくつもりだったのに。まさか指輪を贈られ、結ばれる事となろうとは。
 
「すまん、待たせたな」
 扉の開く音と共に、慌ただしい声と足音が部屋に入って来た。丁度思い描いていた姿が現物となった。ソワレも慌てて身を起こす。扉を開けた従者は、新婦の行動に目を丸くさせながら、そそくさと退室して行った。

「あ―――ああ、本当だよ」
 笑ったつもりだが、頬が引きつれる。花婿本人は、みっともない格好を見てしまったからと言って、今更幻滅されたりはしないだろう。だが、一応最初は礼節を大事にするべきだと、母の教えを思い起こす。
 
 婚礼の準備がそれぞれに多々あり、ソワレも数ヶ月前から王城で暮らしてはいたのだが、ほとんど顔を合わせてはいなかった。数日ぶりに再会できたのは式典の最中で、二人だけで言葉を交わせるような時間が戻ったのは、今がその時であった。
 久しぶりに出会ったはずなのに、花婿の表情は、何とも言い難いものになっていた。緊張しているとか、ソワレのだらしなさに呆れているなどの類ではない。
「……変だと思っているだろう」
「……」
 クロムは言葉は濁しているが、ソワレは察していた。白昼での婚礼衣装に身を包んだソワレを目の当たりにした時と、さほど変わらない表情だった。式典中は使用人から高官まで、大勢の人々に囲まれていた。その上、式は荘厳と神聖を尊び、私語など一切許される状況ではなかった。しかし、口は開かねど、あの時一瞬だけ見せた表情が全てを語っていたと悟っている。
 幼少時は頻繁に野山を走り回っていたが、儀礼的な場を共にしたのは数える程だ。クロムの記憶をいくら辿っても、女らしい格好のソワレは見当たらないだろう。彼の場合、忘れていたと言った方が正しいのだが。 
 
「まあいいさ。その内見慣れてくれるといいけどね―――もしかして、そんな気が起きないとか言うんじゃないだろうね?」」
 と、肩をすくめる。母と侍女からは、粛々として待つように、そう釘を刺されていたのだが、端から心得るつもりはなかった。ほんの少しの後悔が陰る。貴族の令嬢らしい教養など、何一つ習得していない身が、望んで王族の妃となったのだ。婚礼が正式に決まってからと言うもの、そのつけが凝縮されてソワレに圧し掛かっていた。重歩兵の鎧並みの鈍重な衣服と空気を纏っての公務も、覚悟を決めて臨んだ事だ。しかし、最初から夫となる者に微妙な反応をされては、さすがに面白くはない。

 軽い口調でそう問いかけるも、クロムは微妙な顔のまま黙し続けていた。ソワレの胸中では、すぐに否定の声が上がる予想ではあった。図星だったのかと、思わず眉をひそめる。クロムが口篭るのは、珍しく思えた。正直に言ってはいけない言葉なのか、ただ恥ずかしいだけなのか。
「クロム?」
「いや―――少し、驚いただけだ。何て言うか、その―――」
「何だって?」 
「珍しいものを見たというか……」
「やっぱり変だと思ってるんじゃないか!」
 クロムの言葉が終わるやいなや、ソワレは甲冑の手から槍を取り構えた。日頃鍛えているお陰で、その所作は流れるように早い。装飾用なので棒切れのように軽く、穂先も丸く、耐久性もないだろうが、一瞬で頭に血が上ったソワレには、そんな事はどうでも良かった。そこへ直れ!と香の甘い匂い漂う寝室に響き渡る。

 クロムは冷たい汗を背中で感じつつも、周囲を見渡す。当然ではあるが、ソワレの手中の槍にまともに対抗できる得物など、初床の場にあろうはずもなかった。そもそも、装飾用とは言え、夫婦の寝所に甲冑があるのも妙でなはいかとクロムは思う。武勇を誇る花嫁を思って使用人が置いたのだろうか。

 普段なら、それ位の軽口で逆上するような性格のソワレではない。クロムも彼女の性格を熟知しているからこそ、気安い言葉を突いたはずだった。しかし、結果はこの状況だ。気の利いた言葉を探す内に、つい口が滑ってしまったのは完全に失態であったと歯噛みする。だが、悔いている間はない。
 寝所は狭くはない。だが、ここは訓練場ではない。槍を振り回すのも、ましてやそれを武器を持って受け止める程の広さがあるはずもない。が、日々の鍛錬の賜物か、ソワレの槍は家具から調度品、壁窓に至っても何一つ掠らせもせずに槍を繰り出す。
 
