槍、二本




 辺りは秋の装いを見せているが、良く晴れた空はまだ充分に暑い。鎧を着込んでいるなら尚更、汗は止めどなく流れ出る。鎧の重さも手伝い、なだらかな道も、デジェルにとっては険しい修行道となった。途中、農夫や猟師とすれ違い、彼らは武装したの若い娘に目を丸くするも、周囲の目を気にするような彼女ではない。

 時折、「どこかで戦でもあるのかね」と慄く声をかけられるも、デジェルは至極真面目に「訓練です」と答えていた。

 時折吹く風が鎧の中を通り、ひんやりとした空気が心地よい。
 麦と南瓜の畑が連なり、子供は犬を共に馬や牛を引いて干し草を運んでいる。
 これも訓練の一貫と槍を手に鎧を鳴らして歩いている中でも、のどかな田園風景に驚きを隠せないでいた。
 デジェルの記憶では、ここは既に荒れ野同然で、農業を営んでいる余裕はなかった。山野は遠くまで広がるが、王都に近いゆえにそれだけギムレーの僕の足も近く、王都が陥落した後に真っ先に破壊の手が延びた土地の一つでもあった。

 
 デジェルは、物心ついた時には既に槍を手に取っていた。母によれば、自分の足で立つようになった頃からだと言う。
 なぜ槍を持ったのか、なぜ己を鍛える事に腐心しているのか―――デジェル自身、理由を問われればただ強くなりたいからとしか言い様がなかった。彼女の取り巻く時勢や、親の背中を見てではない事だけは断言できる。

 デジェルの両親は王亡き後も王都に残り、残兵と連絡を取り合って反撃の機を伺っていた。しかし、屍兵の数は減るどころか増える一方で、その反対にイーリスの民は数を減らして行った。戦える者も然り。
 そんな状況下でも、両親は諦めずに王都に残る兵をまとめると共に、聖王の遺児を守り続けた。デジェルも一時期は両親と共に王都にいたのだが、二年ほど前から、ソワレの実家で両親の帰りを待つ身となっていた。


 屋敷を出てから、一本道であったので迷う事はなかった。
 この道も農道も、こまめに手入れしてあるらしく、舗装はされてはいないものの歩くのには何ら支障はない。平穏な空気に満ちたこの土地が、運命を辿れば瓦礫と死体が累々と転がっていたなど、誰が想像できようか。しかし、その暗黒の未来ももうない。そう思うと、例え全身に鋼鉄の鎧を纏おうとも足取りは軽くなる。もう、荒れ果て悲しみに暮れる故郷はなく、己の無力さゆえに絶望に苛む日々もなく、父母も今を確かに生きている。

 大きな道は大小の二つの道に別れていた。
 住民たちは無論大きな方の道を通っている。牛馬や荷車が通行する為に、道幅を大きく広げているのだ。その先を少しばかり進むと、村の住人の家が連なっている。あの時、母はこの道を一人、どんな気持ちで駆けていたのだろうか。


 


 この日、幼いデジェルはいつになく浮かれていた。
 珍しく訓練もそこそこに、屋敷の入り口が見える場所へ頻繁に顔を出す。今日は、母さんが帰って来る日。屋敷へ向かう赤い鎧と白馬を見つけると、仔ウサギのような足取りで駆けて行った。
「母さん!」
 ただいま、とソワレは愛娘の頭を撫でる。
「いい子にしていたかい?」
 デジェルは頷くと、ソワレの馬の手綱を引いて歩いた。
 馬は苦手だ。
 ソワレもデジェルの父も、まるで我が半身のように馬を手繰る事ができる。しかし、その血をデジェルは受け継いでいないようで、馬にまたがるのも一苦労であった。
「父さんまではさすがに王都を離れる訳にはいかなくてね、すまないね」
「王都はそんなに大変なの?」
 母の顔を不安そうに仰ぐ。聞くまでもない質問である事など、デジェルにも自覚していたのだが。見上げた先の母の顔は、予想通りのものだった。
「父さんもだけど、ルキナも無事なの?」
 さらなる不安をデジェルは思わず口に出す。しかし、それはデジェルを良い意味で裏切ってくれた。
「ああ。姫は健在だよ。君によろしくと言っていた」
 デジェルはほう、と溜息を吐く。
 ルキナはデジェルにとっては姉のような存在でもあった。槍を振るどころか、鋼鉄の鎧をも纏えるようになったデジェルをソワレの実家へ行くように提案したのもルキナであった。 
 そもそも、父も君主であるルキナも無事ではないのなら、ソワレはここへは戻っては来なかっただろう。
 ルキナは、デジェルがまだ王都にいた頃に一緒に育った。ルキナと一緒に育ったのはデジェルだけではなく、デジェルの父母の仲間の子らも共に王城で暮らしていた。デジェルは、ルキナと仲間の子らと共に剣を交え合いながら育った。王族と貴族の娘同士の戯れにしては血生臭くはあるが、悠長に人形遊びをしている余裕はない。ルキナは聖王の遺児として、残るイーリスの民の希望とならなくてはならない。デジェルや他の子達も、いち早くギムレーの僕と戦える騎士として期待があった。

