白羽根に触れる大義名分



 ばさり、と頭上で風を切る音がした。

「若様、上―――っ!」
 慣れた声につられるように仰げば、青かったはずのキアランの空が一面真っ白になっていた。
 何だ、雲か?
 そう思った矢先に、その白一色の視界は、次第にこちらに近付いて来るのに気が付いた。雲なんかじゃない。もっと、重い物だ。それが空を飛ぶ生き物だという事を知った時にはもう、ヘクトルの真上にそれは落ち、丈夫と自負する体躯を、派手な音を道連れにして押し潰した。

「若様っ!? 」
「ヘクトル!! 」
「―――っ!! 」
 馴染みの男どもの声に混ざり、女の甲高い悲鳴がヘクトル頭の奥に届いた。彼にとって、初めて聞く声だった。少なくとも、自由奔放過ぎるあのシスターのものではない事はわかる。

「ヘクトル、大丈夫か? 」
 心配そうにエリウッドが土煙へと近寄る。ヘクトルの身体は、皆の予測通り天馬の下敷きになっていた。さすが、オスティア仕込みの鍛え方か、それとも英傑の成せる業か。呻き声を上げながらも、懸命に抜け出そうと身をよじる姿ではあるものの、重傷のようには見えない。

「……頑丈ですねぇ……いや、若様、ご無事で良かった」
 主が事故に遭ったというものの、呑気な声を投げかける。天馬の下から、いの一番にヘクトルはマシューを睨んだ。はいはい、とマシューは白い馬体へ近付く。その気だるそうな身のこなし、言われなければ密偵と誰も気付かないだろう。

「さ、お嬢さん。どいておくれよ。うちの若様が殺しても死なないのは見たろ?でも、おれの飯の為に救い出さなければ……いや、まあ、少なくとも動けるようになって下さらないといけないものでね」
 地面からの、斧もかくやと言わんばかりの視線にも臆さず、マシューは馬上の少女に声をかけた。ヘクトルにしてみれば、家臣が主家である自分を助けるより、誰かに話かけている事を優先しているのが腹立たしかった。

 密偵の視線や言葉から、その人物が"自分の上の上"にいるようだった。腹を圧迫する痛みと共に鮮明になって行く頭が、"お嬢さん"が天馬の主であると憶測を導き出す。余計に腹の痛みが増した。


 
 その"お嬢さん"こと天馬の主がフロリーナという名で、イリアの天馬騎士見習いである―――というのは、本人以外の口から得た情報だ。
 この娘は、最初の出会いからしてヘクトルにしてみれば不可思議そのものであり、彼の遥か後方を着いて回っては、気配に気付いて振り返る度に驚いて逃げ出す、を何度も繰り返していた。おまけに、

「ちょっと」
 しかもこのやり取りには"おまけ"があった。彼女とは逆に、はっきりとした強い口調で話しかけて来る少女。ヘクトルにとって、彼女とは別の意味で厄介な小娘だった。
「フロリーナに何したのよ」
「何したって……」
 心外だ。おれは何もしてない。断じて。
 だが、ヘクトルがそれを思いっきり顔に出しても、リンディスは恐ろしげな顔と疑惑の念をを解く事はなかった。リンディスは何時もフロリーナと一緒にいる。二人は、リンディスがキアランに身を寄せる前よりの親友だったらしい。フロリーナ、という名前もヘクトルは彼女の口から知った。

「保護者面してんなら、おれに付きまとうのを止めさせてくれねえか」
 などと以前、真正直にリンディスに言ったが、彼女はヘクトルの方がフロリーナへ手を出していると一方的に決めつけている。話し合いにもならない。
 遠巻きに着いて来るフロリーナに声をかける度に、フロリーナは悲鳴を上げて走り去り、入れ代わりにリンディスが咎めに来る。女子供に対しては多少の堪忍の利くヘクトルも、何度も繰り返されるこの展開に辟易しているのだが。



 
 こうした緩やかな時は、時折野営地においては流れてはいるが、すぐに打ち消されるのが転戦の身の常だった。
 魔の島から戻って来てからは特に。熟練の漁師すらも近寄らない不気味な島での衝撃的な出来事。それだけでも一行を疲弊させるには充分だった。その上、慣れぬ船旅―――ファーガスの航海技術を持ってしても、"積荷"を運ぶだけで精一杯なようだ―――で、偉丈夫たちも体力を削ぎ落とされ、追い打ちをかける様にして、闇夜に敵襲。

