タルト・タタンを囲む呪い




 変な人。
 物心ついた時から、父親をそう評していた。まだ年若い頃の彼に出逢えば、その見方も吹き飛ぶだろうと、淡い期待を抱いて時を超えたのだが、結果は期待に添えずにはいた。草原に無造作に置かれた、札と不気味な人形を眺めやりながら、セレナは確信した。
「セレナっ!だめっ……!」
 足元をぼんやりと眺めていると、背後から、悲鳴に近い声がセレナを呼んだ。
 億劫気に振り返ると、ノワールが血相を変えて駆け寄って来た。そんなに走ったら倒れるわよ、内心で呟く。長い付き合いのせいか、彼女が血を失って倒れるまでに至る度合いまで、セレナは直感できる。
「だめ、駄目よ、セレナ。"それ"に触っては……」
 ノワールがセレナの許へ辿り着いた時には、かなり息が上がっており、ノワールの声はほとんど荒い息だった。顔色が良くないのは、走って来たからだけではないのも、セレナは分かっている。
「これ、何かの呪いの儀式よ。触っては駄目」
 ノワールの忠告にも、セレナは慌てはせず、冷めた調子でいた。呪術はペレジア人が得意とする。実戦で繰り出される闇魔法も然る事ながら、遠隔地から精神的な打撃を加える呪術も大変な驚異である。長年彼らと戦って来たセレナたちには、その恐ろしさは身に染みている。ノワールなどは、呪術師である母から、他愛のないものから、聞くだけでも鳥肌の立つ部類まで、様々な呪術の実験台にされて来た経緯がある。呪術、と聞けば反射的に恐怖心が芽吹くのも無理はない。

「ノワール、これが何の呪いかは分かる?」
「そ、それは分からないけど……」
 稀代の呪術師から、そんな教育を受けて来たノワールだが、呪術師そのもの能力は受け継がれていないらしい。だからと言って、ノワールに落胆や失望などは抱いてはいない。セレナ自身も、ノワール同様ペレジアの呪術師の娘である。おまけに、天才と呼ばれた天馬騎士との間の。
「鼠避けの呪いに近いわね」
「ねずみ避け?」
「疫病を流行らせる為に鼠を沢山集める呪いってあるでしょ?それを返す要領でやるみたい。そうすれば、鼠が寄って来なくなるのよ。でも、これは少し形が違う」
「セレナ、凄いわね。さすがだわ」
 震えながらも、ノワールは心底感心した視線をセレナに送る。
 知っているのは、昔、一家で身を寄せていた集落の住民に頼まれて作っていた際、父が教えてくれたからだった。実際に触れた事も、手伝った事すらない。セレナは、呪術を学ばなければ、天馬に乗る選択も取らなかった。親の力がどんなに優れているからと言って、子がそれをそっくり受け継がなければならない理由はない。剣は自ら望んで取った道だ。両親も自分たちの技能を、無理に継がせようとは考えてはいなかったようだ。呪術や天馬の騎乗の勉強をしようとしないセレナに、両親は小言一つ言わなかった。

「まあいいわ。どうせ大した事ないモノでしょうに」
「ええっ?分からないんじゃなかったの?な、何が起こるか……母さんやヘンリーさんが作った物とは限らないじゃない。今すぐ二人に知らせなきゃ」
「大丈夫よ」
 完全に疑心暗鬼になっているノワールを宥める為、セレナは足元の札を指差した。しかし、その指に従って視線を遣っても、詳しい知識のないノワールには、さっぱり見当がつかない。
「札に古代文字で父さんの名前が書いてあるから。害はないはずよ」
 説明を追加で受けても、ノワールは眉を寄せたままだった。精霊を呼び出す古代文字の存在は、ノワールも知っているが、母の魔道書を見た事があるというだけで、正式に修めた訳ではない。おまけに、セレナの言によれば、その古代文字に、独自の装飾や遊びを加えられているらしい。だから、その文字が"ヘンリー"と記されていると分かるには、本人またはそれを知る者しかいない。その横にある、もう一つの文字は流石に判別できなかったが。
 呪いの儀式を行う道具に己の名を刻むのは、ノワールも初耳だった。サーリャがそうしているのを見た事がないだけかもしれないのだが。ノワールは唖然とセレナを見るが、友は堂々と言ってのけ、揺るぎない。疑う方がおかしいとばかりに。




「随分と買ったねえ」
「別に、いいじゃない」
 批判めいた言葉とは裏腹に、のんびりとした声が口から出た。記憶より幼い声だが、紛れもない父の声だ。別段寒くもないのに、重たそうな外套を羽織って外出するのも、セレナの記憶の中と変わらない。理由を尋ねれば、つい癖で、と返って来た。
 
