草食んで、砂を踏む 2



 どこまで走ったかはわからないが、追っ手の声は聞こえなくなった。
 真夜中の砂漠など危険極まりない。しかし、逃げたからには逃げ切らなくては。危険な職業には就いているが、生の執着は人並みにはある。運よく身を隠せる大きな石柱のような物を見つけた。最後の力を振り絞り、その影に倒れこむように身体を預ける。

「おじさん、疲れちゃったよ……」
 砂に埋もれた竜は、瞬く間にあの少女の姿へと変わる。起き上がると、露出の高い肌は、纏っているかのよう砂を貼り付かせていた。それを払い落とす気力もないようだ。グレゴも全力で走った疲労がどっと全身にのしかかり、驚く余裕はない。あの声で、竜が少女だとは予想が付いていたが。
 腰に下げていた水筒の水を少し口に含むと、少女に水筒を差し出した。少しだけだからな、と言っても少女は夢中で喉に流し入れる。が、すぐに咳き込んだ。

「あー、すまんな。それ少し酒入れてんだわ」
「喉がひりひりする」
 それでも少女はゆっくりと流し込んだ。慣れて来たのか、それとも多少の刺激があっても水分が必要だと考えたのか。
 酒を禁じられて素直に従う性格ではなかった。雇い主たちに捨てられる前に、密かに水筒に混ぜておいておいたのだ。これくらいの薄い酒など、彼には水のようなもの―――だったが、やはり砂漠でこれしかないとなると、厳しいかもしれない。

「でも、ありがとう。おじさん」
 屈託のない笑顔を前に、グレゴは苦笑いする。
「ああ。でもおじさんは止めろよ」
 若いとは思ってはいないが、おじさんと呼ばれる年でもないと思っている。微妙な年頃なのだ。
「おじさんの名前、なんて言うの?」
「グレゴだ。あんたは?」
「ノノ」
 改めて名を告げると多少の照れが沸き起こる。傭兵として生きるようになってから、つまりはこの名を名乗ってから、もう二十年以上経つと言うのに。本当の名前を忘れそうになるくらい、この名と生死を共にしてきた。
「グレゴおじさん、いい人だね」
「だからおじさんじゃねえって。いい人なのは当たってるがな」
「ねえ、何でノノを助けたの?ギムレーの手下なのに」
「おれはギムレー教徒じゃねえし、そいつらの手下でもねえよ。こんな小さな子供が捕まっているは放っておけない性質なんだよ」

 グレゴはイーリスの山村出身だが、熱心なイーリス教信者ではない。実際、最後に教会に行った時を覚えていない。ギムレー教団も、その辺りは割り切って、憎きイーリス人"かもしれない"傭兵を雇い入れているのだろう。雇われる際、僧侶にフードの下から舐めるように視線を送られたが、出自や信教は訊かれはしなかった。その時から、何故か嫌な予感が肚の中で沸き起こったが、報酬の額と護衛"だけ"という内容は、砂漠という過酷な環境を差し引いても魅力的なものだった。
 だが、結果はこれだ。嫌な予感という不確かなものなど理由にならない。そう肚の中のものを抑えて砂漠に来たというのに。
 
「ノノは子供じゃないよ!ノノ千歳!おじさんより年上なんだから!」
「あー、はいはい」
 グレゴはマムクートという種族を知らない。だから、竜族が悠久の時を生き、千年は人間に例えると充分に子供であるのはもちろん知らない。
 ノノが子供と言われて怒る。グレゴがおじさんと言われて不快感を出す。それは同じ舞台に上がっているのだが、本人たちは気付いていない。


「それよりも、これからどうするかだ……あんた、ここがどこだか」
「しらない」
「だよな……」 
 グレゴはため息を吐いて水筒を振った。決して豊かではない水音が聞こえると、蒸発してしまう前に口にする。まずは砂漠を出る事が優先だ。脱出した先が戦場だろうと、砂漠を出たならば生き延びる自信はある。

「でも"これ"が何だかはしってる」
「あん?」
 ノノが休み処としている石柱のような物をそっと撫でた。懐かしいような、悲しそうな瞳を見た。
「そういえばお前、どこから来たんだ?親はどうした?」
 ノノは首を振る。
「ノノは気が付いたら人間と一緒にいたの」
 その物言いは、グレゴの胸を引っかかせる。異種族でありながら、人に育てられたという様には聞こえない。
「"みせもの"だって。マムクートは珍しいとか言ってた。中には優しい人もいたけど、それでも飽きると別の人間に売られて―――でも、あのギムレーの人たちは違う。ノノをみせものにしようとしてるんじゃなくて」
「ああ、そう言えば……」

