桜追人




 サイリが死んだ、との報がもたらされたのは、正にサイリのいる解放軍へ進軍している途だった。
 先行部隊は優勢ではあったのだが、圧倒的な力で、反抗勢力を徹底的に押し潰す事を是とする皇帝の意思により、レンハは先行部隊同様の大軍を率いて援軍に向かっていた。
 
 解放軍の首領の討死の報に、レンハを取り巻く軍の周囲一帯がざわめく。動揺は瞬く間に、水紋のように広まった。仕方がない。レンハが率いる隊の大半は、元よりソンシン軍であったのだから。中には人目を憚らずに涙する者すらいた。

 レンハは心揺らぐ兵らを何とか平静にさせ、予定通り隊を戦地へと進めた。戦場は、いや、戦場だった場所は、おびただしいの数の死体と、血の跡や焼け焦げた土、方々に散らばる武具や折れた旗で、かつての大地の様相を失っていた。解放軍は、窮地の状況も相まって、この戦いを捨て身の戦いとしていた―――と、敵情を探らせていた兵から聞いた。

「サイリは―――」
 気が付いた時には、口から妹の名が出ていた。
 兵は独り言に近い言葉をしっかりと聞いていたようで、只今"お連れしている"所です、と答えた。

「レンハ将軍……これで、良かったのでしょうか……」
 ぽつりと漏らした兵がいた。顔つきから、この兵はソンシンの民ではない。だが純粋なヴァルム帝国の人間ではないのが、サイリの死をもたらした時の態度からも見て取れる。兵は悲痛な顔で、馬上のレンハを仰ぎ、何かを堪えているような顔をしていた。

 
 人の気配と複数の足音が、兵士が口を開くのを遮った。その兵よりも、更に暗い顔をした兵たちがこちらへ向かっていた。
 その一行の中の一人は、今にも泣き出しそうな顔をして、覆い被さらんばかりに膝を折った。他の兵らも抱えていた担架を丁寧に下ろすと、先の兵に倣った。レンハは下馬し、担架へ近付くと、すすり泣く声に囲まれた。

 担架の中のサイリは、血と泥で死化粧がされていた。どの傷が致命傷だったかも分からないほど、体中に深い傷が刻まれ、数本の矢は突き刺さされたままだ。
 サイリに突き刺さった矢に手をかけたが、死肉は鏃を食い込ませ、びくりともしない。鉢巻で右手と無残にも折れた剣を縛り付けているのが目に入った。

「将軍―――いえ、レンハ陛下……」
 陛下、と呼ばれたのは久方ぶりで、レンハは内心驚いていた。それ程までに、己がヴァルムのいち将軍に身が慣れてしまっていた事にも。
 彼を陛下、と呼んだ兵は、喉に溜めていた物を吐き出さんばかりに話し始めた。

「レンハ陛下。私は、生まれは隣領トレイグですが、母方の親戚にソンシンの者がおります。毎年の春の祝宴は、親戚を頼って見に行っておりました。舞台の上のあなた様と王女様は、それはもうお美しく、人はここまで美しく剣を振れるものかと……そのお姿、今でも心に焼きついております」
 
 春の祝宴とは、サクラが咲く季節に行われる、春の到来の喜びと、厄を払う意味を込めて剣の稽古を行うソンシン王国の行事だ。この時期だけ解放される、サクラの大木が並ぶ王家の領地に国中の民が集まる。民たちが見守る中、王家の者は、サクラ並木の中に誂えた舞台上で、司祭から祝福を受けた剣で手合わせをする。物心ついた時から、レンハはその役で舞台上に上がっていた。サイリが初振りに上がったのは、八歳の頃だっただろうか―――もう成されずになって久しい国の行事の名を出され、懐かしい記憶が急に脳裏に広がって行く。別段、押し込めていた訳でもないのに。

 兄のように舞台に上がりたいと、剣の指南を申し出たのは、八歳よりも幼い時分だった。それなのに、稽古用の木刀を持たせた途端、重いと泣き出したので大層困ったのはよく覚えている。
 決めたからにはやり通せ、と父の言葉で、サイリは涙を浮かべながらも剣を振り始めた。その剣は、結局は兄と敵対する為になってしまった。

