許倶戴天



 背を丸め、肩をいからせ気味にして歩くのはギャンレルの昔からの癖だった。周囲の兵たちは眉をひそめながら彼に道を空ける。なぜ、このような男が。と悪意の籠った声が抑えられずに囁かれる。ギャンレルを受け入れた軍の上層部への不満の声も方々で漏れる。悪意や怨嗟に満ちた中を闊歩するのは慣れている。むき出しの悪意にも一向に構わず、むしろ兵らを挑発するかのように目ねつける。
 彼が下町のごろつきならば誰も気にしなかったであろうが、これでも一国の王であった男だ。貧民街の中から玉座に強引に押し上げられた身だが、誰も彼の達振る舞いに気に掛ける者はいなかった。彼を恐れていた訳ではなく、ただ王の中身には興味が持たれなかっただけだ。これもただペレジア教会からの指示だと、彼は後に聞かされた。彼にとってもどうでもいい事なのだが。
 
 逃げるようにして立ち去った兵士の影に、彼は唾を吐いた。気に食わないのは、この軍の大半の人間から向けられる感情ではない。イーリスの住民が、いや、ペレジア人ですらも自身を憎んでいる者は星の数ほどいるのは知っている。それだけの事をしてきた自覚はある。最近ずっと虫の居所が悪い理由は、憎き仇であるギャンレルを軍に誘い込んだ事でもない。その誘いを真っ先に口にしたのが、ギャンレルを最も憎むべき相手だった訳でもない。

 またもやギャンレルを見つけた兵士が、慌てて踵を返す。兵士の向かった先には他の兵らもいた。ギャンレルは鼻を鳴らし、より肩を上に上げて足を大きく繰り出す。が、兵士の群れまで十数歩という距離で、その足はぴたりと止まった。皮肉に歪んでいた浅黒い顔がより深く歪む。ギャンレルの変貌に兵士らは恐れ慄くが、懸命に一人の女を背中に隠そうとした。そんな兵士らの忠誠心を知ってか知らずか、女の影がゆらりと揺れ、兵士の壁から身を現す。

「エメリナ様っ」
 止める声も、彼女には届かないようだ。すっとギャンレルの前に立ち、じっと見上げる。明らかな憎悪を向けているにも関わらず、瞳はまっすぐに彼を映していた。エメリナの背後で、兵士は慌ててどこかで走り去った。
「あんだよ」
 憎悪の槍を収めないまま、ギャンレルは口を大きく歪めた。大所帯になった軍に紛れ、なるべく顔を合わせないようして幾月を経ても、胸糞の悪さは変わらない。
「それとも、思い出したか?このおれを」
 ギャンレルの心中と同じく、彼に向ける瞳は、彼女がこの軍にやって来た頃より変わらない。仮にエメリナの記憶が戻ったしたとしたら、軍の上層部が大騒ぎであろう。彼に向けられる瞳も、違っていただろう。いや、"元に戻った"と言うべきか。むしろ、ギャンレルはずっとその時を期待していた。

 "あれ"は彼にとって、勝負だからだ。
 目の前にいる元聖王は、互いに現役の頃から脳裏に浮かべるだけで気分を害していたが、彼女に対しての行いは、今思い返しても愉快この上ない。
 如何にして、あの聖人ぶった女を戦場に引きずり出すか。怒り、憎しみを露わにしてペレジアに武力を向けさせるか。王となり、ペレジア宮廷内で一通り暴れた後、ギャンレルが次に思い付いたのがイーリスに対する"外交作戦"だった。ギャンレルが即位してから側仕えとなった女の入れ知恵でもあるが。

「お前をこんな目に遭わせたのはこのおれだ」
 猫背をぐいと伸ばすと、エメリナの背は割と低い事に気付いた。ギャンレルは鼻を鳴らす。今まで「話し合い」を求めて止まなかったエメリナと、真正面から向き合ったのは今が始めてではなかろうか。
「だがな、これだけは言わせてもらうぜ。お前は逃げたんだよ」
 ギャンレルは薄く口を開き、歯を覗かせる。いくら挑発しても、ごろつきを遣ってイーリスとの国境を荒らしても、最後はイーリスの貴族を拉致しようとも、どれだけイーリス人を殺そうとも、エメリナは一度もペレジアへの報復はしかなった。だが、ギャンレルはそれを高潔とは微塵も思っていない。高潔というものを、彼が知らないだけかもしれないが。
「逃げたんだよ。何もかもから」
 彼にとって、勝負に引き分けなどなかった。一方が生き残り、一方が死ぬ。それも無残に、何も残せずに。それがギャンレルの言う"勝負"だった。誰も得をしない終わり方など、認め、剣を収める方法を彼は知らなかった。
 エメリナはギャンレルの放つ言葉の意味も、視線の矢も理解できず、純粋無垢に笑っているだけだ。記憶のないエメリナは、精神も幼く、まっさらな状態になっていると言う。元々処刑するつもりだったのだから、今のエメリナの状況に同情する気も、胸を痛ませる気もさらさらない。苦しみから逃げるのだと自覚して飛び降りたのかもしれないが、それはギャンレルの知るところではない。

 遠くで兵士の声と複数の足音が聞こえる。「騎士さま」が来やがったぜと振り返らずにそう吐いた。硝子細工に、むき出しの感情をぶつけるのもここまでのようだ。
「ま、せいぜい養生するんだな。てめえが記憶を取り戻した時、てめえがどういう顔をするか、どんな風に苦しむか愉しみなんだ。おれはその為にここに居て、今も生き恥晒してんだからな」
 エメリナもギャンレルも、もう一国を背負ってはいない。しかし、互いに一度死んだと思われていた身だった。王としての禍根はない。しかし、それでもエメリナの記憶が戻った時、その時は迷わず剣を振り上げるつもりだった。例え、その後の我が身がどうなろうとも。


14/05/22   Back