赤と闇の儀式




※性描写があります。大丈夫な方だけどうぞ











 天幕の入口が開かれた途端、そこが得体の知れない世界の入口なのだと改めて痛覚した。太陽も落ちて久しい時刻ではあるのだが、闇夜よりも深く暗い空間がティアモを待ち受けていた。覚悟はしていたが、実際に目の当たりにして、身体は強張るばかりだ。
 ところどころに燭台が点され、うっすらとだが呪術師の世界を見せてくれてはいる。蝋燭の小さな明かりが、敷布の魔法陣らしき線を頼りなげに浮かび上がらせていた。香も炊いているのだろう。イーリスで出回っているそれとは違う、嗅いだ事のない匂いは、ティアモにとって正に異世界だった。

「ほ、本当に……」
 ティアモは乾いた喉に唾を無理矢理飲み込み、ヘンリーに視線を向けた。この"異世界"を用意した張本人は、いつもの笑顔をたたえて、心底楽しそうに何度も頷いた。

「やるからには本気でいかないと、って言ったのは君じゃあないか。だからぼくも気合を入れちゃってね」
 そういう真面目なところが好きだよ、と屈託のない笑みでさらりとヘンリーが言うと、目の前の天幕とは別としてつい、恥じらいを覚えてしまう。臆面もなく言ってしまうのが、毎度ながら恥ずかしい。

 ヘンリーの言う通り、例え必要のない場面であっても、律儀で真面目なきらいがティアモにはある。しかし未知の分野に踏み入れる事は恐ろしいのが本音だ。だが、天馬に初めて乗る時もそうではなかったか。振り落とされはしないか、上手く手綱を引けるか。天馬に乗ったばかりの時分は、恐怖心も手伝って傷や打撲を作ってばかりだったが、今ではどうか―――己の手足のごとく天馬を駆り、騎士の役目を勤めているではないか。
 真面目に取り組めば、出来ないものはない。それが信条ではなかったか。ティアモは深呼吸し、きっと前を睨む。それに、ヘンリーが自分の為にここまで準備してくれたのだから。そう思うと今更尻込みする訳にはいかなかった。

「大丈夫だよ。まあ、最初は少し苦しいかもしれないけどね〜」
 大きく波打つ鼓動を平静にさせようとするも、深く息を吸う度に怪しげな薬の臭いがティアモの体に侵入し、頭の奥から危険だとの声がする。
「あ、でも、相性によっては少しじゃないかもしれないかも」
 その警告を振り切り意を決して天幕の中に入った時には、ヘンリーの最後の言葉はほとんど耳に入っていなかった。




 事の起こりは、ルフレのからの提言にあった。
 銀の器に浮かぶ宝玉を軍師手ずから渡され、「呪術師になって欲しい」と言われた時は耳を疑った。ティアモが理由を問う前に、戦術の一環で、とルフレは付け加える。
 ティアモほどではないが、軍師ルフレも気は至って真面目だ。二人は軍師と騎士の前に友人でもあった。顔を合わせれば軽口を叩き合う事はあるが、この手の冗談を―――特に戦術に関しては―――軽々しく口にするような性格ではないのは、ティアモも良く分かっていた。

「別に、無理にという訳ではないのだけれど―――」
 とは言われるものの、ティアモはルフレの提案に思考を巡らせた。
 呪術師。それですぐに脳裏に浮かぶのは、対のような髪色を持つ二人の男女だ。二人とも、ペレジア軍の呪術師団の出自で闇魔法と呪術を自在に操る。彼らが操る呪術や闇魔法が、理魔法よりも精神を更に激しく消耗する術なのは知っていた。

 遠く離れた場所へ効果をもたらす闇魔法の使い手が欲しいのはティアモも理解できる。事実、ティアモよりも魔術に長けているルフレ自身も、忙しない軍務の間を縫って闇魔法を学んでいる事も知っている。闇魔法どころか、理魔法や回復魔法すらも齧りもしていない身で、果たして務まるかどうか―――しばし考えた上、友を助ける為だと、ティアモは頼みを承諾した。それに恋人が呪術の使い手ならば、助力を請う事も出来るであろうという考えも少なくはあった。しかし、それは軽い考えであったと、ティアモは後悔する事になる―――
 