 少し早まったが、その小娘と共に、ギムレー様の血肉にしてやろうではないか―――

 ギムレー教徒の言葉を思い出す。
 見世物にされただけでなく、最期は怪しげな儀式に使われようと……
 その目は竜の少女と弟を重ねかけていた。子供の売買など、嫌な話だが珍しくはない。しかし、もう一度あの呪術師の言葉を思い出し、その意味が頭を巡る。

 待てよ……
 グレゴは自分の喉を押さえた。ギムレーの僧に捕まっている時、何か飲まされなかったか?
 暗くてそれが何かはわからなかった。だが、呪術師の長い爪と、何とも言えない嫌な味と感触が徐々に舌と喉に蘇る。吐き出そうとも、すでに遅いだろう。

 グレゴは剣を取って立ち上がった。
「行くぞ」
「えっ?」
 何としてでも砂漠を抜ける。時間がないかもしれない。だが、この娘を逃すだけでも……
「時間がないかもしれない。早く……」

 そう言って顔を上げると、急に光が目に飛び込んだ。思わず目を細める。幾つもの松明と人の気配に囲まれていた。闇夜と疲労で気付かなかった。
「ちくしょう、見つかっちまったか」
 迂闊だった。歯噛みしながら唸る。全面を睨みつけると、やはり漆黒のローブや妙な被り物をしたギムレー教徒たちがいた。

「やれ」
 呪術師の一人が、背後の手下に顎で命じる。その中の一人がすかさず呪文を唱えた。
「何とか隙を見つけて逃げるんだ。いいな」
 グレゴは剣を構えつつノノの前に出る。砂を踏みしめる音が響いた。次の瞬間、黒い影がグレゴを襲う。松明の灯りを浴びて白刃が光った。グレゴの身体は自然と動いていた。呪術ならまだしも、剣ならば充分に立ち向かえる。
 人の身体を斬った手応えが握った柄から伝わる。倒れたかと思うと、また一人、二人とグレゴを襲う。無我夢中で剣を振った。

「早く逃げねえか!」
 斧と剣を交えつつ、グレゴは背中の少女に向かって叫んだ。だが、怯えて足がすくんでいるようで、動く気配はない。
 ずっとグレゴの背中に貼りつくようにいるせいか、教団の誰も彼女に手を出せないでいるようだ。グレゴを襲っている―――恐らく元仲間の傭兵たち―――も、彼女を傷付けてはいけないと命じられているのだろう。
 
「仕方がない。生贄はできれば多い方が望ましいと思ったのだが」
 司祭らしき老人が呟く。背後の呪術師に目配せすると、呪術師は唱えていた呪文を途切れさせた。すると、グレゴを襲っていた傭兵が突然崩れ落ちる。
「何……?」
 足元に斃れた傭兵は、松明の灯りに全貌が浮かび上がる。細身で背の高い男。その肌は闇色に染まったようにどす黒く、見開かれた瞳は赤く光っていた。だらしなく開けた口からは、黒い煙が漏れ出ている。だが、様相が変わっていようとも、つい半日前までは一緒に仕事をしていた男なのはわかる。辺りを巡らせば、グレゴが斃した傭兵たち全てが見知った顔で、同じように変貌していた。

 グレゴの背筋に冷たいものが走る。斃れた傭兵の容貌が、最近まことしやかに囁かれている、"化け物"を思わせた。

「貴様のせいでギムレー様への生贄が減ってしもうたわ」
 と呪詛を吐くものの、司祭の顔は余裕を見せていた。
「まさかてめえ、最初からこうするつもりで……」
「当然よ。憎きイーリスの、ナーガを信奉する輩などに誰が金を払うか。ギムレー様にお捧げして我らの心も幾分か晴れるというものよ」
 高い賃金で傭兵を集めていたのもうなずける。さらに、いくら危険な砂漠とは言え、小規模の教団にしては人を雇い過ぎているとも感じていた。