「母さん。わたし、王都へ戻ろうと思うの」
 ソワレの顔が、険しくなる。良い反応をしないのはデジェルも織り込み済みであった。
「言いたい事はわかるわ。わたしの腕が、まで実戦には遠く及ばない事でしょう?」
 武の道に終わりはない。実戦の経験も豊富な父母の足元にも及ばないのは分かっている。しかし、王都から遠のいてから、武芸の研鑽は積んで来たつもりだった。足手まといにはならない、せめてルキナの文字通りの盾になろうと覚悟はあった。それほどまでにデジェルは王都へ戻る事を望んでいた。
「それもある、が」
 母の特徴的な厚い唇が、重く動く。
 ソワレの言は、遠回しなものはなく、デジェルにとっては金言も多かった。だが、今彼女が紡ぐ言葉は、妙に歯切れが悪く、娘を歯痒くさせていた。
「母さん……?」
「とにかく、王都行きは考えさせてくれないか。分かってくれ」
 無理矢理幕を下ろされた感覚に不平を露わにするが、ソワレは気付かぬ振りをしているのか、デジェルに愛馬を繋げるよう言いつけると、馬小屋を小走りに去る。母らしくない言動に不満よりも不思議さが募る。

 もしかして、王都はそれほどまでに酷いのかしら―――
 ソワレは馬小屋でデジェルと別れたきり、ずっと祖父母と話し込んでいた。扉越しに珍しく荒立った祖父の声と、祖母のくぐもった嗚咽が聞こえ、デジェルは大人たちの輪に入る事に尻込みして私室に戻った。
 
 デジェルの家は下級貴族の身分ではあるが、祖母の実家とイーリス王家とは薄い血で繋がっている。その縁で王都から数里離れた小さな農村と山林を下賜されたのが、今デジェルが住まう土地だった。山野に囲まれた農村だが、王都からはそう遠くはない為に、人々はギムレーの兵に恐れをなして一人また一人と遠方へ逃げて行った。老いた領主夫婦は、そんな領民に少しの路銀や物資を渡し、領民が流浪の民となる事を手助けしていた。農業を保つほどの領民は残っているかどうかも怪しい状況だが、領主夫婦は領民の望むままにさせていた。
 
 真実が分からなければ、不安が募るのが普通だ。
 もしかすると、この屋敷と領地を棄てろと言うのではないか―――
 まっすぐに生きる事を是とし、心身ともに鍛錬を重ねても、見えない不安と戦うにはデジェルはまだ子供過ぎた。
 居てもたってもいられず、屋敷を出、山と畑が広がる土地を見渡した。普段なら青い麦穂が風に揺らぐ時期ではあるが、青い草がまばらにあるだけで、農業に明るくなくとも、今年の収穫はままならないと分かる。デジェルの家の家畜の世話を任されていた牛飼いの一家も、先月にはこの地を去っている。今は、デジェルが鍛錬も兼ねて牛馬の餌となる草を採りに出かけている。家畜の世話だけではない。領主一家の食い扶持も、今は領主一家自らが育成している状態だ。恐らく母は、ここがいずれこうなる事を予測していたのだろう。
 