 セレナが座る椅子の横には、大きな紙袋が行儀良く並んでいる。これが全て彼女の服やら装飾品なのだから、承知の上とは言え、金を払った方はたまらない。娘と二人きりで買い物というのはどういうものだろうと、好奇心から誘いに乗ったのだが。
 セレナはセレナで、まだギムレーの邪手が完全に及んでいない世界を満喫していた。満足気に紅茶の入ったカップを傾けている。
 セレナが物心付く頃より、ギムレーの下僕と屍兵に人々は怯えていた。人が肩を寄せ合うように生きている世界では、満足な社会活動もできず、物流は滞りがちになる。嗜好品は勿論、食糧ですらままならない日もあった。だから、大通りに所狭しと物が並び、それを売り買いする人々で活気に満ち溢れている商店通りが、セレナの目には輝いて見えた。色とりどりの服や装飾品を、取り憑かれたように手に取っていたのはそのせいもある。
 
 幼いセレナが父と出かけたのは、見回りについて行った時分しか記憶にない。以前は天馬を駆る母が物見や斥候の役目を担っていたが、母が帰らぬ人となってからは、父が率先して集落を見回っていた。
 いつ屍兵と相対するか分からない状況であった。一人でいるのが怖くて、セレナは父について行く事を強く望んだ。父は、最初は困った顔をしていたが、すぐに緩い笑みに戻り、セレナの手を引いて連れて行ってくれた。今思えば、家に子供をひとり残した方が危なかったのだろう。しかし、父の手にどれだけ縋っても、恐怖の影を払拭できるはずもなく。そしてある日、とうとう縋る手もセレナは失ってしまったのだが。

「ねえ、父さん」
「ん〜?」
 父の死の映像を振り切るように、セレナはぱっと顔を上げた。机を挟んでヘンリーは、頬杖を付いてにこにことセレナを見ている。
「今日は楽しかった?」
「うん、とっても楽しかったよ〜」
 相変わらずの、どこか抜けたような声が返って来る。セレナはでしょう、と両の口の端を上げた。
「娘と出掛けられて良かったでしょ?」
「うん。そうだね」
「こんな事滅多にないんだからね」
「そうみたいだね〜」
「みたい、じゃなくてそうなのよっ。だから、ね?もう一軒行きましょうよ。さっき良さそうな装飾品の店見つけたの」
「駄目」
「え?」
 今までセレナの言葉に同調するだけだったかのようなヘンリーが、この時初めて反対の意を向けた。セレナは目を丸くして父を見遣る。だめ、とは言っているものの、強く咎める風ではなく、いつも通りの細い目を更に細めている父がいた。
「駄目だよ〜もうこんなに買ったじゃないか。だから次はぼくとの約束が出来てからね〜」
 まるで子を諭すような―――事実、親子なのだが―――言い方を急にされ、セレナは閉口してしまう。滅多にできなかった買い物で高揚していた気分が、一気に落ち込んでしまった。親ではあるのだが、年若く、セレナと同世代の少年に諭されるのが、妙な感じではあった。
「な、何なのよ。約束って」
「うーんとね。例えば、大人の手伝いをするとか……」
「そんな子供みたいな事っ」
「だって子供じゃないか」
 浮きかけた腰が、力を無くして元に戻る。若い頃の苦労は買ってでも云々、というヘンリーの説法は、耳に届いていない。今まで散々娘だと言い張って(主に金銭的な意味合いで)頼ってきた癖に、いざ父親顔されると、どうしていいか分からなくなる。同時に、自分の身勝手さにも辟易していた。
 渋面のセレナに、ヘンリーは誰でもいいから、大人の手伝いをする事、と畳み掛ける。
「ああ、誰でもいいんだけれど―――やっぱりお母さんを優先にね」
 そう付け加えると、セレナは渋面をますます深くする。
「セレナ?」
「いやよ」
 母、と出され、セレナの気分は一気に降下する。他の者の手助けをするのは一向に構わないのだが、母だけは。
「母さん、何でも出来るじゃない。他の誰よりも手際もいいし。あたしなんかが手伝う必要なんてないわよ」
「そうかな〜君が手伝うって言ったら、ティアモも喜ぶと思うんだけどなあ」
 ヘンリーの言葉を他所に、セレナは堅く口を閉ざしてしまう。母の名を聞いただけで反発心が生まれるのは自覚していた。生前の母の記憶は少しだけ持っていた。天馬に跨っているか、槍を携えて来るべき驚異へ身構えている姿がほとんどだったが、母として触れ合ってくれた思い出も、もちろんある。