 気が付くと、レンハを囲んでいた嗚咽の声は、大きさを増していた。この隊には、ソンシンやその周辺諸国の出自の者が多い。そうでなくとも、暴風の如くのヴァルム帝国になぎ倒されるように故郷や家族を失った者も少なくない。

「陛下、陛下。今の頃は、もうサクラも咲こうとしていましょうな」
 兵士のその一言で、他の兵らも故郷の桜を思い出したようだ。涙を拭くと、跪いたままレンハに向き直った。
 
「……反乱軍は、すでに我が軍が、殲滅を果たしました。ヴァルハルト陛下のお下知は、もう、済んでいるのです……ですから……っ」
 兵のひとりがそう告げるも、たまらなくなって再び嗚咽を漏らした。他の兵らも、どうか、どうかとレンハに深く頭を下げる。

 兵士たちの意向は痛いほど分かる。レンハも出来るならばそうしたいところだ。妹が亡き者となったとあらば、ヴァルハルトの下に付く理由も無い。
 それでも、レンハは容易く軍を離れられなかった。長らく帝国に身を置いていた故、ヴァルハルトへの忠誠心が芽生えた訳では決してない。だが、皇帝がヴァルムを統一したいと願った理由を、レンハは長らくの在軍で知り得てしまった。
 イーリス大陸にある一国が国を挙げて崇拝している神。その神は邪竜と恐れられ、古の時代より破壊の限りを尽くす暴悪な存在だった。邪竜の影はイーリス聖王国により、何とか食い止められていたが、イーリス聖王の死によりギムレーの翼は一挙に大陸を越えた。気味の悪い軍隊と共に。
 
 ―――いつしか、ここも国という概念どころではなくなろう。
 ヴァルハルトの傍に居た時分に、彼が誰にでもなくそう呟いたのを覚えている。己の力を絶対視し、迷いなどとは程遠い人物だったが、この時ばかりは一瞬だけ、憂いの片鱗を見た気がした。
 
 


 皇帝の憂慮は、レンハも、本人すらも、思ったよりも早く訪れた。気味の悪い、"死体がそのまま動き出したような"兵士は、日に日に数を増し、瞬く間にヴァルム帝国軍の数を超えた。
 あれは人ではない。ヴァルム軍の兵士らがそれに気付いた時には、ヴァルム大陸の国土は、イーリスと同様の状態になりつつあった。感情もなく、体力に限界もない。そんな嘘のような兵士に、生身の人間が今までどおりただ数のままに押し進めるだけで勝てるはずもない。そして、誰もが恐れていた事態が訪れた。ヴァルムハルトが、化物の兵との戦いに斃れた。

 それからは、ヴァルム軍を纏め上げるのは困難となった。元来単純な力のみで制圧し、人心を縛り上げて膨れ上がった軍隊だった。その手綱を一手に握っていた者がいなくなれば、帝国への忠誠、それどころか不満を抱えていた者は自然と離反を選ぶ。
 それに、ヴァルムハルトの側近エクセライは姿を消し、彼とは逆に人望も厚かった将軍セルバンテスも程なくして戦死。士気は一気に恐怖と不安へと代わり、かろうじて残っていた兵士も次々に脱走し始めた。

 レンハはそれでもまだ彼を慕う、主にソンシン出身の兵らで軍を組織し、屍兵に抗戦した。
 だが、いくら組織立った軍隊であろうが、全盛期の十分の一以下の数では抗うにも限界があった。そこからも逃げ出す者も少なからずいた。"向こう側"の兵となってしまった仲間もいた。

 
 ある時、屍兵どもが大軍で人里を襲っているとの報を受け、レンハは仲間を連れて馬を走らせた。おびただしい数の化物に、村の民は勿論、家畜や畑、家屋までも理性のない力は向けられていた。今まで相対して来た事のない数ではあった。
 幾度となく異形の兵と戦ってきたが、流石のレンハも、部下たちも数に押されつつあった。それでも必死に剣を振る。
 一体の兵を屠ると、ふと異様な静けさに気が付いた。レンハは一人で立っていた。彼の足元には、数多の人と屍兵が血溜まりの中に転がっていた。