「ったく、ついてねえな!」
 ヘクトルは悪態と共に斧を薙ぐ。悲鳴が血飛沫のように飛び散った。夜の闘いにおいて唯一良い事は、暗がりに血が溶け込んでしまう事か。
 しかし、昼間よりも視界がかなり制限され、やはり夜は戦い難い事この上ない。身に降りかかる殺気と音を頼る部分も大きくなる。リンディスは常に視覚より先にそれで動いているらしい。彼女のものらしい風を切る刃の音が矢継ぎ早に耳に入る。まったく、人間業ではない。

 次々と現れる正体不明の"敵"を切り崩している内、視界が徐々に白んで行った。夜が明ける。それはヘクトル達にとっては転機であった。
 喜びも束の間、襲いかかる謎の男を斬り結んだ瞬間、愛用の得物に違和感を覚えた。かと思うと、その違和感は嫌な現実へと瞬時に変わった。斧の広い刃は折れ、大部分が欠けていた。ヴァロール島での戦いから、文字通り休む間もなく戦い続けていた。武器の確認や手入れもまともにしていない事を思い出す。
 くそっ、と舌打ちしてヘクトルは周囲に首を巡らした。しかし、そう都合良く武器が落ちていたり、敵がぱたりと攻撃を止めたりはしなかった。背後から振り下ろされる大剣を柄で受け止める。鈍い痺れが腕に伝わった。

 極度の疲労と不安までもが、敵の剣の威力を助長させているようだ。まずい、と心中で何度も叫ぼうとも、相手の刃が斧の柄に食い込むのは止まらない。
 
 ばさり、と頭上で風を切る音がした。
 どこかで聞いた事のある音だが、それが何なのかを考える暇はない。
「若様、上―――っ!」
 慣れた声に身体が無意識に動いた。ヘクトルは柄を持った両腕を力いっぱい前に押し、その反動で後ろに跳び退いた。ほぼ同時に、真っ白な馬体が空から斜めの体勢で降りて来た。降りて、というよりも落ちて来たようにも見える。ぎゃあ、と言う悲鳴と共に男が地面にのめり込むように斃れた。その背中に槍傷らしき穴が開いている。だが、咄嗟にその場を避けなければ、ヘクトルとて天馬の蹄に巻き込まれる運命だっただろう。

 そう言えば、前にもこんな事あったな。あの時はしっかり羽根馬の下敷きになっちまったが―――
 額に浮かぶ汗を乱暴に拭うと、正面の天馬へと顔を上げた。
「なあ―――」
 口を開いた瞬間、天馬の主は―――野営地での反応と同じく―――びくりと肩を強張らせると、手綱を引いた。その合図を受け、天馬は翼を大きくはためかせる。
「あ!おい、待て」
 ヘクトルは勢い良く駆け出した。疲労も鎧の重さもこの時は全て忘れて。空へ駆け上がろうとしている天馬の後ろ脚は目の前だった。若様、何してるんですか、という素っ頓狂な声も他所に、思い切って地面を蹴る。

「きゃあ!」
 がくん、と天馬が傾いて乗り手も思わず悲鳴を上げる。脚を掴まれた天馬も羽根と他の脚を動かしてもがいていた。負けじとヘクトルはもう片方の手を伸ばす。
「なななな、何をして……っ!」
 ヘクトルの体重で高くは飛べず、低空で何とか体勢を保っている状態だ。その声と地上からの仲間たちの視線で後悔が浮かび上がった。だが、それを無理矢理追い払うようにヘクトルは口を開く。

「どこか適当な場所で降ろせ」
「は、はい」
 下方へと顔を向けると、やはり怪訝な顔でこちらを見ている仲間たちがいた。(その中の一人は鬼のような形相をしていた)上空からは戦場が一望でき、敵襲はほぼ収束しているのがわかる。後はエリウッドやオズインに任せても大丈夫だろう。仲間の周りで斃れている黒装束はかなりの数だった。