「あ、来た来た」
 じっと冷めた紅茶の表面を見ていたが、バターと林檎の焦げる香ばしい匂いに、セレナも顔を幾分か明るくした。
 店の給仕が運んで来たのは、林檎の焼き菓子だった。しかも、二人分切り分けられたものではなく、大皿に丸ごと乗っている。セレナの固く閉ざされた口からも、たまらずに感嘆の声が漏れた。
「セレナはこれ食べた事ある?」
 焼き菓子を早速切り分けながら、ヘンリーは尋ねた。
「う、うん。昔に何回か……」
 そう答えると、いいなあ〜とヘンリーは心底羨ましそうにしていた。焼き菓子など、久しく口にしていなかったが、確かに昔食べた事がある。まだかろうじてバターや砂糖が出回っていた時代に。ティアモの手作りだった。
 口に運ぶと、林檎の甘酸っぱさと、バターの香りが口一杯に広がる。母の作った焼き菓子の味は、思い出せなかったが、きっとこんな味だったのだろう。

「ぼくもね、この前初めて食べたんだ。すっごく美味しいよね」
 ヘンリーは年頃の娘を目の前にしている言うのに、栗鼠かと言いたくなるほど頬張っていた。口の周りに生地の粉を付て咀嚼している様に子供っぽさを隠せない。行儀が悪さよりも、父がこの焼き菓子にいたく感動ししている事に。
 確かに、未来の世界ではもう幻の品のひとつだ。けれど、まだ物が豊かなこの時代、菓子の中では簡素で安価で、一般的な家庭料理なのはセレナでも知っている。
「これ、ペレジアにはなかったの?」
 君もティアモと同じ事を訊くんだなあ、とヘンリーは笑う。
「ペレジアにも、あるにはあるらしいんだけどね〜。ぼくの親、ぼくに余り関心がなかったみたいでさ〜お菓子どころかご飯もまともに食べさせてもらった事ないんだ〜」
 驚きの事実がまた舞い込んできた。父の幼少時の話など初めて聞いたのだ。けれど、暗い過去をあっけらかんと語る方に、セレナはフォークを止める。記憶の中からも、今の様子からも、そんな幼少時代など想像もできない。一家がイーリスで暮らしていたせいもあろうが、ペレジアの話自体、父の口から聞いた事などなかった。セレナが昔から聞かされて来た話では、ペレジアは、世界を破壊した憎くて恐ろしい国だった。
 
 焼き菓子は、瞬く間に半分に減っていた。無論、ほとんど食べたのはヘンリーの方だった。
「もう少し食べた方がいいよ〜」
「いいのよ、甘い物の食べ過ぎは体に良くないんだから」
「ふぅん」
 実はもう少し食べたかったのが本音だが、自制していた。未来を救う為に、意を決して過去へ渡ったのに、豊かな生活に浸りすぎて肥ってしまった、では情けないでは表し切れない。
 
 そうだねえ、と妙に感心すると、ヘンリーは給仕を呼んで折箱を頼んだ。
「後でみんなと食べてもいいかもね〜」
 半月が少し欠けた形の焼き菓子は、きちんと箱に納められる。セレナはそれを渡されそうになったのが、受け取りはしなかった。食べかけだから、という訳ではなく(焼き菓子自体はきれいに切り分けられていた。恐らく最初から持ち帰るつもりだったのだろう)、注文したのも、金を出すのも父だからが理由だ。しかし、ヘンリーは首を振る。
「この前ティアモと一緒に食べてね、感動しちゃんだよ〜。そしたらイーリスに帰ったら作ってくれるって言ってくれたんだ〜」
 惚気ないで、と言いたかったが、父のあまりにも嬉しそうな顔に、セレナは言葉を紡げずにいた。焼き菓子が食べられる事が嬉しいのか、それとも妻が菓子を作ってくれる事が嬉しいのか、判断つきかねるのもある。おまけに、崩壊の運命にある世界を止める為に、大陸をまたいでの転戦を繰り返している状況下。イーリスに帰る日はいつになろうか。


 先述の通り、邪竜と呼ばれる破壊の神ギムレーが復活せんとしている時だった。行軍の途中で、安らぐひと時がある方が恵まれていると言うべきでもある。
 セレナは陣営に戻ると、ヘンリーに買ってもらった品物を選り分け始めた。前から憧れていた物、見かけた瞬間に胸をときめかせた物がほとんどだが、いつぞやに、友人が欲しいと呟いていた品も幾つか入っている。それを渡そうと、彼女は陣中を歩いている。
 ―――お母さんの手伝いをするんだよ。
 別れる間際にも、釘を刺されていた。父の言いつけを忠実に従う肚は毛頭ないのだが。ヘンリーに言った通り、母は何でも出来る。セレナの少ない思い出からそう判断出来るのだから、夫であるヘンリーは十二分に分かっているはずだ。