 頭はまだ醒めないまま、レンハは村の外れに繋がれていた馬に飛び乗った。途中、やはり屍がレンハ目掛けて武器を振るも、すれ違いざまに薙ぎ倒す。南へ。南へ。その間にも屍の兵士が何度も襲ってくるも、それを切り崩して前へ進んだ。
 疲労や空腹も忘れ、眠る事もせず、ただひたすらに南方へ馬を走らせた。陽が何度昇ったかも数えてはいない。ようやく目的地へ着いた時には、馬は倒れて動かなくなった。

 周辺に住む民が普段より手入れされてたのだが、今は大小の石が無造作に転がり、草木は方々に生い茂っていた。それらをかき分けた先に、石造りの建造物が見える。入口は力任せに壊され、地下への階段をむき出しにさせていた。
 長年静寂の世界だった霊廟から、ただならぬ空気が漂っているのを感じた。レンハの肌はざわざわと泡立つ。地下へ降りた先は、闇の中でも分かる程、禍々しく"何かが"蠢いていた。幾度も戦った、あの化物の兵と同じ感覚だ。レンハは頭と腹の底が冷えるのを覚えた。怒りや憎しみなどの感情は、帝国に下ってからは忘れていたが、今呼び起こされたようだ。祖先や家族が眠る場所を穢されるのは我慢ならなかった。

 腰の剣を鞘から抜くと、最後に屍兵を斬ったままの、どす黒い血がこびり付いたままだった。気にせず、屍どもに一気に踏み込んだ。墓標や霊廟の壁まで破壊していた兵らだったが、生者の気配を察知すると、一斉にレンハへと意識が向けられる。

 屈強な体躯も、レンハの剣には容易く切り裂かれた。屍たちの不気味な呻き声が次々と闇に吸い込まれる。天井の隙間からの僅かな光に敵の得物が跳ね返り、それを頼りに剣を繰り出す。刃が折れると、すかさず倒れた兵の武器を取って戦った。
 そうしてレンハは休む間もなく次々に斬って行く。それでも、邪竜の下僕たちは一向に数を減らす様子はなかった。不審に思うより先に、レンハの腕が剣を振っていた。斬って斬って斬って―――

「―――兄上―――!」
 舞うように閃いていたレンハの剣は、切り結んだ勢いで振り返った途端、糸が切れたかのようにぴたりと止まった。レンハの目が見開かれる。
 気配は、あの化物たちとは違っていた。それだけではない。松明に照らされた姿も、声も、妹そのものだった。
 あまりにも多くの人間や化物を斬り、大切な家族も見捨てて。その咎で己のが身は、いつの間にか地獄へと堕ちてしまったのかもしれない。妹の姿を目に映して、彼はその思考で無理矢理心を染め上げた。

「やはり、兄上なのですね!ああ、やはり生きておられた……!」
 しかし、今一歩踏み出せずにいた。腕を振れば一閃できる距離にいると言うのに。
 "サイリ"は赤くさせた目を潤ませていた。彼女も剣を構えてはいるものの、腕から切っ先にかけて小刻みに震えている。よく知った気配からも、戦意や殺意と言った類のものはすっかり消え失せているようだった。踏み出せずにいるのだが、だからと言って構えは解けずにいる。

「兄上、兄上、わたしが分からぬのですか?」
 これは、化物だ。己を騙す為に化物が、妹の姿を借りているに違いない。

 レンハの剣は、地上から差し込む僅かな陽に当たり、白く光っていた。細い刀身に、強張った面のサイリと、仲間であろう人間たちが映し出される。薄気味の悪い異形の兵ではなく、生身の人の姿を見たのは久方ぶりだった。さらに、妹の姿まで。それゆえに、罠かもしれないと思っていても、踏み込むのを躊躇わせていた。

「兄上」
 サイリは、また一歩レンハに近付いた。レンハもそれに合わせ、構えたまま後ろに下がる。
「妹は、サイリは死んだ」
 自分に言い聞かせるように、レンハは静かに口を開いた。妹は死んだ。それは彼の脳裏で決して違う事はない。担架に運ばれた妹の遺骸。血と泥にまみれた姿は今でも脳裏に焼き付いている。
 
 早く斬りかかれ。
 レンハは深く構えた。"妹"がこちらに向かってくれば迷わない。向かってくるならば敵なのだから。あの化物たちと同じく一閃できるだろう。

 だが、目の前のサイリは、レンハの思惑通りに動かない。それどころか、構える剣を鞘に収めた。
「兄上」
 再び、懐かしい声が霊廟に響く。思わず彼も構えを解きそうになる。気を保つよう、深く構え直した白刃に、ちらと妹と、彼女の後ろにある"妹"の墓が浮かび上がった。あの墓は―――それを振り切るように、レンハから踏み込んだ。
 
