竜の家


 ヴァルム港に船が着くと、一息つく間もなく、馬車の停留所へ向かいました。船旅の疲れもほとんどなく、持っている荷物も手提げ鞄一つで、身軽なものです。
 乗り合い馬車は、最初は混み合っていました。けれども、次第に乗客は一人減り、二人減り。最後は旅人らしき外套を頭から被った人と二人だけになりました。

 馬車はここで最後に乗った時よりも、かなり改良されており、揺れも腰への負担もほとんどありません。少し前ならば、長い距離での移動は疲労が激しく、街へ寄ってどこか宿を取っての事が普通でした。今では、道の整備が地方まで行き届き、その必要もあまりなくなりました。
 流れる景色もすっかり変わっていて、見慣れない建物も増えてきました。久しぶりのヴァルム地方でした。最後に立ち寄ったのは、いつだったか覚えていません。

 そもそも、あの日から、わたしは年月を数えるのを止めていました。

 

 母は変わっていると、最初に出会った時に確信してしまいました。―――そもそも、奇特でなければわたしは生まれては来なかったのだけれど。
 
 母は両親の顔を知らず、生まれた直後から人間に攫われ、見世物にされていたそうです。同族を知らず、ずっと珍しい動物に囲まれて生きて来たと。時折、竜に化身させられたりもしたそうです。
 なぜ、その時に暴れるなり飛んで行くなりして逃げださなかったのか―――
 いつだったか、母にそう尋ねた事がありました。母は、わたしの顔をじっと見るやいなや、「あ、その手があった!」と心底驚いた顔をしました。

「ンン、頭いい!」
 それを聞いた時、わたしは全身に力が抜けて行くのを感じてしまいました。

 母とわたしが出会った時(妙な表現ですが仕方ありません)、母はの歳は千あまり。その数年後に本来の"わたし"が産まれる予定でした。わたしは父と母の記憶がおぼろ気で―――そのせいか、親と言う存在に過大な幻影を抱いていたのでしょう―――見た目は幼い娘でも、きっと思慮深く、聡明な人に違いない、と胸に母の幻想を抱いて時空を渡りました。だから、過去の世界で出会った母を見て、信じられない気持ちで一杯でした。目の前にいるマムクートの少女は、本当にわたしの母親なのかと。そうと思わずにいられない程に、母ノノは、あまりにも幼すぎました。
 
 実は竜族という種族は、千年生きても一個体として心身ともに成熟する訳ではないようで。わたしは当時、わたし以外の同族を知らなかったと言い訳しておきます。後に知り合ったチキさんが、母の幼稚さを嘆くわたしを諭すように教えてくれました。母は母で、しっかりと自分の考えがあるとも。

 母のたくさんの不可解な言動のひとつだったのが(一番はもちろん、わたしのこの珍奇な名前です)、父と結婚した事でした。父は人間です。そして母は竜族。竜族はある時期から石に竜の力を封じ、人の形で生きる道を選びました。けれど、寿命はどうする事もできません。これでも寿命が短くなったと、チキさんは言います。それでも、人よりはずっとずっと長く生きるのです。

 それなのに、母は父に添う事を選びました。やがて置いて行かれるのを分かっていても。
 人を好きになる。人と恋をする。それは決して悪い事ではないのは知っています。でも、家族になるとは別問題だとわたしは思っているのです。わたしも今まで恋は何度かしてきたけれども、誰かと添い遂げようと思った事は一度もない。遂げられないのです。同族はタグエル同様、見つける事すら困難で。だから、永い時を、独りで歩くと決めたのです。半分人間の血が入っているから、母やチキさんより寿命は短いかもしれないけど。

 

 旅人風の客が、ついに馬車を降りました。わたしは最後の客です。
 マムクートが珍しかったのでしょう。外套のフードの影から、わたしをちらちらと窺っていました。どこから来たのか、どこへ行くのか。そんな他愛のない会話をしても良かったのですが、久しぶりに向けられた猜疑と恐怖の視線、何より、彼(彼女かもしれない)から発せられるわたしへの負の匂いが、それを躊躇させました。
 マムクートはほとんど見かけなくなったけれど、だからと言って奇異の目で見られる事は、どの地方でもほとんどなくなりました。生きやすくなったと言えばそうですが、他人に対しての関心が薄まっている、最近そう感じるようになりました。
 馬車の荷台にひとり残り、わたしは座ってまた、景色が流れるのをぼうっと見ているだけです。