「あら、セレナじゃない」
 不意に横から、あまり聞きたくない声で名を呼ばれ、セレナは反射的に体を強ばらせる。
「なによ」
 不機嫌そうな反応も、もう見慣れたのか、ティアモは苦笑いを浮かべた。ティアモの両腕は、数本の槍を抱えていた。どこかへ運ぶのだろうか。母の姿を目にし、再び、父の言葉が脳裏をよぎる。しかし、心情とは関係なく、父の言葉を叶えられそうにない。セレナの両手も今は塞がっているのだから。セレナは、つい、と顎をティアモとは反対に向けて大股で歩き出した。事もあろうか、ティアモもセレナの歩幅に合わせて真横を歩く。走り去りたい気もあるが、手中の品がそれを許してくれない。
「いい匂いね」
 セレナはすぐには言葉を返さなかった。友人に渡す物とともに、ついでに一緒に食べようと持って来た箱を持っている。母に押し付けても良かったが、そうすると一緒に食べよう、と言われるは火を見るより明らかだ。だからセレナはしばらくして、努めて素っ気なく、余りよ、とだけ答えた。
「まあいいわ。ところで、セレナ。あなたの用事が終わったら、少し時間が取れないかしら―――」
「そんな暇ないわよ!」
 気持ちが逆立っていたせいか、いつもの誘いの言葉に、反射的にセレナは刺々しく叫んでしまった。流石にはっとして一度母の顔を見る、が、セレナはすぐに走り去った。セレナ、と呼ぶ声が聞こえたが、振り切るように速度を早めた。

 走ってすぐに持っていた箱から嫌な感触を覚え、ぴたりと足を止めた。恐る恐る蓋を開けると、案の定、焼き菓子は無残な姿になっていた。
 ああ、と落胆のため息を吐くと、セレナは目的の天幕に背中を向ける。いくら気の置けない間柄でも、こんな物を食べさせる訳にはいかない。もう一度溜息を吐いて、セレナは振り返る。周囲も、先刻までセレナがいた場所にも、ティアモの姿は見えなかった。目はいい方だ。セレナは胸を撫で下ろし、来た道を戻る。その足取りは先刻の走りとは打って変わって力が抜けていた。意味もなく感情的になり、色々なものを台無しにしてしまった自分が嫌で仕方がなかった。
 
 母は、決して悪くない。
 他の仲間たちのように、素直に親との出会いを喜べない自分に苛立っていた。逢いたかったという気持ちは、皆と同じだのに。幼い頃に死んでしまったから、言葉を交わした記憶がほとんどないからではない。両親の顔も知らずに育った仲間もいる。幼い頃から言われてきた言葉のせいだろうか。いや、違う。ただ勝手に自分が反抗しているだけなのだ。
 
 セレナは物資庫の天幕いた。
 友人に渡しに行く気力も失せ、己の天幕に戻ろうとする道すがら、目に入ったのがここだった。釣られるように足を向けて、誰も居ない事に胸を撫で下ろす。
 陽はまだ高いが、厚い布は陽光を僅かに隙間から入れるだけで、薄暗い空間を作り出していた。その頼りない光を便りに、セレナは積み上げられてある武器に近付いた。その中に、立て掛けられてある槍の束を見つける。真っ先に、槍を抱えたティアモの姿が脳裏に浮かんだ。槍が保管されている武器用の天幕は別にあるからだ。それに、ティアモが抱えていた槍の一本と似たような特徴の穂先が窺える。規律正しい性格の彼女が、こんな置き方をするのは珍しい。もしかすると、何か理由があるかもしれないが、物資を管理する担当の兵は、病的な程に整理整頓に拘り、物資の乱れを嫌う。彼がこのさまを見つけて何か騒ぎ立てるかもしれない―――セレナは、様々な形状の槍の束を抱えようと、腕を伸ばした。母が、そうしていたように。

 剣ばかり手にしてたセレナは、槍の重さを良く分かっていなかった。己の身長よりもずっと長い得物が、抱えた腕のずっと先で重心が掛かり、身体の均衡をそこに奪われる。あっという間にセレナの身体は崩れ落ちた。更に状況の悪い事に、穂先がすぐ傍に積んであった木箱をなぎ倒す。派手な音を立てて、きっちりと角を合わされた木箱の山は崩れた。箱の中身は薬草のようで、ひらひらと頭上を舞い、えづくほどの青臭さを振り撒いた。