「―――!」
 レンハの剣を身体で受け止めたのは、サイリではなく、屍の兵だった。サイリの背中めがけて剣を振り上げていた異形の兵は、黒煙とうめき声を上げながら二人の間に倒れ込んだ。
「兄上……」
 屍が動かなくなるのを見届けると、レンハは剣を鞘に収めた。
 なぜ妹が生きているのか、なぜ妹が自分を指して"生きていたのか"と言うのか。彼の頭は醒めていたが、理解できていなかった。だが目の前にいる"サイリ"は、今斬ったような化物などではない。間違いなく己の妹なのだ。それ心にすんなりと落ち着いていた。

 レンハは呆然とするサイリを素通りし、一基の墓へと近付く。それも屍兵の手に掛かっていたが、形は保たれていた。
 彼が最初に霊廟へ降りた時、ここには妹の名が刻まれていた。だのに、この墓標に刻まれているのは己の名だった。
「兄上の墓です」
「らしいな」
 質の悪い冗談のようだが、元より彼自身もここに眠るつもりでいたのだから、腹も立ちはしない。しないのだが、仔細が掴めていない事があまりにも多く、頭が混乱していないと言えば嘘になる。けれど、今目の前にサイリがいる事は事実だ。ならば、彼女を前に、剣を鞘に収めるしかあるまい。 


 しかし、再会に喜びはなかった。
 サイリのいる軍にレンハは歓迎され、レンハはこの軍の軍師からこの世界について、様々な話を教えられた。掻い摘んで言えば、レンハとサイリは別の世界の住人という訳だ。つまり、兄妹であって兄妹ではない。
 しかし、"レンハが死んでいる"世界へやって来た道筋は、誰にも分からずにいた。しかし、レンハにとってそれは重要ではない。元より霊廟で静かに朽ちて行くつもりだった。この身がまだ役に立てるのなら、レンハの世界で果たせなかった事を叶える機があるのなら、己の剣はいくらでも振るつもりだ。


 そうは思っていても、レンハはこの軍のサイリとほとんど顔を合わす事はなかった。サイリから剣の手合わせを申し出に、幾度か応えただけだった。
 この世界のサイリも、剣の師は兄だったようだ。それだけではなく、家族との記憶も違わず共通している。だから余計に、妹ではないと突き放さなければならなかった。寂しそうな目を向けられても。
 それは、サイリ自身も分かっているようだった。迫らんとする邪竜の完全な復活を阻止する為に、互いの剣を高め合う以上を求めはしなかった。

「兄上」
 幾度かの剣の稽古の後だった。
 早朝の、まだ冷たさの残る空の下。普段ならば、剣を合わせ終わればすぐさま背を向け合うのだが、サイリは思い切ったように口を開いて、レンハを呼び止めた。

「兄上は、この後はどうされるのですか?」
「後?」
「―――この戦いが終わったら、と言う意味です」
「今は斯様な事を考えている時ではないだろう」
 この戦いが終われば。
 聖王は当然だが、この軍にいる者たちのほとんども、この戦いが終われば故郷へ帰るのだろう。サイリもきっと、いや、常に故郷を気にしているサイリの事だから然りだろう。

「レンハは死んだ。そうだろう」
 レンハの声は、冷たい朝の空気によく響いた。レンハは、サイリが何を言わんとしているのかは察していた。自分が死んだ世界へ来たのは、神の気まぐれとしか言い様がない。この世界へ来た方法も分からなければ、元の世界へ戻る法も無論知り得ない。だからと言って、このまま故郷へ戻るつもりなど毛頭なかった。ましてや、"この世界のレンハ"に成り代わろうなど。

 分かっています、とサイリは俯いて小さく吐き出す。
「……すまん」
 サイリの様子に、レンハは己の放った言葉が、サイリにとって如何に酷なのかを察した。やはり、この軍に居たのは良くなかったかもしれない。
 互いの兄妹に良く似た他人。その肚づもりではあったが、そうと割り切るには、自分たちは顔貌は勿論、記憶まで共有しているものが多すぎた。