「じゃあ、服を脱いでね」
「―――え?」
 緊迫ていた為に、満面の笑みで放たれた言葉に、思わず上ずった声が出る。いや、緊張していなくとも急にそう言われれば驚くのは無理もない。二人が恋仲になって実はまだ日が浅い。肌を重ねた日々は数える程しかない。
「そんな……」
「服を着たままじゃあ"儀式"が出来ないよ〜」
 儀式、と聞いて恥ずかしさよりも、嫌な予感が大きくなる。
「何をするか、聞いてからでもいいかしら?」
 精一杯考えた末の要求に、ヘンリーはあっさりと答えてくれた。ただ、それがティアモを安心させるものではなかったが。
「ぼくの魔力をあげるから」
「魔力を、あげる?」
「うん。今の君の魔力じゃあ、闇の魔法には耐えられないよ〜」
 天馬騎士として、槍を奮って来た身だった。上位の天馬騎士ともなれば、回復の杖や理魔法も同時に操るようにもなれるが、当然ながら本職の魔道士や聖職者には敵うものではない。それに、ティアモは己はまだ天馬騎士として道半ばだと、槍の鍛錬に集中させていた。杖や理魔法の鍛錬もしていれば、ある程度魔力も培われたであろうが、魔道に見向きもしなかった身が、突然高位の魔法を扱えるはずもない。ましてや、魔道に長けた者ですら手を焼く闇魔法になど。

「―――わかったわ」
 真面目ゆえに、ここで降りるという選択は彼女にはなかった。それに、恋人から魔力を分けてもらえる。恋人同士の甘いやり取りのようにも錯覚し、不安から少しだけ妙な期待に揺らいでいた。
 軽装でこの天幕へやって来ていたティアモは、まず革長靴をゆっくりと脱いだ。深く息を吐き、髪と同じ色の鎧下に手にかける。例え全てを見せ合った仲でも、灯りの元で見られていると分かると恥ずかしい気は起こる。しかしこれも魔力を分けてもらえる為、引いては軍の為でもある。薄い胸と緩やかな線を描く腰を露わにさせ、股引きと下履きも一気に下げると、隠す物は何もない。

「じゃあこっちに横になってね〜」
 恋人の一糸まとわぬ姿に別段反応を見せる風でもなく、ヘンリーは魔法陣の描かれた布を指差した。四隅の燭台の明かりで、軍から支給されている白い敷布だと分かる。ティアモは戸惑いを浮かばせながら支持に従う。裸で寝そべり、しかも目の前にはヘンリーがいる。先日に交わした睦ごとと風景が重なり、わずかに頬を赤く染まらせるも、これから起こる行為は情交ではなく未知の世界だ。胸中の不安は早くも的確になり、ティアモの顔は、すぐに狼狽の色へと変化した。
「そ、それは何?」
 思わず半身を起こすも、ヘンリーの片手であっさりと肩を魔法陣へと押し戻される。
「儀式に必要な薬だよ〜。大丈夫、心配いらないから。じゃあ始めるね〜」
 朗らかに、軽快な手つきでヘンリーは小さな壷の蓋を開けた。壷の口から、深い赤色のねっとりとした薬が覗いている。香だと思っていた匂いはこれのようで、血の塊のようにも見えるそれに、まだ知り得ぬ世界の入り口だがティアモはただ慄くばかりだ。ヘンリーは壷から指で薬を掬うと、ちょっとひやっとするよ、と言いながらティアモの首元になぞり始めた。言葉通りの冷たい指が皮膚の薄い個所に当たり、短い悲鳴が天幕に響く。

「ちょっとくすぐったいかもね〜」
 つい及び腰になるティアモの身体をしっかりと押さえつつ、何かの薬を塗り続ける。全身に塗っているのではなく、指はある一定の動きをしていた。ヘンリーの指が己の地肌に触れるたびに、体の底がかっと熱くなる。これは恋人同士の戯れではなく、真面目な闇魔法への道のりなのだ。体の奥底から疼き始める感覚を、ティアモは無理矢理にも抑えようと必死になっていた。ヘンリーも同じく闇魔法の施術を行っているだけなのだ。これも、軍の為に。

 しかし彼の人差し指が、彼女の凹凸の少ない胸の上で踊り出した時に、抑制の壁は呆気なく崩れ去った。
 ティアモの背はびくんと跳ね、指から逃れようともがく。だがヘンリーの腕力がしっかりとティアモの体を縫い止めている。華奢に見えて意外と腕力はあるのか、それともまじないの薬の効力かは今のティアモには考える余地もなかった。