 かつて観た大衆劇さながら、妻から得物を向けられるとは―――しかも初夜に―――思いもよらなかった。しかしやはりクロムも武に関すれば、引けを取らない自負がある。妻の手中の槍の刃に、殺傷力はそれ程ないのはすぐに見て取れていた。それでも、打たれれば痛手はあろうが。
 クロムは穂先を紙一重でかわすと、身体の後方まで伸びた柄を、すかさず掴んだ。ソワレの眉が苦渋に寄る。槍を引こうにもびくともしなかった。こうなる事は容易に想像できたはずなのに―――まだ自警団の新兵だった頃に、散々やられた光景だった。後悔するのと同時、ソワレの身体が浮き上がった。視界が反転したかと思うと、寝台の上に投げ出される。羽毛の掛物が受け止めたお陰で、痛みは全くない。
 驚きで動けずにいた身体の上に、影が落ちる。それが夫の物だと知ると、ソワレは一も二もなく身を捩った。直後、ぼすんと鈍い音が響く。彼女の上半身があった場所に、石突が突き刺さっていた。

 槍をソワレの影に突き刺したまま、クロムは微塵も動かなかった。ソワレは恐る恐るクロムの顔に視線を向ける。先刻の、狼狽や焦りといった表情とは違う、怒りに近い光を、彼はこちらに向けていた。

「―――ごめん―――済まなかった」
 何て事をしてしまったのだろう、とソワレは額に手を当てる。
 気分の波が荒立っていたとは言え、些細な言葉で暴力に出た事、母や侍女の教えをすっかり手放してしまった事、そして、あっさりとクロムに負けてしまった事。恥ずかしさと情けなさで逃げ出したくなる。身分や淑女らしさから、かけ離れた身を迎え入れてくれたのに。

 失望されただろうか。そう不安になっていた矢先、クロムから喉が鳴る音が聞こえた。訝しみながら身を起こすと、石突を寝台に突き立てた状態のまま、クロムの肩は震えている。そして、彼は高らかに笑い出した。

「クロム?」
「い、いや、おれの方こそ済まん」
 ひとしきり笑い終えると、クロムも素直に謝罪を告げる。目に涙を溜めてだが。
「お前とこうするのも久しぶりだと思ってな」
 そう言われ、ソワレも槍を振るのも随分と久しかったと気付く。結婚が決まってから、礼儀作法の習得に日々を費やしていた。クロムどころか、愛馬とすらまともな対面も叶わずにいた。遠乗りもできず、剣も槍を握る事もできず。"鍛錬"に勤しんでいただけでなく、指南役の侍女や、母親の目が光っていたのもある。

 そう気付くと、胸が軽くなった気がした。少しではあるが、久しぶりに体を動かしたせいもあるだろう。
「いや、でも済まなかった。いくら何でも、こんな場所で」
「まあ、最初は驚いたが……でもお前らしいとは思うぞ」
「……なっ!それじゃあまるでボクが乱暴者みたいじゃないか!」
「違うのか?」 
 ソワレは右手を後ろに遣る。しかし、目的の得物は今しがたクロムが床に追いやっていた。仕方なく枕を引っ掴んだが、クロムの手がソワレの両の手を枕ごと封じた。

「ただ、こういうのは二人の時だけにしてくれな」
「……はい」
 動きを封じられ、面と向かって堅く言われると、しおらしくならざるを得ない。
「おれもお前も忙しくなるが、できるだけ手合わせはしよう。これは約束する」
「ああ。絶対だよ」
 実現する保証は不確かだが、その言葉に手放しで安心を覚える。例え王族となっても、妃となっても、剣を振る己を受け入れてくれる。幼い頃と変わらなかった。それが何より嬉しかったのだ。





「それじゃあ、改めてやるか」
 その言葉に、ソワレは目を丸くして夫を見た。
「やるって、今からかい?」
 昼間の式典の疲れは残っている。剣を振れない事はないが、本音を言えば休みたい。明日も王族としての公務が待っている。
「悔しくないのか?おれにやられて」
「悔しくない事はないけれど―――」
 訓練場もここからは遠く、今から着替えて行けば深夜になるだろう。こんな時刻に準備をしなければならない使用人の負担も大きい。それを告げると、クロムの眉がわずかに寄ったが、すぐに口元を緩める。
「別に移動する必要もない。ここでできる勝負だってあるさ」
「何を……」
 言いかけて、ソワレの顔は彼女の髪同様に染まる。そんな"勝負"、最初から目に見えているではないか。



 
13/07/17   Back