天使からの依頼





 マシューは、オスティア家にとってなくてはならない存在だった。
 元はと言えば侯弟ヘクトルの抱えるひねくれた青二才だったのだが、本人が望まずとも不穏な影が蠢くのが貴族社会。オスティア騎士が表立って動けないような役目をこなして行く内に、数年で御家指折りの密偵となっていた。

 しかし、今彼が行っている行為は、明らかに主の命に背いている。
 密偵が主人の意思に反するなど、考えられぬ事であった。綺麗事では片付けられぬような問題を密かに解決するのが密偵の主な役割だ。騎士以上の忠誠がなければ勤まるような職ではない。マシュー自身も、ヘクトルに対しては、主というよりも昔馴染みの友人と言った態度を取る時があるが、オスティア家、いや、ヘクトルの為ならば命を投げ打つのは厭わない。
 それでも彼は、遂げなくてはならない事があった。マシューの行動を知れば、ヘクトルは恐らく眉をひそめるだろう。伸ばし始めた髭の下から、マシューを痛罵するかもしれない。だが、とマシューは腰に下げた小さな袋に手を遣る。

 屋敷の裏口から音も立てずに入り、明かりのない裏庭をやはり音も立てずに急ぐ。屋敷の門兵にも当然ながら気付かれる事なく侵入できた。これくらいは、マシューほどの密偵であれば易いものだ。外壁も手がかりになる箇所も闇夜の中でも見逃さず、すいすいと登って行き、三階のバルコニーへ降り立つ。窓からそっと中へ入ると、うっすらと香が漂っていた。先日、ヘクトルがアクレイアに赴いた際に香を買っていた事を思い出した。構わずゆっくりと身を部屋の中へ滑らせる。明かりはすでに消され、月の光は届かない。小さな気配は、マシューの来訪には気付かず、とうに夢の中のようだ。

「お―――」
 口を開いた途端、闇の中で金属がぶつかる音がした。まさか、と思った時にはマシューは両腕を取られ、乱暴に床に抑えつけられる。咄嗟に膝を立てて腹と胸の衝撃を和らげたが、捕捉の腕を払う事は叶わなかった。このような状況には何度も遭遇した事はあるが、如何せん抑える力が馬鹿が付くほど強すぎて、マシューと言えど身動きが取れない。

「おれは言ったよな」
 頭上から馴染んだ声が振りかかる。
「男には、やらなきゃならない事があるもんで……」
「それが主命に反していてもか」
 ヘクトルの声には、そのまま密偵の首をも鋭く断つような気魄があった。二人は昔からの馴染みで、主と密偵の前に、親友だった。マシューもヘクトルに対して揺るぎない忠誠が奥底にあるが、若輩の侯爵に向けた忌憚ない意見は数えきれないほどある。それについて、側近からは咎められたが、ヘクトルの口からは悪態は出ても咎める声は一度もない。だが、今回は違った。これは主に対して、いや友に対して重大な裏切りであると。闇の中、ヘクトルの顔は見えないが、怒りに染まっているのは分かる。

「意外と早く見つかっちまいましたね。さすが若様、いや、"おとうさま"」
 抑えつけられた頭に、ぐいとより体重がかけられる。体躯がいい上に、武術に掛けては粗暴な面はあるが、負け知らずだ。純粋な力比べてヘクトルに勝てるはずもない。動くたびにする金属音からして、鎧を着込んでいるようだった。深夜まで侯爵自ら張り込んで、ご苦労さんだな、とマシューは心中で呟いたはずだが、口に出ていた。
「軽口を叩ける余裕があるか」
 剣が鞘から抜かれる鋭い金属音がする。言い訳無用、という事らしい。
「ふん、まさか貴様がおれを裏切るとはな」
「おれは、天使の味方なんですよ。ごつい髭のおっさんか愛らしい天使を取るか―――若様ならどうします?」
「愛らしい天使に決まってる」
 ヘクトルは即答するも、剣を振る腕は下げようとはしなかった。
 急に扉が開く音がした。振りかえると闇の中から、蝋燭の光と、止めてお父さま!という声が飛び込み、ヘクトルは思わず目を腕で庇う。マシューを拘束していた力がわずかに弱まった。その隙をまんまと逃がすマシューではない。

「リリーナ!お前は寝ていろ」
 捕えた密偵を逃したのも介さず、ヘクトルは"愛らしい天使"に駆け寄る。
「お父さまこそ、マシューにひどいことしないで!マシューはわたしが無理を言ってやってくれたの」
「だがな」
 先刻の戦鬼のような気魄もすっかり取り払われ、一人娘を前にヘクトルはうろたえる。

「リリーナ様」
 そんな君主を尻目に、マシューは腰に下げていた小さな袋から一通の手紙を取り出した。差し出し人を思わせる手のひらに納まるほどの小さな紙片ではある。その手紙に、一輪の花が添えられていた。
「マシュー、ありがとう!」
 リリーナは満面の笑みを浮かべ、マシューの手中の贈り物を受け取る。ヘクトルの渋面が蝋燭の灯りに浮かび上がる。娘にきつく言う訳にもいかず、かと言って娘の希望が叶うのも面白くはない、と言った心境までも浮き上がらせていた。陰で使用人たちに凄んで阻止しようとしたが、マシューに通用するはずもなかった。ごつい髭のおっさんがいくら威嚇しようとも、愛らしい天使の望みが叶えられんと願うのが普通の精神ではないか。先刻ヘクトル本人もそう証言しているのだ。

「えーと、リリー、ナ、へ……」
「お嬢様。目を悪くしますよ」
 マシューはリリーナが持ってきた蝋燭の火を部屋の燭台に次々と移す。明るくなった部屋には、手紙に花開いたような笑みを見せる少女と、複雑な顔の偉丈夫、そして小さな友情の橋渡し役。
「よりにもよって、何でエリウッドの倅なんかと……」
 マシューは笑いを堪えていた。心底嬉しそうに友人からの手紙を眺める娘は、何とも愛らしく顔いのだが、その手紙の主が気に入らず、顔を緩み切れないと言った様子だ。五つになるかならないかの子供の手紙のやり取りに、そこまで噴気するものだろうか。それが、娘を持つ父親というものだろうか。
「またいっしょに遊ぼうですって。ロイにお返事書かなきゃ」
 リリーナが手紙を両手にくるくると回り出す。その手紙を命懸けでリキアまで運ぶのもまた、己の役目になるだろうと、困惑する主の背中を見ながらマシューは思った。
 

14/04/28   Back