 フロリーナは平らな場所目がけて馬体を降下させる。地面が近くなると、ヘクトルは天馬の脚から手を離して飛び降りた。襲撃があった町の中心部から少し外れた場所にも、敵の屍は数多く転がっており、戦闘の激しさが伺える。この賊達は一体何者なのか。太陽に曝されてもわからない。

「あの……」
 忌々しげに地面を見遣るヘクトルに、フロリーナが声をかけたようだ。ようだ、と言うのは、彼女の口から発する声が小さすぎて、最初は聞き間違いかとヘクトルが思ったからだ。ヘクトルは、ああ、そうだ、と身体をフロリーナに向き直した。
「さっきは助かった。礼を言う」
 天馬がぶる、と鼻を鳴らす。その為に、フロリーナの声がかき消された。物凄く不安そうな顔をしているのはよくわかるのだが。
「あの、それで……ご用は」
「ご用?」
 眉を寄せて問い直した声は、彼女にとって相当大きかったのだろう。フロリーナは肩をびくりとさせて縮こまった。
「ええ、じゃなければ、こんな……ヒューイにぶら下がってまで……」
「ああ、さっきで済んだ」
「え?」
「え?じゃねぇ。こうでもしなけりゃお前に礼なんて言えねえじゃねだろ」
「っ……ごめんなさい……!」
 それほど大声を上げたつもりはヘクトルにはない。だが、フロリーナは先刻よりも怯えた顔になった。男と真正面から向き合うのには慣れていない、というリンディスの言を思い出す。ヘクトルは前髪を荒い手つきで撫でた。

「そうびくびくする必要はない。確かにおれは乱暴で言葉も悪い。リンディスにはお前の事で目の敵にされているが、別にお前を取って食おうなんてこれっぽちも考えていない。これだけはわかってくれよ」
 わかってくれる事を期待せず、できるだけ柔らかい声色と言葉を選んだ。何でこんなに気を使ってんだ、と己を訝しく思うが、怯えて逃げられる前に、これだけは伝えておきたかった。
「は、はい……」
「それと」
「っ!」
 身体を強張らせてじっと聞いていたフロリーナの肩が大きく動いた。
「だから、別に何もしねえから、言いたい事があればちゃんとな……」
「すみません。男の人が、やっぱり恐くて……それと……」
「それと?何だ?」
「わ、わたしこそ謝らなくちゃいけないのに……この前の……ヒューイが落ちて来た時……」

 先刻思い出したばかりの記憶だった為に、俯きながらの小声を耳が拾うと、すぐさまフロリーナの記憶と共有できた。
「ああ、あれか」
「ごめんなさい」
 別にいいさ、と言いかけてふと湧いて出た疑問をフロリーナにぶつける。
「お前、もしかしてそれが言いたいが為にずっとおれの後を……」
 顔を赤くしてフロリーナは頷いた。ヘクトルの口からため息のようなものが漏れる。
 それを言う為だけに、ここまで尻込みするものか。男に関して余程恐ろしい事でもあったのだろうか。と、ヘクトルの中で心配が奇妙に広がって来ていた。

「おれが恐いのはわかるが……まあ、その、困った事があればいつでも頼ってくれてもいいぜ」
 自然にそう口をついてしまう程に。フロリーナは、眼を丸くしている。当然だとヘクトルは思った。彼女の性質も、不可解な行動も知り、これ以上互いに関わる理由がある訳ではないのに。
「まあ、お前にはリンディスがいるがな。あいつだけじゃどうしようもない時は、おれが何とかしてやるさ。さっきの礼だと思ってくれ」
 少し早口になってしまっていた。言い訳や取り繕いなど、彼の専門外であるのがその理由だ。ともあれ、"さっきの礼"は充分な大義名分ではある。

「―――フロリーナ!」
 遠くから、良く通る声が風に乗って来た。
「お、噂をすれば何とやらだな」
 ヘクトルは素早く片手を上げてフロリーナに背を向けた。フロリーナの返事は聞いていないが、このままここに居れば、リンディスにとやかく言われるのは火を見るより明らかだ。
 それにしても、何と都合良く自分たちを見つけてくれたものだ。その辺りだけは、キアランの友に感謝しなければならない。  
12/06/20