「どっちにしろ働き損って訳か。傭兵なめんなよ」
「ふん、そんな口叩けるのももう終わりじゃ……」
 司祭はゆっくりと何かを唱え始める。止めようと剣を掲げるも、残っていた傭兵が繰り出して来た。彼も顔は黒く、赤い目はただ光るだけでグレゴを映してはいない。

「貴様もじき仲間になるのだ。仲良くしておけ」

 グレゴは数合の剣戟の後、怯んだ隙を見て傭兵の脇腹に足を入れた。麻袋に綿を詰めたような、明らかに人の腹とは思えぬ感触だったが、あっさりと身体は吹き飛んだ。すぐさま少女の腕を取り、抱え上げる走り出そうとする。だが、脚が急に重くなり、グレゴは膝を付いた。逃げた矢先に度重なる戦闘に、身体が悲鳴を上げたようだ。

「……おかしい……なぜだ……」
 司祭はグレゴに近付きながら、口の中でぶつぶつと呟いている。重い足を引きずろうとしたが、すかさず呪術師らがグレゴの身体を縛り上げた。
 司祭の枯れ枝のような指はグレゴの顎を捕えた。すると、皺だらけの顔に更に皺を寄せて、グレゴの顎を投げ捨てるように指を離す。
「あれだけ禁じたはずなのに……!ふん、これだから傭兵などは信用ならんのだ」
「お前らだって騙す肚だったじゃねえか」
 グレゴは不気味な顔を近づけられた不快感を示すように、傍の砂地に唾を吐く。同時にかすかに残った酒精も砂地に吐き出された。
「誰か最高司祭様に報告を。"あれ"の精製にはまだまだ改良の余地があるとな。呪術がなければ動かぬ所もじゃ」
「なあ、もしかして……最近噂になってる化け物って……」
「貴様が知る事はない。大人しくナーガの小娘と共に供物になれ。そう言えば、あの小娘は……」

「こーこまーでおーいでー!」
 明るい声に司祭が振り返ると、ノノが呪術師たちから逃げ回っていた。呪術師たちは、子供とは言え素早い動きに四苦八苦している。竜に変化していない子供の上、砂漠を逃げて来たのだからと甘く見ていたのだろう。
「何をしている!」 
 司祭が苛立つ声を上げるが、足首まである長いローブを纏った、不健康そうな身体つきの男たちは、ノノの動きに付いて行けないようだ。まるで、元気一杯の孫を持て余す老人のようだ。良く見れば、ノノの顔はほんのり赤くなっている。激しい運動で身体が温まった訳ではなさそうだ。

「あー、さっきの……」
 酔いが後から回って来る性分なんだなあ。と呑気に見ていたが、喉元に固い物が当たり、身体を硬直させた。
「ナーガの小娘よ。これが何だかわかるか?」
 司祭の言葉と光景に、さすがに酔いが醒めたようだ。ノノはぴたりと走るのを止めた。近付こうとすると、司祭はグレゴの喉元の刃を近くに寄せる。
「おじさん……!」
「いい子じゃ。大人しくせよ」
「どの道おれ達を生贄にするつもりだろうがよ、聞くんじゃねえ!」
「いや、お前の命は助けてやるぞ。ナーガの眷族をギムレー様の血肉とすれば本懐じゃ」
 
 くそ、ここまで来て……
 ふと、ノノが何かと重なった。背は違うが、己の年の頃はあれ位の時だったか。ならず者が村を荒らし、弟を連れ去り、諦めろという大人を振り切って、薪割り用の斧を手にならず者を追いかけた。だが、自分よりも遥かに大きな賊たちを前に、ただ震えるしかできなかった。目の前で殺された弟は、情けない兄だとさぞ嘆き悲しんで死んだに違いない。済まない。不甲斐ない兄ちゃんで。済まない……グレゴ。悲壮な顔でじっとこちらを見る弟が、首を落とされる直前の光景が、グレゴの視界まで覆った。

「―――ノノ!!」
 グレゴは弟の幻影を吹き飛ばすように叫んだ。
「石だ!石!」
 渾身の叫びは、怯える少女を我に返させるには充分だった。ノノは腰の物入れに納めていた、拳ほどの石を掲げる。しまった!というギムレー教徒らの声が聞こえた時には、炎が竜の口から勢い良く出ていた。
 司祭は砂地に燃え盛る炎の前に腰を抜かしたのか、這って逃げ出す。その時、持っていた小刀が落ちたのをグレゴは逃さなかった。