「あっ、あのね、ヘン―――」
「"こっち"はもう少しだから〜我慢。我慢」
 ヘンリーの口調は朗らかなままだった。細腕からは想像もつかないような力でティアモの肩をがっしりと抑えつつ、もう片方の腕の指はティアモの素肌の上に満遍なくまじないをかけている。全身が粟立ち、塗布された薬も剥げ落ちてしまいそうな感覚になる。疼きは、強まる一方だった。体の奥底の熱を忘れようと、息を大きく吸い込むが叶う事はなく。意識を保つために指を噛もうにも、片腕はヘンリーの膝が、もう片方は彼の手が強固に抑えつけている。
 起伏の緩い胸は自覚しているが、双方の頂点はしっかりと主張していた。天幕内に漂う妖気と肌を滑る薬と指に打ち震えるも、そこは触れずにいた為に、最後の糸は切れてはいない。しかし、他の部分がじっとりと熱を帯び出し、欲しているのを知った。この「我慢」はいつまで続くのだろうか。乾きと焦りと息苦しさは、累々と籠るばかりだ。

「出来たよぅ」
 朦朧とする意識の中で届いたのは、子供が遊びで作った工作を完成させた時のような、無邪気な声であった。ヘンリーの指先が血に濡れたように赤い。それで描かれた自分はさぞかし血まみれだろうと鳥肌を立てるも、これで、自分は呪術師になったのかと、終わったのだと内心で胸を撫で下ろす。体の奥はまだ疼いているのだが。しかし、またもやヘンリーの腕が起き上がろうとするティアモの半身を押し戻した。
「駄目だよ〜これからこれから」
「え?」
「だから、今のは下準備。ぼくの魔力を君に分けるのは、これから」
 ティアモが目を丸くしているのを他所に、ヘンリーは羽織っていたマントをおもむろに脱ぐ。暗い色の上衣はそのままに、腰巻と本繻子の股引きを躊躇なく引き下げるのを見たティアモは息を飲んだ。己は裸にはなったが、まさかヘンリーまで肌を露わにしようとは。しかも、腰巻の下は先日の戯れの時と同じ容相を示していた。
「ちょっと辛いかもしれないけど我慢だよう。大丈夫、ティアモならできるよ〜脂は―――必要ないねえ」
 ヘンリーが言う"儀式"の全貌を知った驚きは、悲鳴となって近くの蝋燭の火を揺らす。ヘンリーの指先が、灯りで妙にぎらついていた。じゃあ行くよ、と力を無くしたティアモの膝を開き、ヘンリーはその間に腰を沈ませた。交わりにはまだ慣れぬ身だが、脂は不要と言った通り、すんなりと彼を受け入れた。しかし、次にティアモを襲ったのは、先日のような甘い痛みでも、先刻までのあれだけ焦がれた乾きを解消するようなものではなかった。全身が急に重くなり、肺が鷲掴みにされたように息苦しくなる。

「ゆっくりと息を吸うといいよ〜」
 助言の声は、変わらず明るい調子で、抽送も変わらず続けていた。ティアモが浅い呼吸を繰り返していると、大丈夫だからと囁く。頷いた拍子に跳ねる赤い髪をヘンリーの手が抑えようとした。ティアモは無我夢中でその手を掴んだ。
「いいよ、噛んで」
 否定のために首が揺れたが、すぐに口が開かれ、親指の付け根に歯が立てられる。そこは蝋燭の灯りよりも赤くなり、短い呻きと共にヘンリーの眉が寄ったが、ティアモは構っていられなかった。ただ体内を締め付ける何かに耐えるのに精一杯だった。これが、闇の魔力を持つ事なのかと愕然とするばかりだ。この人は、こんなにも苦しいものを抱えていたのか。

「痛くない?」
 痛いのは彼の方であろうに。ヘンリーはどこか不安げにティアモの顔を覗き込んでいた。ティアモはヘンリーと目が合った瞬間首筋に腕を回し、今度は彼の手ではなく唇に食らいつこうとした。だが、ヘンリーは難なくティアモの腕を押し避ける。

