翼は広がり続け



 商業通りの喧騒に触れるのも久しぶりだった。
 あまりにも久しぶりだから、見つかって大騒ぎになりはしないか、と街へ出た途端心配になった。だが、人が忙しなく行き気する往来は、彼が思い描いていた以上に慌ただしい世界だった。人ごみに流されて歩く親子など、いちいち気にする素振りはないようで、歩みを進める度に安堵が広がって行く。
 マントも剣もない。出で立ちもできるだけ簡素なものにしている。この国の王が、まさか供も付けず、庶民のような格好で歩いているなど、誰も思わないだろう。

 むしろ、今日はクロムが"お供"の役目だった。隣には二番目の娘。今年で十三になる。

 シンシアもお忍びで城を下りるのは久方ぶりらしく―――何せ、"このシンシア"は、イーリスの城で生まれ育った正真正銘の王女様だから―――心底嬉しそうに父の隣を歩いている。この位の年頃になれば、父親を嫌悪するようになると、周囲から言われたいたが、彼女も"もう一人のシンシア"同様、乙女が芽吹く年頃になっても父を慕ってくれている。

 行きたい場所はないか、と尋ねれば、流行りの服が国内でいち早く置いてある店を指した。やはりそういう物に興味が向くらしい。王女と言えど、過剰な贅沢は禁じているが、欲しい衣装や装飾品は、求めれば買う事を許してきた。
 だが、上流社会の婦女子の流行に付いて行くは、城暮らしは何かと不便らしい。お抱えの商人や服職人を呼び寄せ、求めている物を手に入れた時には、サロンでは別の意匠が話題を集めている。天馬に乗っても追いつかない、と娘を持つ貴族たちは嘆いている。

 流行のめまぐるしさは今ほどではないが、どの時代の娘も変わらないらしい。傍からその様子を見ていて、クロムはつい苦笑いしてしまう。
 あの日も、それはもう驚いたものだ。






「そんなに変かな?」
 "シンシア"は、服を手に頬を膨らませた。クロムは慌てて首を振る。
「すまん、少し意外だなと思っただけだ」
 普段のシンシアは、天馬に跨り、男勝りの活躍を見せる。悪をくじくヒーローに憧れているらしく、従兄のウードと共に"決まる"台詞や体勢の開発に勤しんでいる姿を良く見かけていた。だからいの一番に衣服店に寄りたいと言うなど、正直意外であった。

「セレナがね、少しは女の子らしくしろってうるさいんだよ。今は世界を救う為に戦っているって言うのにさ、緊張感がないよね」
「ああ、そうだな……」
 その戦闘中に、花弁を撒き散らしたり、長い長い口上を披露しようとしたりするのは、緊張からほど遠いとは思っていないらしい。どこかずれているのも、母譲りだと今更実感する。

「……似合ってないかな……?」
「そんな事ないぞ」
 再び慌てて首を振るが、シンシアは信じていないようだ。手にしていた服を戻し、別の服を手に取る。店員の鋭い視線がクロムの背中に刺さった。

 驚きはしたものの、娘―――と言うか、子供らしくねだる姿は微笑ましいものを感じる。
 クロム自身まだ十代半ばの娘がいるような年ではない。傍から見れば、兄妹に見えるに違いない   。
 ルキナの時もそうだが、父と最初呼ばれた時には抵抗があった。だが、実際に娘が産まれて芽生えた父性は、大きな娘達に父と慕われて長い月日を共にした事で、大きく成長したらしい。今では、自分の娘たちだけでなく、仲間の子供たちに対しても、似たような感覚になる。

「こっちは?」
「ああ、いいんじゃないか?」
 背中が相変わらず痛かった。適当に答えた訳ではないのに。
 シンシアも、クロムの反応を疑ったのか、眉をさっきよりも深く寄せる。先刻取った服と見比べては、手にしているのとは別の服をじっと見るを繰り返していた。
「欲しければそっちもいいぞ」
 その言葉に、シンシアは花開いたように顔を明るくさせ、クロムを見上げた。だが、すぐに「でも」と口籠りながら視線を手元に戻した。
「おれの個人的な金で買うんだ。軍に迷惑をかける訳じゃない」
「でもこの前、盛り場で、父さんのお金で盛大に飲んだんでしょ?」
「―――っ!それを誰から?」
「ガイアさんから」
 裏社会にいた割には、随分と口の軽い男だ。
「王族の財力を甘く見るんじゃない」
「本当に、いいの?」
「ああ。嘘はつかない」
 背中の視線がいく分か和らいだ。クロムの気が変わらぬよう、祈りが込められているに違いない。
 盛り場で"社会見学"と言っては、何軒もの店を連れ回された。その際の支出は、さすがに痛手ではあった。それでも、若い娘のちょっとしたおしゃれ着の一着や二着買えないほどではない。
  