 方々に吹き出る炎に、ギムレー教の呪術師たちは混乱していた。司令である司祭が腰を抜かしている状態では統率も何もない。グレゴは剣を手に竜の元へ走った。

「おじさん!」
「行くぞ」
 竜の大きな頭はかぶりを振る。呪術師たちへ向け一度炎の柱を噴きかけると、グレゴの襟を掴んで翼をはためかせた。
「おいおい」
 足が宙に浮いたままでは収まりが悪い。だが、竜の娘はグレゴに意に介せず(なにせ、竜の顔では表情が良く分からない)砂漠を横断しようとしていた。

 確かにグレゴは楽だが、やはり竜とは言え、幼い娘の体力は砂漠を渡るには不十分なようだ。大した休息も取れていないのもある。空が白んで来た頃、ノノはグレゴを降ろし、元の少女の姿に戻った。

「大丈夫か?」
 大きく肩で息をするノノに声をかけ、グレゴは辺りを見渡した。辺りは砂漠だが、短い草花が点在している。砂漠を抜けられるかもしれない、という淡い期待が胸に浮かんだ。だが、砂の丘の向こうに影が見え、その期待を打ち消した。
 今度はグレゴがノノを背負おうとしたが、竜の少女は固く拒んだ。
「大丈夫だよ。おじさん」
「だが無理は……」
「大丈夫だよ!」
 ノノは意固地になったのか、グレゴに舌を出すと一気に駈け出した。待て、と言う間もなく小さな姿は遠くなって行く。
「おいおい、待てってば……!」
 ようやくノノに追いついた時には、太陽は再び高く昇っていた。ぎらりとする日差しが肌を刺す。怪しげな影が幾つも、遠巻きにだが、彼らを取り囲むように揺らめいていた。

「まずったか……」
 朝陽と緑地に気が緩んでいたかもしれない。剣を手に周囲を睨むと、影の一つが思いもよらぬ声を上げた。


「お兄ちゃん!今人が走って来たよ!」
 随分と若い娘の声だった。ノノよりは上だろうが、それでも、こんな場面で聞くような類の声ではない。
「確かに……二人の人が見えます。子供と傭兵風の男ですね……」
 今度は若い男の声だ。きちんとしたイーリス語。何年か前王都の役人と、ちょっとした通行税の払いでやり合った時を思い出させる。
「きっと人攫いだよ。女の子の方が慌てて走っていたもん!お兄ちゃん、ルフレさん、助けてあげようよ!」
「そうだな……この砂漠には野盗やギムレー教の過激派が潜んでいると聞いている。あの娘もきっと……」

「あんなあ!おれも含めて追われてんの!」
 言いたい放題言葉を投げかけられ、腹立たしいばかりだ。その一団は武装はしているが、鎧や装備もまばらで、旗すら見えない。中には珍しい、天馬の兵士までいた。どこの軍か傭兵団かはわからないが、グレゴには少なくともギムレー教団ではなさそうに見えた。あの独特の陰気さが見えないのが最もな原因だろう。
「追われている?」
 その中の、青い髪をした若者が前に出た。娘に"お兄ちゃん"と呼ばれていた男だ。剣を佩き、長旅に薄汚れた身なりをしているが、決して低俗な身分ではないとグレゴは直感していた。
「そうだ。ギムレー教の連中に追われている。手を貸してくれないか?」
 切羽詰まっている状況が、勘を頼りに一団を目指す。賭けと言っても良かった。ギムレー、と告げた時の、青髪の青年の眉がぴくりと動いたのも見逃さなかった。
「おねがい、助けて!」
 ノノも必死で青年に請う。背後には、ギムレー教の手の者が迫っていた。傭兵はグレゴを除いて皆あの"化け物"になっていたと思っていたが、まだ大勢雇っていたようだ。

 青い髪の青年は、背後に迫るギムレーの軍勢を前に、答えは決まっているようだ。腰の剣を抜き、傍にいた騎士風の男に何やら話しかけている。騎士が頷くと、青年は剣を頭上にかざした。直後、彼らの一団がわっと砂を踏んだ。グレゴはその様子に口の端を挙げ、賭けの勝ちを確信した。どうやら、まだグレゴと名乗っていけそうだと。
 

12/08/05 初出 13/09/11 加筆修正   Back