 あの日から、母は飛竜の谷で暮らすようになりました。その当時は、生まれた"わたし"もまだ幼く、時折訪ねるわたしをお姉ちゃんと慕ってくれていました。
 同族はもちろんいないけれど、飛竜たちがいます。彼らはマムクートの母子を快く迎え入れてくれました。

 悲願だったギムレーの消滅を果たし、わたしは独り旅に出ました。未来へ帰る方がない状況では、この時代に留まるしかありません。目的を果たしたからには、この時代の人や物への干渉は、今まで以上に控えなければと考えたからです。
 
 でも、旅に出て後悔した事がひとつ。"わたし"が産まれた知らせを旅先で知り、文字通り飛んで両親の許に帰って来た時には、既に玉のように可愛い赤ちゃんに奇妙な名前が付けられていた事でした。不必要な干渉はいけないと分かっていても、わたしにとっては、滅びの世界を止めるのと同じく変えたい運命でした(余談ですが、ルキナも彼女の両親に対し、栄養―――特に乳製品を―――をよく与えてくれと懇願して旅立ったそうです)。あの時ばかりは、止めなかった父を恨みました。

 父は母の無邪気な部分に惹かれたのでしょう。子供のように(見た目も十二分に子供なのですが)いつまでも純粋な母を前に、時々呆れた顔を見せてはいましたが、はっきりと文句や小言を言った場面を見た事がありません。わたしも、彼女は千年以上も生きている癖に、なぜ人の子より精神が幼いのか。よく悩みました。父にこれでいいのか、としばし尋ねても明確な答えは返って来た試しはありません。
 
 両親の仲が良い所見ると、嬉しくもあり、羨ましくもありました。人と添い遂げる事はできないと、頭で分かってはいても、心のどこかで、いつか自分にも、寿命の違いを受け入れて一緒にいてくれる人が現れるかもしれない。そんな気持ちにさせてくれました。

 一見微笑ましい夫婦ですが、外見の歳が月日が流れるごとに離れて行くのが現実でした。本人たちは幸せなのだと分かっていても、胸を締め付けさせます。
 人間の行く道は、マムクートにとっては本当にあっと言う間でした。楽しかった時間は光のように過ぎ去り、マムクートを年取らすまでには至りません。出会った頃と変わらぬ姿で、母は父を見送りました。母はわき目も振らず泣きじゃくると思っていました。葬儀中は、少し顔を翳らせていましたが、涙を一粒も見せる様子もなく、母の膝にすがりついて泣く"わたし"の頭をずっと撫でていました。
 父の故郷のしきたりでの葬儀も、父を慕う人たちの手助けで滞りなく行われ、それが済むと、わたしと二人で飛竜の谷へ父を眠らせました。


 


 わたしは谷に着くと、懐から竜石を取り出して、竜に姿を変えました。ばさばさと羽根を羽ばたかせると、それに呼応して飛竜たちの鳴き声が谷に響きました。迎えてくれたのでしょう。
 飛竜の谷は、鬱蒼とした草木に覆われた飛竜の住処です。谷はとても深く、太陽の光は谷の底まで届かず、覗いてもただ暗いばかりです。地元の人間の飛竜信仰はまだ続いていますが、ここへ足を運ぶのは、季節の変わり目に供物を捧げにやって来る程度。谷間に住むのは、小型の獣か翼を持つ者だけです。

 人目に付く事を恐れ、飛竜の谷への移住を決めたかと思っていました。けれど、そうではなかったようです。母はよく娘を連れて人里に下りていました。初めは大そう恐がられたそうですが、大風で倒れた丸太を運んだり、家畜を食らう狼を追い払ったりする内に、次第に打ち解けて行ったらしいです。今では、近隣の人たちの荷運びをして、その報酬に農作物をもらっていると聞きました。

 深い谷間を進んで行くと、小さな滝が見えます。そこから流れる沢のほとりに母の家はあります。家、と言ってもかつて父と母が住んでいたような建物ではなく、洞穴に前の住居の家財道具を運んだだけの場所でした。水に困らず、風雨も凌ぐのに充分です。また、ヴァルム大陸南部の温暖な気候もあって、寒さからも守ってくれます。何せ、母は寒さにとても弱いのです。もしかすると、この気候ゆえに飛竜の谷を選んだのかもしれません。

 
 化身を解きながら降り立つと、母はわたしを迎えてくれました。飛竜とは違う気配にいち早く気付いていたようです。

「お帰り、ンン」
 初めて出会った時よりも、幾分か落ち着いた声色が耳に入ります。かく言うわたしも―――自分で言うのも何ですが―――随分と大人びて見えるようになりました。少なくとも、ひとり街を歩いても、人間に子供扱いされる事はなくなりました。あれから何年経ったかなんて覚えてはいません。何せ、数えるのを止めたのですから。父の墓碑にも、敢えて年号を刻みませんでした。