「駄目だよ。これは良くない」
 ぼくが、は小さく呟く。
「ティアモ、体に痛みはない?」
 もう一度尋ねると、魔法陣の上で赤い髪が揺れる。体にあるのは肺と臓腑を締め付ける苦しさだけで、不思議と痛みはなかった。
「そうか。痛くないんだね」
 普段のゆるやかな笑みよりもずっと嬉しそうだ。
 ヘンリーの腰はゆっくりと動き続けている。ティアモには快楽は訪れず、相変わらず体は嫌な感覚に支配されたままだったが、ヘンリーは構わずじっとりと同じ調子で腰を動かしている。彼の青白い額にも汗が浮き出、時折笑みが消えそうになる。何かに耐えている様子が、苦しむ意識の中でも見えた。

「大丈夫、もうすぐだよ」 
 彼の言葉通り、体中を締め付けていた重苦さが、次第に収まりつつあるような気がした。じんわりと体に馴染んで行く、そんな感覚でもある。あれだけ苦しかった胸も軽くなり、空気にすがりつくように、ティアモは深呼吸を繰り返した。呼吸がゆっくりと深くなった様子を見て、ヘンリーは満足そうに笑った。
「ああ良かった―――楽になったんだね」
「ええ……っん……」
 意識に少し余裕が生まれ、返事が出来るようまでには体は楽になっていた。
 だが、しばらくすると苦しさが軽減された分、繋がっている場所の熱がひどく気になり始める。体は熱いはずなのに、背筋がぞくりとし、苦しみとも他のものとも取れる呻きを漏らした。
「―――ああ、だめだよ」
 青ざめていた顔は急に紅潮し出し、忘れていた乾きと熱が混み上げて来る。ヘンリーは駄目だよ、と言いながら調子を崩さずに腰を動かしている。先刻まではただの抽送だっだのだが、開かれた体にはそれだけでも充分であった。繋がった部分を無意識に揺らしそうになるのを、ヘンリーの手が抑えた。
「もう、すぐっだから……」
 ヘンリーの口から途切れ途切れの声が出る。普段ののんびりした空気は彼の周りにはなく、魔法陣を描いた敷布を握りしめている。
 体が熱い。
 体の疼きと熱は、次第に大きくなり、快楽に身を任せる前に再び苦悶の表情を浮かび上がらせる。
 潰されそうだった肺や臓腑は、今度は燃えそうなほどに熱い。吐いた息も煮え立った湯気を思わせる。闇はティアモの体には馴染んだかと思われたのだが、まだティアモの体内で暴れ回っていた。繋がっているヘンリーは熱くないのか。薄れ行く意識の中でも恋人を心配する余裕はあるようだ。ヘンリーも苦しそうに顔を歪めて"儀式"を続けている。

「……あの、ね、あなたが苦しいなら……」
「ぼくは大丈夫だから
 そう言うも、普段の調子とは違い、かなり苦しそうに見えた。
「それに、途中で止めたら、君が闇に飲まれてしまうからね」 
 汗が浮かぶ顔が歪んだ。

 ごめんなさい、ヘンリー。
 
 ここまで彼を苦しめるものだと知っていたなら、ティアモは決して協力を請わなかった。痛みには慣れていると言っていたが、喜んで痛みや苦しみの中に飛び込む者はいないだろう。何度も後悔と謝罪を繰り返すも、意識は燃えるような熱さに溶けて行く。ヘンリーへの謝罪の言葉も、薄く開かれた口から発したが、意識と一緒に闇の炎の中に溶けてしまったかもしれない。


 何かが、頬を撫でていた。それが人の手だと気付く。
 ティアモはうっすらと目を開けると、すっかり馴染みの微笑む顔が視界に入った。
「ヘンリー……!」
 思わず半身を起こしかけると、頭がぐらりと揺れ、魔法陣の中に倒れ込む。
「ああ、無理はしないで。まだ完全に"溶けて"はいないから」
 "溶けて"とは、恐らく闇魔法の事なのだろう。
「あ、あなたは大丈夫、なの?」
「言ったよ〜ぼくは大丈夫だって」
 だるさは残るが、あの苦痛からは解放されている。嬉しそうなヘンリーの様子からすると、"儀式"は上手く行ったようだ。
「おめでとう。これで君も呪術師の仲間入りだよ〜」
 何より、ヘンリー自身の言葉が証明している。弱々くあるが、ティアモはもつられて笑った。呪術師になる資格を得たのだと、請われて引き受けた身だが、なぜか誇らしく思えた。何より、あの苦しい儀式を耐えたという達成感に満ちていた。