「……もうっ!」
 子供じみた苛立ちを収めようとしたはずが、余計に募らせる羽目になってしまった。
 ひどい臭いに咳き込みながら、セレナは辺りを見回す。臭いもさながら、軽くて短い草が一面に散らばり、簡単に収拾しそうにもない。きっと、行軍の間に、僧兵たちが野山へ入って集めて来た草なのだろう。涙まで滲んて来た。
「セレナぁ〜?どうかしたの〜?」
 天幕の向こうから、耳に馴染んだのんびりとした声が、セレナを呼んだ。
 セレナは肩をびくりとさせ、入口に首を向ける。入って来ないで、と口を開く前にヘンリーはのっそりと影を揺らした。
 入口からの陽光で、セレナの所業ははっきりと晒される。ばつの悪い顔で、父を見る。ヘンリーはあ、と口を開けたが、怒る様子もないように見えた。だが、何を考えているか測りにくい彼だ。怒っていない様に見えただけで、本当は怒っているか、もしくは落胆しているかもしれない。
「盛大にやっちゃったねえ」
 そう感想を述べただけで、ヘンリーは隅に置かれていた箒を手に近付いた。
「一緒に片付けようか」
「……うん」
 鼻をすすりながら、セレナは立ち上がった。青臭さはまだ立ち込めている。

 ずっと訊けなかった事がある。
 幼い頃に母を喪い、父とずっと二人で暮らして来た。ティアモはイーリスの天馬騎士だった上に、実力も人望も他の義勇兵に比べて厚かった。だから余計に、ペレジアの呪術師を夫に選んだ事に反感を持たれていた。母が亡くなってからは、父への不信感は、日に日に露骨になっていた。屍兵やギムレー教徒を手引きしているのではないか、と疑いをかけられたのも一度や二度ではない。住んでいた集落から追い出された時もある。それなのに、父はいつも笑みを絶やさずに、大丈夫だよとセレナの手を握ってくれた。

 何が大丈夫なのか。
 いつぞやから、セレナは胸の中でそう返した。しかし、いくら憎まれても、皆の為に戦う父を思うと、その言葉を飲み込んでいた。
 セレナはセレナで、周囲の大人から、母の素晴らしさ、有能さをとくとくと大人たちに聞かされて育った。半分入ったペレジアの血を押し込めるように。
 ―――だから、君もお母さんみたいな天馬騎士になるんだよ。
 最後には必ずと言っていいほど、その言葉が添えられていた。

「……ごめんなさい」
 ようやく絞り出せた言葉は、ずっと訊きたかった事ではなかった。
「あはは、お手伝い失敗だね〜」
 潤みかけた瞳が、的外れの反応をする父をじっと見る。そして、その視線は再び靴先に戻った。
「そうよ、どうせあたしなんか……!」
「あたしなんか?」
「……母さん」
 ぽつりと、セレナは溢した。溢れた、と表した方が正しいのかもしれない。
「母さんは、何でも出来るでしょ?なのに、娘のあたしは何をやっても駄目だって、父さん、実はがっかりしてない?」
「別に」
 箒を操る手はそのままで、ヘンリーは短く言い放つ。今までとは打って変わってひどく冷たく聞こえ、胸をどきりとさせる。彼の心の色を測るのは困難だ。
「誰かそう言ったの?」
 頷こうとしたが、思い止まった。今のヘンリーとは、時代の違う者たちだから。元の世界では、セレナは天馬騎士に、もしくはティアモと肩を並べるほどの実力を求められた。ティアモが君くらいの年の頃にはもう―――そんな言葉を、うんざりする程投げられた事か。
「言ってごらん、そんな事を言った人間は誰?ぼくが呪ってあげるから。全身全霊で、呪うから。
生きている事を後悔するくらいに」
 屈んでいた体をゆっくりと起した。セレナに詰め寄る体勢になる。ヘンリーの目は暗がりの中でも、怒りを湛えているのがはっきりと分かった。優しく諭されたり叱られたりした記憶はあるが、こんな風に、はっきりと怒りの火を露わにした父など見た事もなかった。まるで別人のようだ。いや、もしかすると、これが彼の本当の姿なのかもしれない。今まで見た事のない恐ろしい光に、セレナの背筋に嫌な汗が落ちる。これ以上そんな父を見ていたくなくて、慌ててセレナは首を横に振った。
「母さんの事を良く知っているのは父さんじゃない。だから、あたしが、母さんみたいに、何でも器用にこなせなく、て……父さんは……」
 最後は尻すぼみになり、下を向いて口篭る。しばらく口をつぐみ、恐る恐る父の目をもう一度見る。さっきの恐ろしさは何処へ、といつもの緩やかな面に戻っていた。
「なあんだ、そういう事なの?セレナ、ティアモの天幕に行っておいでよ〜」
 普段の明るい調子に安堵するも、セレナは眉を寄せた。何で、いきなり母さんの所へ行けなんて?口より先に顔にそう表れる。
「まあいいから。ティアモも君の手を待っているよ〜。ここはぼくがやっておくから、ね?」
 と、セレナの背中を押す。やっておくから、と言っても、散らばった薬草は既に一箇所に集められており、後は元の木箱に詰めるだけだ。戸惑っていたが、ちゃんと手伝ってきたらまた買い物行くよ、との囁かれる。悔しくてたまらないが、その文言は魅力的だった。
   