「父さんありがとう!」 
 今度こそシンシアは顔をほころばせ、近くにいた店員に声をかける。祈りが通じたとばかりに、店員は満面の笑みでシンシアに応えた。娘はそっと後ろを振り返り、小さな声で「盛り場の事は、母さんには黙っていてあげる」と告げた。
 そんな娘の笑みに、クロムも釣られて破顔する。軍の嗜好品―――特に甘味を―――一部制限しようと内心で誓いながら。



 
 今は限られた休息のひと時。様々な店や露店が並ぶこの商業街の外は、戦の波が渦巻いている。クロム達も転戦する日々であり、今夜も軍議が待っている。
 店を出、少し歩いた先にある茶店に入っても、シンシアは嬉しそうに頬を上気させていた。やはり普通の娘と変わらないのだ。他の者から見れば、この娘が天馬にまたがり、槍を奮い、クロム同様、いや己以上に過酷な世界で生きて来たとは、想像できないだろう。

「ルキナもきっと似合うと思うよ」
 注文した茶と菓子を待っている間も、紙袋の一つを眺めつつ喜んでいる。シンシアの言葉に、クロムは目をしばたかせた。

「それはルキナの分なのか?」
「うん」
「お前……」
 だって、とシンシアは姉の趣味の悪さを零す。確かに、この前ルキナ本人が嬉々として見せてくれた服は、どれも目を疑う物ばかりだった。あんな物どこで売っているのか。

「まあ、いいさ」
 姉思いな性格も嬉しく思う。彼女らの話では、幼少時はよく一緒になって叱られていたと聞く。仲の良い姉妹なのだろう。未来はギムレーの力が余りもの強大で、誰も破壊されて行く日々を止められずにいると伝えられたが、そんな中でも楽しい思いでの一つや二つはあるらしい。

 紅茶のいい香りが鼻をくすぐった。店員が茶を二組運んできたのだ。白磁のカップを何気なく手に取る。口にした茶も、言葉も、本当に無意識の、何気ないものだった。
「そう言えば、お前、好きな人とかいるのか?」
「いるよ」
 即答に噴き出す。シンシアが慌てて立ち上がり、その音に気付いた店員が布巾を持って駆け寄って来た。
「自分から訊いたくせに」
 店員を戻らせ、シンシアは呆れながら椅子に座った。
「すまんな」
 クロムは、手渡された巾を口に当て、軽く咳き込む。
「意外だと思ったんでしょ?」
「ああ」
 おしゃれに恋。随分と娘らしいではないか。妹やその友のはしゃぎぶりは遠目で見ているだけだったが、この子らもきっと娘だけで集まれば、その類の話に花が咲くだろう。
「でも、誰だかは内緒ね」
「ああ」
 照れ笑いに、クロムも目を細めた。細かい詮索など無粋なのは自身も分かっている。
「教えたらファルシオンで相手が刻まれるぞって、ガイアさんに言われたし」
 クロムの脳裏には、軍に備蓄している砂糖を始めとする嗜好食品の量と、今後の分配方法が展開されていた。


 
 

 そう。そんな他愛のない、のどかな一日だった。今と遜色ないくらいに。
「―――それでね、今度、お母様と天馬で遠乗りする約束してもらったの!」
 立ち上る芳香を前に、"シンシア"は興奮気味に頬を紅潮させていた。
「そうか。それは良かったな」
 クロムは口の端を上げる。次女の天馬の跨った姿を始めて見た時、脳裏に蘇ったものだ。満面の笑みで手を降って、クロムとスミアの許を飛び去ったもう一人の娘を。
 