「ヘンリー、協力してくれてありがとう。あなたも、苦しかったでしょう?」
「いいんだよ〜呪術師仲間が増えるのは嬉しいからねぇ―――それに」
 呼吸と体力もすっかり元に戻っているのを知ると、ティアモは半身を起こそうとした。だが、先刻のように両肩を抑えられ再び魔法陣の上に戻される。
「―――?まだ、何かあるの?」
 普段と同じ笑みをさらににんまりとさせ、ヘンリーは強張るティアモの顔を覗き込んだかと思うと、そのまま顔を被せた。急に唇を塞がれ、舌を取られ、驚いてヘンリーの体を押すもびくりともしない。先刻はあの奇妙な薬のせいかと思われたが、意外と腕力はあるようだ。

「君が欲しがっていたじゃあないか」
 儀式の最中に彼の唇を求めた事を思い出す。あれは無我夢中で、と言おうとしたが、下腹部の熱と疼きに気付き、息を詰まらせる。まだ"繋がって"いたのだ。
「あのね、そっちは―――」
「ぼくが苦しかったのは、闇魔法のせいじゃあないよ。儀式の最中に"魔力以外"をあげないようにするって結構大変だったんだよね〜」
 繋がっていた場所を急に動かすと、ティアモは高い声を上げた。
 儀式ではゆっくりとした抽送だったが、今のは違う。擦れる度に感じるぬめった感覚に、中断という選択はない事をティアモは知った。そして、先刻の熱は焼き尽くされそうな炎となったが、今度は正真正銘ティアモの求めていた熱である事も。薬が乾いたなだらかな丘を這い回る手がその熱の勢いを増していた。
「もう我慢なんて必要ないのに……それとも、もう一回噛んでおくかい?」
 眼前に出された手には、くっきりと歯型が赤く刻まれていた。ごめんなさい、とぽつりと零し、ティアモは赤い傷に舌を這わした。


「え?」
 翌日、鈍く痛む腰を悟られぬよう、ルフレからプルフを受け取り、ティアモは無事に呪術師となった。
 が、変貌を遂げた後、リヒトが尋ねたのだ。痛くはなかったのかと。
「まさか、リヒトもヘンリーから……?」
 ティアモはおそるおそる伺うようにして聞き返した。
「うん、ぼくはすっごく痛かったから、ヘンリーさんから止められたんだよ」
 考えたくもないが、彼の儀式の慣れた手際からすると、他の者に魔力を分けた経験はあったらしい。それが、身近な人物だったとは。同性とは言え、儀式とは言え、複雑な思いは膨らんで行く。結局リヒトは儀式は成功しなかったらしいが、そこまで到達するには、交わる必要がある。
「ね、ねえ。リヒトもあの"儀式"をやったの?」
 ヘンリーは同性相手でもあの儀式を厭わないのは容易に想像できる。だが、リヒトはどうか。自警団への貢献や魔道への勉学に励む気持ちは高いとは言え、この少年が、恋人でもない相手とあの儀式を交わすほど精神が逞しいとは思えなかった。胸騒ぎが抑えられず、思わず訊いてしまった。
「儀式?」
 リヒトは目を丸くした。
「だから、ヘンリーから魔力を分けてもらった時にした、魔法陣の上に……」
「そんな事していないよ」
「え?」
 今度はティアモが目を丸くする番だった。腰の痛みを抱え、青くなるティアモには気付かずにリヒトは答えを続ける。異界での収穫祭の騒ぎでの話を。
「いきなり呪術師にならないかって言われて、その場で闇魔法を力を分けてくれたんだ」
「そんなに簡単に?」
「うん。儀式なんてなかったよ。ヘンリーさんが分けてあげるって言った途端に体が重くなって息苦しくて、すぐ慣れるって言われたんだけど体が痛くなって……あれ、ティアモさん?」
 リヒトの言葉を最後まで聞かずに、ティアモは踵を返して走り去った。
 天幕に戻りきつく詰め寄るも、いつもの緩やかな調子を崩さず、「リヒトは魔道の下地があったからだよ」と平然と言ってのけたのだった。ティアモの細い体に纏う黒繻子を満足そうに撫でながら。

 余談だが、二人の娘セレナも呪術師へと転職を遂げた時がある。
 その時、父ヘンリーは「お祝い」と称してリヒトと同じ方法で闇魔法の力をいとも簡単に分け与えたのだが(セレナもやはりヘンリーの娘で、呪術師の血ゆえに難なく受け入れる事が出来た)、ティアモに対しては「魔力が不安定になっている」という名目であの"儀式"を度々行ったという。  

14/09/15   Back