「あら、来てくれたのね」
 教えられた天幕をくぐると、母は明るい顔を見せた。整った顔立ちを崩れさせるさまを見ると、本当に喜んでいるのが良く分かる。照れくさかった。

「……これ」
「持って来てくれたのね。ありがとう」
 セレナは、抱えていた三本の槍をティアモに渡した。先刻居た物資用の天幕に置いてあった槍の半分だ。全部を抱えて移動するのは、さすがにセレナの腕力では叶わない。だが、母は全てを抱えて難なく歩いていた。せめて、天馬騎士ではなくとも、一人の戦士としては秀でていようと誓ったのだが、現時点では腕力も母の方が優っているようだった。

「ごめんなさいね。本当は自分で持って行くはずだったのだけれど、天馬の様子がおかしいって言われたものだから、慌てて近くの天幕に置いておいたのよ」
「別にいいわよ。今からもう半分持って来るから」
 去ろうとすると、待って、と引き止める声がする。
「後の槍は、ヘンリーが持って来てくれるわよ。だから、もう少し居てくれないかしら?ね?この前のように、無理に聞こうとしないから」
「居てくれって……」
 セレナは露骨に渋面を作る。父母が共謀して、この状況を作ったように思えたからだ。以前、ティアモは未来の世界の話を尋ねたが、セレナは辛い記憶だと激しく拒んだのだ。
 セレナの嫌な顔をものともせず、ティアモは簡素な机と椅子を指して「座って」と誘った。机の上には何か彫り物をしているのか、削られた木片と、まだ手つかずの、切り出されて皮の剥がれた木の枝が何本かと、小刀が転がっていた。
「何よこれ」
「呪いなんですって」
 思わず呟くと、ティアモは確かに答えた。呪い、と。セレナは顔を歪める。
「はあ?何よ、母さん呪術師にもでなったわけ?」
「そうじゃないのよ。ヘンリーにね、手伝って欲しいって言われたから」
 武器に付ける護符みたいな物なんですって、とティアモは付け加え、セレナが持って来た槍の束に視線を移した。
 
 製作途中の呪具。セレナの時代の父が作っていた姿も良く見ていた。これも見ていただけで、セレナは手伝った事はない。母もだ。ただ、これはどういう効果があって、と突然聞きもしない事を勝手に説明していたのは良く覚えている。ティアモが彫っている形に、ぼんやりとした映像でだが、記憶が辿り着いた。セレナはまだ何も彫られていない木片の一つを手に取り、腰の小物入れから小刀を取り出した。
「セレナ、別に手伝ってくれなくても……」
「ただ居ろってだけじゃ手持ち無沙汰だし、それに」
 吐き捨てるように答え、表面に刃を当てる。
「見てられないのよ」
 ヘンリーが彫ったらしき、見本の彫り物を一瞥してから、ティアモの手元を睥睨した。
「父さんって本当に訳わかんないわ!呪術なんて、一歩間違えれば命を落とすかもしれないのに、それを他人に任せてるなんて、しかも、呪術師でも何でもない人に!」
「でも、これは誰かを傷つける物じゃなくて、守る物だから」
「それでも、呪いが反発すれば大問題よ!」
 叫びながらも、セレナの指は微細に動き、見本と同等の細かい彫りが施されて行く。初めはその作業に集中していたが、ふと母の視線に気付き、セレナはぴたりと刃を止める。
「何よ」
「凄いのね。見事だわ、ヘンリーが作った物とほどんど変わらない」
 世辞ではない、心の底からの感嘆がティアモの口から漏れる。別に、と吐き捨てたセレナの口は、閉じると曲がっていた。
「もしかして、手伝っていたの?」
「そ、そんな訳ないじゃない」
 慌てて首を振る。手伝っていないのは事実だ。だが、母がいなくなった時から、父が数少ない理解者から頼まれて呪術を施すのを膝を抱えて眺めていた。父の手元を照らしていたのは、ぼんやりとした灯りだった。油も薪も手に入りにくくなっている状況でも、父は嫌な顔一つせずに、呪い除けの道具を誂えていた。