「―――兄上」
 まだ俯いていたが、若干強い調子で、サイリは兄を呼び止めた。
「それは分かっている。分かっているんです。でも、どうしても、謝りたかった……!」
 全身を震わせて、顔を青くさせて、サイリは吐き出した。
「脅されていたと知らぬとは言え、兄上の苦しみなど考えもせず、お恨み申した時もありました。何も知らず、ただ、大義は我こそにと……」
 最後の言葉は、嗚咽に紛れていた。
 妹を守るとは言え、妹と敵対する道を選んだ事。果たして正しかったのかと、レンハも悩み続けたまま、解放軍に剣を向けていた。迷いなど、命取りだと心に刻んで来たはずなのだが。

「―――サイリよ、これだけは言わせてくれ」
 その声に、サイリは濡れた顔を上げる。顔色はこの早朝の空のようにすっかり色を失っていた。
「私は、"この世界"のレンハとなるつもりはない。だが、もし私が、この世界のレンハであったのならば―――最期にお前と戦えて、死ねて良かったと思っている」
 サイリは首を振っていた。無理もない。恨んでいたとは言え、死を望む事など、露ほどにもなかったのだろう。事実、レンハの噂を聞いて、彼女は逸る心を必死に抑えて王家の霊廟へと向かっていた。

「私の世界でのサイリはどう思っていかは分からぬ。私を恨んで死んだかもしれない。だが、恨まれても構わぬ。恨まれても致し方ない事をしたのだ。お前がレンハを恨むのも無理はない」
 レンハが帝国に下った後、彼が率いていたソンシン軍の精鋭は彼に着いて帝国軍の一部となった。本国に残したソンシン軍は、レンハを追った者、サイリに付き従った者、どちらにも付かず軍を離脱した者、様々だった。ソンシンはヴァルム帝国の版図となっただけでなく、ソンシンの民同士が剣を突き合わせてしまった。同国人同士を争わせる結果にさせたのは王だったレンハだ。そのような者が、故郷の土を踏める道理がない。

「結果的に、私は自国の民を苦しめた。そんな者が、どのような顔をして故郷へ戻れようか」
 迷いや罪は、細い糸に似ていた。レンハの体内の至る所で複雑に絡み合っている。目の前の、"死なせてしまったはずの"妹が、余計に糸を絡まらせていた。もう解く事は叶わないだろう。

「兄上、わかりました……兄上がそう仰るのなら、もう何も申しません」
「すまぬな」
 いいえ、とサイリは首を振りながら、手拭きで口元を抑えた。まだ涙は乾ききっていないものの、張り詰めていた顔は、吹っ切れたように見える。
「兄上がお傍にいらっしゃれば、わたしはきっとまた、兄上に頼りきりになるでしょう。兄上、もう兄上を縛るものはないとお考え下さい。だから、どうかお心の赴くままに」
 ヴァルハルトが敗れ、帝国の支配から解放されたとは言え、ヴァルム大陸はこれから大きな混乱が待ち受けているだろう。故郷へ戻ったサイリにも、想像できない程の困難が訪れるに違いない。強大さを増して行く帝国の嵐に立ち向かったサイリだ。きっと自ら進んで困難を乗り越えようとするだろう。
 本当ならば、元国王として、兄として、傍にいてやる事が善いのかもしれない。だが、それはレンハの本意ではなかった。もし、この世界のレンハも生きていたならば、同じ選択をしていたであろう。サイリのその言葉は、レンハにとって最上のものだった。

「……ならば、一つだけ、我侭を聞いて欲しい」
「無論です」
「サクラを」
 ふと、故郷の春の宴の光景が、レンハの脳裏を掠めた。
「サクラを、霊廟に植えてはくれまいか」
 サイリは目尻を細め、はっきりと頷いた。もうすぐサクラの季節でもあったから、そう思い立ったのしれない。
 舞台上での剣稽古が終われば、後は家族水入らずで、サクラの木の下で弁当を囲んだ。風が吹くと、ひらひらと舞い落ちるサクラの花びらを、幼い妹は無邪気に追っていたものだ。足元を全く見ていないので、何度もつまずいては両親やレンハの肝を冷やしていた。川べりでもあったので尚更。
 小さな背中は、サクラの花弁を追って、遠くへ行こうとしている。だが、その背を追う必要は、もうなくなっていた。


 
13/05/14   Back