 屋敷の敷地の裏手の林に開けた場所を作り、そこを槍の訓練場としていた。デジェルを領地に住まわせるようになった際に、母が作ったものだ。空き地には数体の案山子や板が立てられ、どれも無数の傷や穴が空いている。長年の訓練相手たちを前に、デジェルは立ち木に立て掛けておいた槍を構え、満身創痍の案山子へと振り上げた。
 体を動かす事で迷いは晴れる。デジェルはそう信じて鍛錬を積んで来た。事実、武に関しては迷いはない。王都にいた時に父母や両親の仲間たちから受けた手ほどきを頼りに、再び王都へ戻っても遜色ないようにと磨いて来たつもりだった。
 
「デジェル」
 聞きなれた声と、土を踏む音が同時に聞こえ、あれだけ激しく動いていたデジェルの体がぴたりと止まる。額汗を手の甲で拭った。
「話は終わったの?」
 デジェルの瞳からは先刻よりも不安は幾分かは消えていた。それでも娘の瞳は、母親の胸をちくりとさせるには充分であった。
「ああ」
 ソワレは林へと歩み寄り、穂先を丸めた槍を取り上げる。
「一つ手合わせと願おうじゃないか。腕次第では、君の王都行きを考えるよ」
 母に鍛錬を誘われ、断る娘ではない。おまけに、王都へ連れて行ってくれると言われれば先刻までの不安は吹き飛ばされ、胸中は高揚し始める。
 
 二人が対極的に構え間合いを取ると、空気が一気に重くなる。
 離れている間、母は一体どれだけ屍兵と戦ってきたのだろう。
 ソワレの鎧下を纏った肢体からは、傷が覗いていた。乾いた傷から、まだ青黒く残っている傷まで。女の身でこの有様であれば、父はもっと深く傷ついているかもしれない。
 ばっと向かい風が来たかと思うと、すでにソワレはデジェルの間合いを詰めていた。腹に向かっていた穂先をかろうじて柄で跳ね返す。訓練に集中していなかった事を内心で恥じた。訓練用ゆえに穂先は丸めてあるが、あのまま直撃すればしばらくは動けずにいただろう。
 跳ね返したつもりだが、ソワレの体はまったく崩れず、踏み込む足を変えただけで攻撃は止まなかった。デジェルは久しぶりに感じる重い一撃が繰り出される度、額から汗が飛び散る。
 
 槍がデジェルの手から飛んで行くまでそう時間はかからなかった。娘の方は息を切らせ、滴る汗は衣服を肌に張り付かせているが、母は息ひとつ上がってはいない。実戦を何度も経験している者と、ただ静かな地で一人鍛錬を積むだけの結果をまざまざと思い知らされ、愕然とした足取りで弾き飛ばされた槍を取りに行く。
「随分と腕を上げたじゃないか」
 背中に褒め言葉を受けても、素直に喜べる心境ではなかった。
 ソワレは今にも壊れそうな案山子の一つに手を置く。
「だが、案山子相手じゃ限界があるね」
 戻って来るデジェルの顔を見やり、ソワレは口の端を上げる。途端、デジェルの顔がぱっと明るくなった。
「えっ?いいの?」
「ああ。二日後に発とう」
「本当に?」
「嘘を吐く母親じゃあない。しっかり準備をしておくように」
「うん!」
「返事ははい、だ」
「はいっ!」
 きびきびとした返事と共に、デジェルは踵を返した。王都へ。例え暗雲立ち込める土地であろうとも、己の武が存分に使える。そしてルキナを、皆を守るのだ。ギムレーの僕の恐ろしさを知らぬ少女は
 誰が見ても浮足立っているデジェルの背中に、ソワレは思わず苦笑いを浮かべる。邪竜へは、剣の先すら届く算段も今のところ立っていない。それどころか、ギムレーに立ち向かえる義勇兵の数は減る一方だ。望むままに王都へ連れて行っても、いや、どこへ行こうと屍兵の脅威から免れる事は叶わないだろう。未来を生きる子の為に何が最善か、それすらも分からないのであった。



