magnolia




 春の陽気は、城中のあちこちに差している。太陽が沈んでも肌寒さを感じなくなっていた。日中は汗ばむくらいだ。
 春の花と、春の到来を告げると言われている鳥をあしらった壁掛けや置物が、城内のあちらこちらを彩っていた。もうすぐ国を挙げての宴が始まる。イーリス王城だけではなく、城下町も春の到来と小さな姫を祝福しているのだ。

 寝静まっても沸き立つ空気を残している城内を他所に、ルキナは充てられた一室にいた。机の上の、口の縛られた小さな袋に目を遣る。食糧は現地調達、必要最低限の物だけを持ち歩く生活ががずっと続いていた為か、イーリス軍に参入しても、私物はほとんど増えなかった。

 そう、こんな季節。

 自分が生まれたのは、こんな小春かで、誰もが待ちわびる季節なのだ。
 "自分が誕生した"事を知ったのは、イーリスの城下町に息を潜めていた時だった。エメリナの死は結局防げず、ギムレーの影はまだ水面下で蠢いている。その影を掴む為に、また、共に未来から来た仲間たちと会えるよう、潜伏先を城下町としていた。
 父と母の婚礼も、その翌年の姫君の誕生の時も、ルキナは民衆に紛れて、王城のバルコニーを見上げていた。戦争の傷跡がまだ残っていたからだろう。人々は熱狂的な喜びでルキナの両親を包んだ。
 まだ若い父と母は、お伽話の挿絵に出てくる王子様とお姫様を思わせた。きらきら、きらきら輝いていて、やがて訪れる悲劇など微塵も知らず、精悍な顔と美しい顔を綻ばせ、時には腕に抱く姫に優しい眼差しを送っていた。
 
 この国の姫君が、両親を始め、親類家臣臣民に心から祝福されているのは、宴への様子で良く分かる。王女の初めての誕生日で、クロムが城へ戻って来ていたのもあるからかもしれないが。幸せ者だ、とルキナはこの空気を噛み締める。そして、その子が両親を喪う運命から守れた事を、心から安堵している。もう、憂いはなかった。


 
 外は肌寒い訳ではない。しかし、体によく慣れたマントを羽織るのは習慣に近かった。剣の鞘と帯の具合も確かめ、ルキナはそっと扉を開ける。途端、廊下一帯に赤子の鳴き声が響いた。夜半の、しかも人気のない石造りの廊下は、子供の声を城中に届かんばかりにさせていた。すぐに廊下の端から、侍女たちの足音と気配が続いた。姫様どうなさったのかしら、と侍女の訝しむ声もルキナの耳に届いた。

 まさか、とルキナは廊下の端の扉へ視線を向けた。小さなルキナはまだ機嫌を治していないようで、苦しそうに息継ぎをしながら精一杯声を上げている。イーリスの姫は、乳母たちにとっては手のかからない赤子のようで、ルキナもこの部屋を充てられてから、数える程しか夜泣きは聞こえて来なかった。しかも、こんなに激しく泣くのは初めてだ。
 
「一体、どうしたんだろうな」
 急に背後から父の低い声がし、ルキナは飛び上がらんばかりに振り返った。この一角は王族の家族や近親者の室が並ぶ。国王夫妻の部屋は少し離れてはいるが、ルキナの激しい鳴き声は、彼らの居る部屋にまで聞こえたのだろう。ふと視線を泣き声の方へ戻すと、母の夜着の裾が忙しなくひらめいていた。

「子供にはよくある事でしょう。でも、お母様がいらっしゃたのですから、きっとすぐに泣き止むかと」
「だといいんだがな」
 と、クロムは顎に指を当てた。そのまま、ちらと目をルキナに遣る。この出で立ちで、父は気付いてしまったかもれない。しかし、言い訳を考える間もなく、再びクロムの声がルキナにかけられた。
「ルキナ」
「は、はい……」
「最後に、"ルキナ"の顔を見てやってくれないか」
 ゆっくりと諭すように言われ、ルキナは震えながら頷いた。