「ねえ、母さん」
「なあに?」
「母さんって、どうして父さんと結婚したの?」
 共に時間を越えた仲間も、再会した父母に訊ねたとはしゃぎ合っていた話題だ。セレナは、そんな友人らを尻目に、ずっと胸の奥に留めていた。
「父さんって、ペレジアの呪術師でしょ?時々何考えているか分からい事しでかすし、子供みたいな所あるし、これだって」
 セレナの手中の木片は、既に見本とほぼ変わりない完成型を成していた。
 ペレジアの呪術師が、ギムレーの復活からイーリス人に恐れられているのも知っている。セレナの時代では尚更だ。出自や生業を抜きにしても、彼の無邪気で残酷な気質が手に余らないか。現に、槍の持ち手の一部分になるらしきこれは、悪趣味としか言い様のない、見ているだけで気味の悪くなる様な文様を描いている。それを見事に再現できる自分にも、嫌悪が広がる。
 
 それに、と続けようとした言葉はさすがに飲み込んだ。恋は一度でなくてはいけないなどという法律などない。その上、父と"あの人"を比べるのも大概だ。
「そうね、確かに変よね……」
 ティアモは頬を少しだけ赤らめ、セレナから目を逸らして考え込むような素振りを見せていた。
「別に、言いたくなければ言わなくていいけど」
 後悔と反省が心の裡に生まれるのを自覚する。まだ若く、夫婦の誓いを済ませて間もない相手とは言え、親に尋ねるものではなかったかもしれない。

「助けてくれたの」
 呪具を彫る手をそのままに、ティアモはぽつりと呟くように告げた。
「すごく悩んでいる時にね、手を貸してくれたの」
「呪いでもかけてもらったの?」
「そんなんじゃないわ―――ううん、ある意味呪いなのかもしれないわね。あの人が無意識でかけた呪い」
「う、うん……」
 はにかむ母を前に、頷くも、後悔が陰る。惚気を聞く羽目になってしまったのだから。
「だから、ペレジアの呪術師だからとか言わないで。ヘンリーはヘンリーよ。……ちょっとおかしい所があるのは認めるけれど」
 耳がむず痒くなるが、幸せなのは良く分かった。経過はどうあれ、互いに望んで夫婦となったのだ。そして、近い将来、自分が生まれる。その子は今度こそ二人の手で、大人になるまで育てて欲しい。いや、セレナが敢えて頼まずとも、二人ならそうするだろう。子供が悲しむ未来にはさせない。その為に、セレナはこの時代へやって来て、皆で戦っているのだから。

 セレナの背後で、かたん、と何かが倒れる音がした。振り返ると、黒い影が動いているのが見える。セレナはそれが何か悟るった瞬間、背筋が凍った。屍兵を前にしても、怯みもしない勇敢な兵ではあったが、こんな小さな動物には、滑稽だが震え上がってしまう。 
「どうしたの?」
 ティアモが不審に思いセレナの背後を覗き込む。彼女にもそれが目に映ったようで、セレナとまでいかないが短い悲鳴を上げた。
「と、父さんの……あれ……」
 昨日見つけた、野営地の隅にひっそりと置いてあった呪具が脳裏に浮かぶ。これが天幕の中に存在すると言う事は、やはりあの呪具は鼠避けではなかったようだ。
「ちょっと待ってね、セレナ」
 ティアモはゆっくりと腰を浮かし、侵入者を追い払おうと槍へ手を伸ばそうとした。すると、身の危険を察した鼠は、きゅ、とひと鳴きして動き出す。よりにもよって、セレナの方へ。ひゃあっ、と情けない声を上げてセレナは椅子を蹴って飛び上がった。その拍子に、机の脚もがたんと蹴飛ばし、机上の小刀が転げ落ちる。運悪く、その刃がセレナの大腿を掠った。ひりひりとした痛みを感じ、セレナは眉を寄せる。
「ったぁ……!」
「セレナ!」
 刃は短く、軽く撫でるように触れたのだが、セレナの脚にはうっすらと赤い線が出来ていた。
「傷は浅いみたいね。痕にならなきゃいいけど」
 