 明後日、王都へ旅立つ。
 鍛錬と日課である家畜と田畑の世話に体は疲れているが、心が浮足立ってどうにも眠れそうにない。王都は、恐らくはこの地よりも荒れ果て、屍兵の脅威が渦巻いているのは容易に想像できる。しかし、父やルキナの顔を思い浮かべ、何よりずっと母と共に居られる事を考えれば、迷わずに王都へ心も足も向ける。兵としてはまだ未熟であろうが、誰よりも早く、ルキナや多くの者を守れるようにより鍛錬を積まなければならない。

「あっ」
 デジェルは寝台から跳び上がった。
 王都へ行ける事に浮かれ、槍の手入れをすっかり忘れていたのだ。鍛錬を積まなければと決意した矢先に、大切な槍の事を失念していたとは。デジェルは寝台を抜け、燭台に灯りを点けようとした。その時、遠くで慌ただしく玄関の扉を叩く音がした。扉を叩く音と、悲壮な呼び声に緊張が走る。慌てて夜着から服に着替え、手持ち式の燭台を持って玄関へ急いだ。

「村が、村が……っ!」
 突然の訪問者に気付き、母も祖父母も玄関へ集まっていた。
 玄関に転がるように入って来た老人は、屋敷から一番近い村の農夫だった。息子一家はとうに遠くの地へ逃げ、一人畑を耕しているのをデジェルも知っている。
「来たのか?奴らが来たのか?」
 祖父の強張った声に、老人は何度もかぶりを振る。開ききった扉の向うでは黒煙が上がっていた。村を襲った軍勢の様子を粗方聞くと、ソワレは娘の方へ振り返った。
「デジェル。王都への道は分かるね?」
 母の言わんとしている事に気付き、デジェルは首を勢いよく横に振った。
「嫌っ!わたしも戦う!」
「初陣とさせたい所だが、条件が悪い。足手まといだ」
「そうよ。お前だけでも逃げなさい」
 祖母もそう言うが、一人逃げれば家族を、今屍兵に襲われている領民をも見捨てる事になる。足手まといと言われようが、戦士が逃げる訳にはいかない。デジェルは槍と鎧を取って来ようと踵を返そうとする。が、ソワレの手が、デジェルの頬を包み、足を止めた。
「デジェル」
 咎めるような、だが柔らかい声がデジェルを撫でる。
「君の使命は、王都へ行ってルキナを守る事だろう?」
 ゆっくりと首を縦に振る。母に触れられ、自分がひどく震えていた事に気が付いた。
「ならば行きなさい。ルキナも君を待っている。なあに、あれくらいの数、母さん一人で相手した事なんて何度もあるさ」
「でも……」
「王都で逢おう。さあ」
 ソワレは、デジェルの肩をぽん、と押した。祖父母も皺を深め、行きなさい、と告げる。
「道を通るのは危ない。山を通って行くんだ」
 さすが屍兵との戦いは慣れているのか、後ろ髪引かれるデジェルの背中を押すように、ソワレはそう助言した。

 部屋に戻り、慌てながらも鎧を着け、槍を掴む。鎧を全身に纏って荷を持つと意外と体に負担がかかる。己の鍛錬不足を嘆きながらも、腰の小物入れに入る物だけを詰めた。外から蹄の音が聞こえ、窓に駆け寄った。鎧を身に着け、否が応でも母について行くつもりはまだ心に残っていたのだが。デジェルの思惑を振り切るように、夜道を馬がもの凄い早さで駆け抜け、村へと続く道に差し掛かると闇に溶け込むように消えて行った。

「母さん……」
 どうか無事で。そう強く願い、屋敷の裏口を通る。外はひどく静まり返り、虫の声すら聞こえない。遠くではギムレーの僕が破壊の限りを尽くしているのだろう。母はもう黒煙が上がる方角へ辿りついているだろう。振りかえる事はもうできなかった。
 歩くたび、鎧の音が響く。それすらも屍兵に見つかるのではないか。そう心配になったが、臆病者めと己を叱咤して山道を登った。道らしい道は当然なく、勾配は急で、闇夜の中、文字通り手探りで進まなければならなかった。鎧は普段よりも重く感じられ、すぐさま額や鎧の下で汗が湧き出る。しかし己の体などに構っている暇はなかった。王都へ。早くに父に逢い、この事を知らせなければ。その思いでデジェルはひたすら獣道を登った。