 
 起こしてしまった事を謝る母に、ルキナは首を振る。部屋に入った頃には、もう一人のルキナは泣き止み、母親の腕にしがみつくように抱かれて、じっと来訪者を見ていた。
 髪はまだ伸びきらず、色も太陽に晒された湖のような色だ。しかし、あと数年もすればこのルキナのように、父譲りの深い青になるだろう。
 ルキナと違わぬ紋を象った瞳は彼女を映している。父から受け継いだ、もうひとつの証。この聖痕をイーリスの旗印とし、ルキナは絶望の中戦った。けれど、もうこの子にはその必要なないのだ。ファルシオンを握る必要など。

 ルキナの指は、そっと小さな頬に触れる。
「……どうか、しあわせに……」
 子も、子を抱いている母も、きょとんとした顔でルキナを見る。構わずに、ルキナの頬に触れていた指は小さな手を握った。
「もうすぐ一歳なんですからね、あまりお母様と皆を困らせないように」
 小さなルキナの目に映る自分を見ながら、ルキナはそう告げて微笑んだ。





 自室には、外套と、袋、そしてファルシオンが主を待っていた。クロムに請われた時、身に着けていたこれらは置いていた。いかにも旅立つと宣言している格好で前に出れば、母はひどく悲しむに違いない。
 今度こそ。
 ルキナはマントを羽織り、剣を佩き、袋を背負った。最後の父の気遣いに感謝しつつ、部屋を出ようとする。しかし、扉の向こうの気配で、それも叶わなくなってしまった。

「ルキナ、少しいいか?」
「す、少し待って下さい……!」
 ルキナは慌てて身支度を解き、燭台に火をつけると父を迎え入れた。すまんな、とクロムは照れくさそうに部屋に入る。年頃の娘の私的な空間に立ち入るのは、少し抵抗があるようだ。ルキナが王城に住むようになってからも、クロムはこの部屋に立ち入った事は一度もない。
 
「あの、お父様……わたしは……」
「おれは別に止めに来た訳ではない」
 ルキナはクロムの顔を振り仰いだ。
「行くんだろう?他の仲間と同じように」
「申し訳ありません」
 ギムレーの消滅後、未来から来たルキナの仲間たちは、ルキナ同様両親の元にしばらくは滞在していたが、―――中には、それすらしない者もいたが―――それぞれ新たな目的を求めて旅に出た。おそらくルキナが一番長く親元に居るだろう。だが、それももう終わりにすべきだ。

 ナーガからは、過去の世界の人や物と触れ合った時、どうなるかは分からないと言われていた。だから、目的を果たした後、いの一番に親から去らなければならないのは、既に自分が存在しているルキナであったのに。

「いや、謝らなくていい。お前が決めた事だ。まあ、少し急だとは思うが」
 お前が決めた事だ。
 低い声は、ルキナが幼い頃にも、同じ言葉を紡いでいた。ルキナは思わず口角を上げる。
「わたしが、剣を教えてくれと言った時も、お父様は二つ返事で教えてくれました。周りの者は、皆止めてたんですよ」
 しかし、父が斃れ、ルキナがファルシオンの後継者となり、屍兵とギムレー教徒相手に剣を振るう結果となってしまった。随分と皮肉な運命だと思う。
 
「やはり、お父様なのですね」
 この世界のクロムも、ルキナの記憶の中のクロムも、いやクロムだけではなく母もだが、ルキナの決心を否定した事はほとんどない。娘の意志を尊重してくれているのだろう。お陰で、父母を一度も厭う事なく生きて来た。けれど、一度だけ否定して欲しかった気持ちが、心の奥底にはあった。しかし、そうはいかない。両親の元に居る幸せと暖かさに自分でも驚くほど甘えてしまったようだ。