 ティアモが手巾を出すのと、天幕の入口が開くのは同時だった。
「セレナ〜大丈夫〜?」
「父さん?」
 何という偶然だろうか。しかし、ヘンリーは槍を抱えているから、掃除を終えてやって来たのだろうが、天幕に入る前から、セレナが怪我をしたのを知っているような素振りだ。
「いやいやびっくりだよ〜。ティアモと一緒なら大丈夫だと思ってたんだけど、まさか敵の襲撃もないのに怪我しちゃうなんて」
「大した事ないから」
「だったらいいんだけどね〜」
 心配してくれているようだが、口調はあくまでのんびりとしている。その言動では、どんな恐ろしい呪いをかけようとも冗談に思えてしまう。

「ヘンリー、"あれ"はもう出来上がったの?まさかこんな小さな事でも反応するなんて……」
「うん、結果は上々って所だね。これでもう安心だよ〜」
「ちょっと、何だって言うのよ」
 セレナは眉間に皺を寄せて父母を見遣る。どういう事なのか。"あれ"とは一体何なのか。目の前で自分の知らない話題を広げられて、気持ちのいいはずはない。
「野営地に仕掛けておいたんだよ。君が危険な目に遭ったら、この札が教えてくれるんだ〜」
 ヘンリーは、懐から札を取り出した。
「あれってまさか……!」
 それは、昨日見た、あの謎の呪具に設置してあった札と同じ物だった。
 違うのは、その札が、今はぼんやりと光っている事だ。更には、ティアモもその札を持っていると言い、彼女も同じくぼんやりと光る札を取り出した。
 
「何よそれ、まるであたしを監視してるみたいじゃない!」
「えぇ〜でも〜、君が少しでも危ない目に遭ったら、いつでもぼくかティアモが駆けつけられるんだよ〜?」
「いらないわよ!自分の身は自分で守れるっての!」 
 血相を変えて叫ぶも、ヘンリーは君の為だと笑っているだけだった。
「母さんまで、何で止めないの?」
「え?あなたの安全の為ならいいんじゃないかしら……」 
 その返答に、セレナの肩はがっくりと落ちる。夫を少しおかしいと評してはいるが、やはり、呪術師の妻なのだ。
 
「そんな怖い顔しないでよ〜これでも食べて機嫌治してよ〜」
 ヘンリーは思い出したように、槍の束と一緒に持って来た包を二人に見せる。セレナも見覚えのある箱だった。
「セレナ、天幕に忘れていたでしょ」
 それは、物資庫に置き忘れていた焼き菓子の折箱だった。自分の天幕へは戻らなかった為に、物資の天幕へ持ち込んでいた。
「でもそれ、ぼろぼろに崩れちゃってるから……」
 ヘンリーは箱の蓋を開ける。ああ、本当にぼろぼろだねえ、と言うやいなや、崩れたひと切れを掴んで口に運んだ。
「あひは変わらないよ〜おいひいよ〜」
「口に入れたまま喋らないの」
 ティアモがヘンリーの手から箱を取り上げる。
「休憩しましょうか。お茶も淹れてくるわね」
 それがいいよ〜、と、咀嚼しながらヘンリーが頷いた。この天幕には、今まで作業していた小さな卓しかない。二人で向かい合うのも精一杯だのに、三人で囲むには近すぎる。しかし、逃げられそうにもなく、セレナは観念して呪術に使う木片を片付け始めた。
 

「いやあ、さすがぼくの娘だね。最初に見た時から、呪術の匂いがぷんぷんしたんだよ〜」
 セレナが彫った呪具に、ヘンリーは心底感動したようだった。
「あら、あたしは天馬に乗るのにいい足腰していると思ったけど」
 立ち上る紅茶の湯気を前に、セレナは冷めた目で両親を見ていた。
「どっちもならないからね」
 前々から釘を刺しておこうと思っていたのだ。未来の両親は、セレナに期待をかけなかったが、この二人がそうだとは言い切れない。
「勿体ないなあ。でも、ぼくの手伝いはしてもらうからね〜」
「いいわよ。約束を守ってくれるならね」
 素っ気ない言葉と入れ違いに、セレナの口は形の悪い焼き菓子を頬張る。先刻、母のいる天幕へ行くなら、買い物へ連れて行ってくれると、父が言っていたのを思い出した。周り切れなかった店を思い浮かべ、内心でほくそ笑む。
「よし、じゃあ食べ終わったらこれの仕上げにかかろうか。この前の戦いで、屍兵の身体いーっぱい持って帰れたし」
「しかばね……一体何するの……?」
 嫌な予感しかしないが、頬を引きつらせながら尋ねる。
「何って、勿論儀式に使うんだよ。戦う相手の血と肉を使うとね、より効果が高いんだ」
「―――やらない!!」 
 ルフレに許可貰うの苦労したんだよ、とヘンリーは残念そうに眉を下げる。やはり、父は変な人だった。



 
13/08/21   Back