 どれくらい登ったであろう。王都への方角も半ば見失っている状態だった。樹木が空を覆い、月と星を遮ってしまっている。村も屋敷も見えなかった。デジェルは悲しみと恐怖で曇りつつあるのに気付き、首を慌てて振り、再び前を向く。
 勾配も緩やかになり、立って歩けるまでにはなっていた。山の頂上近くであろうが、高い木々が空を遮っているのは相変わらずであった。獣も鳥も、虫もなりを潜めているようで、がしゃり、と鎧が鳴る音と、風で擦れる草の音だけがやけに響く。数歩歩くと槍に縋り、肩で粗い呼吸を繰り返す。生ぬるい風すらも心地よかった。

 草や茂みが、荒々しく鳴った。
 強風に揺れてではなく、何かが踏み荒らした音。やけに大きな音かと思った矢先に、大木が裂け、倒れる音が響いた。心身は疲労から緊張に塗り替えられ、デジェルは咄嗟に槍を構える。暗がりに灯りが見えた。僥倖と喜びの光を灯すが、一瞬で吹き飛ばす。闇夜に浮かぶ真っ赤な光が、二つ、点在している。草を踏む音が次第に、大きくなる。暗がりでも、そこから吹き出る黒煙のような瘴気も。

 ここまで、来ていたのか―――
 槍を持つ手が震え出す。穂先が揺れていた。かつて王都で見た屍の兵と同じ形は、周囲の木々を力任せになぎ倒していたが、デジェルの気配い気付いたのかこちらを向く。赤い双眸が震えるデジェルを捉えると、のそりと動きを変えた。赤い目からはおよそ生気が感じられず、口から出す瘴気からは腐臭がし、異様に長い腕は指先が地面に届きそうだった。目の前にいる化け物は、案山子とは違うのだと、肌を這う冷気が伝えていた。

 体の震えは止まらない。屍兵のゆっくりとした足が、混乱を助長させてもいる。意を決して呼吸を整え、柄を握り直した。
「うわあああああああああああ―――!」
 余計な考えは廃し、ただ目の前の標的を刺す事だけが足を動かす糧だった。のっそりとした動きが幸いし、デジェルは相手の懐に突進する事に成功した。硬いが、確かに刺した手応えがあった。その証拠に、頭上から、悪魔の笛を思わせる低い悲鳴と、鼻が曲がるような腐臭が漂った。

 やった!
 すぐに槍を引き抜こうかと腕を引く。だが、腐っているはずの屍の体にしっかりと食い込み、穂先はびくともしなかった。
「……っ」
 懸命に柄を引っ張ろうとした瞬間、デジェルの体に衝撃が走り、大きく吹き飛ぶ。茂みに派手に体を突っ込ませた。身を守る鎧は逆に重りとなり、しかも半分さかさまの体勢になっている為になかなか起き上がれない。それでも苦心して茂みから這い出ると、眼前に皮膚が爛れた足が見えた。ひいっと思わず悲鳴が上がり、近くの樹の幹の裏に身を隠す。同時に、先刻までデジェルが居た場所の茂みが大きく抉られた。デジェルは逃したが、屍兵はさらに腕を振り上げる。彼女を目標としているのではなく、ただ、目の前に壊せる物があるから壊す。そのような行動だった。デジェルの槍を、腹に貫かせたまま。

 槍に多少の名残はあるものの、屍兵が目の前の樹木を破壊する事に腐心している今は、逃げる絶好の機でもあった。幹から体を離そうとした時、別の大きな力がデジェルを叩きつけた。何があったのかはすぐには理解できなかった。吹き飛ばされる前に見たものは、先刻の屍とは違う赤い目と、剣の軌道だった。鋭い金属音はデジェルの鎧を纏った体に衝撃を与え、簡単に吹き飛ばされる。先刻の屍兵よりも非力ではあったが、突然の事態と、デジェルの体が疲労の限界であった事が、彼女を棒きれのようにさせたのだ。受け身を取る暇もなく、根や草が乱雑に生える地面に崩れ落ちる。もう一撃来る、そう覚悟したが、起き上がる前に体はぐらりと真横に転がり始めた。止める術もなく急勾配を転がり落ち続け、背中をしたたかに打ち、ようやくデジェルの体は静かになった。