 今は平穏な時―――ましてや、こんな年若い娘が―――戦う必要などなくなった。けれど、天馬へ興味を惹かれるのは彼女の気質なのかもしれない。ルキナが小さな頃から自ら剣を求めたのも、同様だろう。
 ソワレの娘も、変わらず自己鍛錬に余念がなく、マリアベルの息子は、貴族の中貴族と言った洗練された身のこなしではあるが、やはり賊のような容貌で悩んでいる。甥のウードも近頃、彼なりの"格好よさ"を追い求め、こだわり過ぎるあまり、イーリス騎士の叙勲を今年も見送られた(怒り心頭のリズが見習いからやらせようとするが、王族を従者にしようとする騎士などいない)。方々から聞く仲間たちの子も皆、かつて仲間だった未来から来た子と、意識していないが、気質は鏡に映したように育っているらしい。ただ、セレナだけは例外で、とても素直な性格の娘になったと言う。

 天馬への憧れをひとしきり語っている最中、シンシアは積み上がった箱が視界に入ると、嬉しそうに箱の一つを撫でた。
 その山に一瞬だけ後悔が浮かぶが、これもまた、彼女の好きな人たちへの土産なのだと告げられると、後悔も吹き飛んで行く。

「これはフレデリク、こっちはウードと、リズ叔母様、それから、エメリナ伯母様……」
「フェリアへ贈るのか?」
「ううん。今度、伯母様がミダイトのフィラヴィア様の別荘にいらっしゃるから。天馬に乗った時に、そこまで行こうって事になったの」
 フェリアの南、イーリスとの国境とは言え、いきなりフェリアとは、いくらなんでも遠いのはないか。それに、スミアも王妃としての公務はクロムとは別に多くあり、その間を縫って、彼女は天馬に乗るのではなく、天馬育成に力を注いでいた。王妃となってから天馬に跨った姿を見たのは数えるほどだ。

 その不安を正直に告げる。王族の私的な外出に、天馬の供を付ける事は易々と承諾できない。十数年前のペレジアとの戦で、イーリス聖天馬騎士団は壊滅した。クロムが王位に就き、組織が再び形作るには苦労が多かった。以前の騎士団へは、未だ道半ばなのだ。

「そうだけど……でも、」
「まだ天馬に乗れるようになって日が浅い。悪い事言わないから、遠駆けは領地内でやってくれ。ミダイトへは馬車で行くんだ」
 シンシアは、心底残念がって俯いたが、すぐに弾けるように顔を上げた。
「この前逢った正義の天馬騎士さんはね、凄かったんだよ!わたしよりもずっと小さな頃から天馬に乗って、遠くまで行ってたんだって」
「だが……な?」
 娘の言葉に、クロムは耳を疑った。腰が浮かび上がる。何と言った?と聞き返すと、父親の様子に驚いたシンシアは、もう一度、正義の騎士だと告げた。
「この前、ひとりで遠乗りに行った時逢ったの。わたしと同じ青い髪でね」
「本当に正義の天馬騎士、そう名乗ったのか?」
「うん」
 クロムは力が抜けたように椅子に座り直す。
 一緒に暮らすものだと思い込んでいた。だが、彼女は正義を求める人の為に、と言って天馬を友にクロムの許を旅立った。あれから十数年、便りのひとつもなく。ただ元気でいてくれと祈るしかなかった。
 
「すっごく綺麗な女の人だったの。わたしとお父様とお姉様以外で、あんなに青い髪見た事なかった……!しかも、天馬騎士だなんて。すごい偶然、もしかしたら運命かもしれない……!」
 件の天馬騎士を思い出し、まるで白馬の王子に出会ったかのように、頬を染めていた。"自分"とは言え、年若い娘に羨望され、あの子も本望であろう。

 成長して、大人の女になった"シンシア"は、彼の脳裏の記録帳にはない。目の前のシンシアと同じ位の年頃で、止まっていた。請われて頭を撫でた時の照れ顔と、抱きしめて眠った時の安心したような顔。"自分"が産まれたら一杯してやってくれとの約束は、残念ながら果たしていない。それを告げたら怒るだろうか。
 近くに来ていたらしいが、一言も連絡がないのは酷いではないだろうか。いや、元気そうであるならば、何よりだ。
 正面の娘に怪訝な顔をされたが、何でもない、と取りつくろうのについ必死になってしまった。


 
12/10/01   Back