 ルキナのその言葉に、クロムは意味を介せず首を傾げているのに気が付いた。
「すいません、少し思い出してしまって。お父様。では、行きます。お元気で」
「ああ。何か必要な物はないか?できる限り用意しよう」
「いいえ何も……」
 と最初は首を振ったが、すぐに思い直し、ルキナはぱっと花開いたように父を見上げた。
「では、最後にお手合せ願いませんか?」
 ルキナはファルシオンの柄に手を遣る。
「い、今からか?」
「やはり、無理ですよね……」
「いや、無理じゃない。お前が今から旅立つから、疲れないかと」
「お父様との勝負、まだ着いてない事を思い出したんです。だから、心おきなく旅立つ為に」
 満面の笑顔でそう請うた。
 




 

 鈍い色の空に陽光が差し始め、強く冷たく凍った土から、春の花が芽を出す。イーリス建国より幾千回、変わる事なく繰り返された。
 イーリスの人々は今年も訪れた春の到来を心から喜んだ。ナーガの恵みと、我が国の姫君の生誕を。今年も、その祝宴は大々的に行わた。

「ルキナ」
 儀礼的な祝賀行事は無事に終了し、民は各々の家庭で食卓を囲み、あるいは城下町で賑わい始める。城詰め以外のの兵士も、家臣もみな春の花と酒を手に杯を上げていた。
 王族も近親者を呼んで食事会を開いている。その席で、主役である姫は一つの包を渡された。質素な包で、装飾はまったく見られず、およそ一国の王女宛てに贈られるとは想像が付きにくい。しかし、ルキナは、その軽い包を前に花が綻んだような笑みを見せた。

「開けてごらん」
 父に促され、ルキナは包を解いた。褐色の包装紙の中からは、白い花が一輪添えられて、一着のドレスが入っていた。
「あ……!」
 ルキナはそれを両手で持ち上げ、目を輝かせる。その脇で、両親と侍女は目を見合わせていた。
 毎年この時期に贈られてくるそれは、その歳その歳のルキナの心を掴んで離さない。しかし、意匠は贈られた本人以外、着るには果敢な勇気が必要だと、誰もが心を同じくしている反面、自分の趣味をよく熟知しているものだと感心してしまう。今回も、巨大な鎧の化物に立ち向かう剣士が一面に刺繍され、タペストリーをそのままドレスにしたような物だった。

「ああ、本当に素敵……これはきっと、テリウス伝の漆黒の騎士と蒼炎の勇者アイクだわ」
「そうなのか……」
 一体、こんな物どこで見繕って来るんだ。
 うっとりと眺めているルキナの横で、クロムは妻と囁き合った。去年は確か、何かの生き物の鱗と骨を組み合わせて出来たドレスだった。

「お父様、このお方、本当にお城にお呼びできないのですか?わたし、是非お会いしたいのです」
「まだ旅を続けているようでな、おれも今どこにいるかは分からないんだ」
 娘には、遠い親戚に当たる人物だと伝えてあった。そして、大陸中を旅しているとも。あれから、"ルキナ"はこうして自分に贈り物をするだけで、手紙のひとつ送らない。息災ではあると信じている。だが、ルキナではないが、顔を出して欲しいと思うのが親としての本音だった。

 旅をして、"ルキナ"は何を見ているのだろうか。平和になった、ギムレーの影のない世界を感じているのだろうか。七年前に出て行った娘に時折思いを馳せてしまう。あれから七年が経ったのだ。最後に剣を合わせても、結局は勝負はつかなかった。剣を志す者としても、娘に一本取られそうになったのは、悔しいのがもう一つの本音だ。

「お父様」
 そう呼びかけられ、クロムは息を飲んだ。
 絵巻物のようなドレスを眺めていた、恍惚とした表情とは一変して、父を見るルキナの瞳は強い意思を孕んでいた。そこに、クロムは思い描いていたもう一人の娘と重ねてしまたからだ。
「わたし、剣を習いたいのです。お父様のような立派な剣士になりたいと、ずっと前から思っていました」
 クロムは破顔して、手のひらを娘の頭に乗せた。もう一人のルキナも、きっとこんな風に父親に懇願したに違いない。娘が決めた事を、止められるなどできようか。
   
 
13/04/22   Back