 再び、静かな世界に入り込んだようだ。
 息をする度に、口に、鼻に土が入る。その不快感を消すように、デジェルは首を振った。体のあちらこちらで悲鳴が上がるが、休んでいる暇はない。屍兵はあの二体だけではないだろう。そっと鉄板が覆う胸に手を当てると、浅い刀傷が走っていた。あの時、突如斬りかかられた時のものであろう。助かったと案ずると同時に、まともに受けていれば、この鎧ですら無事ではなかったという恐怖が沸き上がった。
 
 それでも、デジェルは王都へ行かなくてはならない。
 起き上がると、眼前に石造りの小さな建物が目に映った。闇の中、デジェルの目にその建物の全貌が映る。彼女は、これが何であるか知っていた。領地を持っているとは言え、霊廟など下級貴族にしては大仰だと、以前母が教えてくれた。ここに、誰が眠っているのかも。
 壁に手を遣りながら歩いていると、中から人のすすり泣くような声が聞こえた。デジェルは幽霊の類は信じていない。しかし、先刻の奇襲を経験した身では、恐ろしい何かがまた潜んでいるのではないかと思わずにはいられなかった。だが、それでも離れられなかったのは、耳に入って来る声が、随分と幼いものだったからである。
 幼い子供の屍兵だったら。
 その考えも捨てきれずにいたが、両開きの霊廟の扉の隙間を作る。きい、と蝶番が軋む音がすると、息を飲む声が響いた。デジェルよりも幼い子供が二人、二つ並ぶ棺桶の一つの影で抱き合って震えていた。暗闇で顔は良く見えないが、村の子供なのだろう。
「逃げて。ここも危ない」
 上方ではギムレーの僕が暴れている。そこの一帯を破壊しきれば、また新たな目標を目指すに決まっている。石で出来た建物とて、屍兵どもの暴力に耐えられる保証はない。
「奴らはもうすぐそこに来ているの。だから……!」
 無理にでもそこから引っ張り出し、逃げるよう追い立てるつもりだった。だが、月明かりも乏しい中の突然の来訪者は、幼子らにとっては屍兵も同然なのだろう。腕を伸ばしても、余計に体を縮ませるばかりだった。
 
 背後で草を乱暴に掻き分ける音がした。デジェルは全身に緊張を走らせ、振り返る。赤く光る双眸と目が合い、デジェルの足も竦み上がった。
 闇夜にも、刃こぼれが激しい斧だと分かる。しかし、斧の切れ味などまったく気にもしていないとばかりに、屍兵は斧を真横に力任せに薙いだ。反射的に、だがほとんど真下に倒れるようにして真一文字の刃を避けた。硬い物同士が激しくぶつかる音と、吠え喚く屍兵の声、そして二種類の悲鳴が夜の山に響き渡る。二人の幼子と眠れる者たちを守っていた霊廟は、屋根部分は派手に吹き飛び、壁には大きな穴を空いた。
 
 這っていると、地面の草が手に触れ、強く握った。幸か不幸か破壊の僕らしく、崩れ落ちたデジェルよりも目の前の"まだ残っている"石壁に意識が向き、破壊の本能のままに斧を振り上げている。斧と石材がぶつかる度に、デジェルの頭上に石の欠片がぱらぱらと落ちる。このまま完全に崩れ落ちるのも時間の問題だろう。
 
 入り口も歪み、霊廟の内部が覗いている。子供たちの姿は見えないが、怯える声はかすかに聞こえた。屋根は崩落したのではなく、四方に飛び散った為に、下敷きにならずに済んだのだろう。だが、屍兵に狙われるのは時間の問題だった。あのまま二人の子供が殺され、己も邪竜の餌食になるしかないのか。脳裏に村へ馬を走らせる母が、祖父母が浮かんだ。逃げろと、何が何でも王都へ行けと。
 所どころ痛む体を起こし、デジェルは崩れた石壁から内部を手で探る。目的の物を掴むと、屍兵の青黒い胴目がけて勢いよく立ち上がった。大きく斧を振り上げていた腕は止まり、それどころか全身が動きを止める。口から紫煙を上げ、ギムレーの僕は動かぬ屍となった。今度はずるりと穂先から体が離れる。