 母が淹れてくれたお茶を前に、旅の土産話をたくさんしました。母は、ひとつひとつ、本当に楽しそうに頷いてくれます。わたしも多くの、それこそ外海の国まで出るようになった為か、話は尽きる事はありません。今の航海技術の発展はここ数十年で目覚ましく、遠く離れた大陸へ渡っても、たった数年で帰って来られるのです。

 母はイーリス大陸より遥か東の国へ行っていたわたしに対し、「三百八年ぶりね」と笑いました。どうも、異国の風土を学んだり、同族探しに没頭している内に、時が過ぎ去るのを忘れてしまったのでしょう。でも、そんな事はマムクートにはよくあるものです。 

 マムクートの伝承はイーリスやヴァルムだけではなく、あちらこちらに残っています。竜族が治める国家があった大陸の伝承も最近書物で見つけました。いつかその国へ辿り着きたい。わたしはそう思い描くようになりました。ですが、今までとは違い、異国へ行く足取りと気持ちは軽くありません。竜族の国が、雲の切れ端のような伝承しか残っていないのが理由だけではありませんでした。
 
「ところで、"あの子"は帰って来てますか?」
 母は首を横に振ります。でも、全く心配しているようには見えません。"あの子"―――つまり、この母から生まれた"わたし"も、ある時、母の許を旅立ちました。同族を探す旅に出たそうです。戻って来る時は、家族を連れて来る。そう言い遺して。

 もしかしたら、どこかですれ違っているかもしれない。わたしより早く、伝説の竜の国ゴルドアへ渡ったかもしれない。もう一人の自分に、幾分か期待を込めてしまいます。しかし、その反面、母を独りにしてしまった罪悪感が、わたしの中に産まれていました。
 
「お母さん」
「うん?」
 少し大人びたと言いましたが、お土産の焼き菓子を頬張る様子は、子供っぽさが抜けていませんでした。甘い物に目がなく、青味の強い野菜が苦手なのも相変わらずなようです。
「わたし、ここに住みましょうか?」
「何で?」
 頬を膨らませたまま、母はさも不思議そうに言いました。
「何でって、あの子が旅に出てしまったから―――」
 "わたし"の旅の目的が果たせる事を願って止みませんが、それが叶うのは遠い未来だと思っています。わたし達は竜族でも、半分は人の血が流れています。母よりも命が費えるのが早いかもしれません。ここより北に位置するミラの大樹には、チキさんが住んでいますが、わたしの知る限りでも、彼女の姿を見た者はおりません。それだけではなく、今ではお伽話の住人と認識されています。

「寂しくなんてないよ。だってあの子達がいるもの」
 母の目の先には、高い空を飛ぶ飛竜がいました。飛竜は言葉を発せられずとも、一度心交わした者との間では、意思が通じ合う。そういう間柄だった竜と人をわたしも何人か知っています。中には、人間どころか同族にすら攻撃的な荒くれ者もいますが。

「それに、まだ千四百五十年」
「え?」
 お父さんが亡くなってから、と、母は言います。まだそれ位しか経っていないと付け加えて。もうそんなに。母とは違い、わたしは長い年を経たのだと感じました。
 大切な人が逝き、自分には果てしない道が残されていると悟ったあの日から、わたしの心は薄い膜が張ったようになりました。外海へ簡単に出られるような時代になってからは、見聞を広めたくて旅を続けていたけれど、本当はもっと感動したり、笑ったりしたかったからかもしれない。

 母が羨ましかった。もしかしたら、わたしよりもずっと永い道を歩かなければならない。なのに、母はわたしよりも良く笑って泣いている。親しい人も沢山いる。父をずっと想い続けていられる。

自分の事は心配するなと、母は屈託なく笑いました。わたしも思わずつられて笑います。この笑顔。母が楽しそうに遊んでいる姿を、遠くで嬉しそうに眺めている父の顔をふと思い出しました。ずっと昔に母と別れなければならなかったけれど、母の心にはしっかりと父は生きているのだ。そう確信すると、わたしの心に張った膜が、少しだけ薄らいだ気がしました。わたしはまだ、旅を続けていられそうです。
 安堵したわたしの心が伝わったのか、母はまた、わたしに笑いかけてくれました。 
 
12/10/14   Back