 デジェルは、固く握った柄をじっと見つめた。霊廟の主たちも、この槍でこうして人々を守っていたのだろうか。だから祖父母も、一緒に"相棒"を眠らせたのかもしれない。
「さあ、今のうちに……!」
 視界に抱き合って震える子らを捉えると、デジェルは崩れた石壁から手を伸ばした。この霊廟は、最早身を隠す場所ではなくなったのだ。さすがに察したのか、幼子たちは身を起こしてデジェルの手を取った。



「―――あっ」
 デジェルは思わず声を上げ、振り返る。
 しかし、驢馬が引く荷車の車輪の音が彼女の声をかき消した。例え目が合ったとても、振り返ったデジェルに気付いたとしても、「彼」は分からないだろう。それでも、デジェルの口の端が自然と上がる。きっと"もう一人"もこの村のどこかで暮らしているのだろう。

 未来の世界の二人も、王都への道すがらの小さな集落に身を寄せた。先に逃げた同じ村の家族が、彼らの身を引き受けてくれたのだ。別れの際の笑顔が、デジェルを一人王都へ向かわせる伴であり、王都での暮らしも支えてくれた。領民を守りきれた。そう母に報告する事はできなかったが。
 
 からからと車輪が転がる音を背に、山へと続く小道へと進んだ。人の足は頻繁には入っていないのだろうに、こまめに草は払われ、小道を覆う枝も取り払われている。それでいて太陽の光を程良く遮り、暑さから守ってくれていた。

 あの時は、必死で急斜面を鎧を纏いつつ登っていたのだ。月の光もろくに届かない場所もあって、辺りを見回す余裕などもなく。こんな良い道があったなんて知らなかった。いや、デジェルがいた世界にもあったのだろうが、ほとんど人が入らない場所の草を払う余裕などはなかったのだろう。
 ゆっくりとした下り坂がしばらく続き、一層と木々が密に生えている場所を通り抜けると、記憶の通りの場所に小さな霊廟はあった。霊廟と言うまでにも大仰な、小さな石造りの小屋であった。ここまでの道程同様、周りを見る余裕もなく、さらに闇夜が霊廟の全貌の記憶を曖昧にさせていた。石造りの小さな小屋なのは確かだが、細かに模様が彫られてるなど、知らなかった。
 
 木製の入り口をゆっくりと開くと、蝶番がきしみ、黴臭い空気がどっと押し寄せる。窓一つない暗闇に何年ぶりかの陽が差した。暗闇に目が慣れると、二条の槍が主と共に眠っていた。あの時と同じだ。「ここ」から借りたのではないのだから、本来は返す必要はない。だが、母と共にこの領地へ戻った時に、そうしなければならないと思い立ったのだ。旅立つ前に、報告もしておきたかったのもある。

 持っていた槍の一条を、二つの棺桶の間に入れる。
 眠る伯父二人を前に、音がせんばかりにデジェルは頭を下げた。
「ありがとう、ございましたっ」
 まだ若い少女は、これから旅立つ。生き延びた父母は、安息もそこそこに旅立つ娘を引き止めようとしたが、デジェルは両親と共に過ごす事よりも、遠く離れる道を迷わず選んだ。他の仲間同様、過去と未来の不要な干渉を避けての事ではない。デジェルの本来の世界のような、暗雲立ち込める空ではなく、突き抜けるような澄んだ色の空が広がり、小さく千切れた雲が悠々と流れている。纏う鎧は重くとも、立ち上がり、歩きたくなるような、手を伸ばしたくなるような、そんな空が。

 霊廟の戸をぱたんと閉めると、再び頭を下げてくるりと踵を返した。
 この空を泳ぐ羊雲のような旅とはなるが、不安は何ひとつなかった。
 

14/11/09   Back