ジンジャーブレッドの焦げる匂い



 陽はまだ高くあるが、灰色の雲が地上に影を落として、陽光を妨げている。肌寒さの中でも街の人々は活発に動いていた。足早に流れる人たちの群れに紛れて、セーラも小走りに大通りを進んでいた。彼女も例外なく、冷え込んだ空気に顔を赤くしていた。白い息同様、鼓動を弾ませながら。
 露店の軒下や、店の入り口の傍をなるべく避けながら、目的地、いや目的の人物の許へ急ぐ。この通りを抜けた先にある広場に彼はいるはずだ。金縁の真赤な平紐や、薄い日光に照らされた硝子製の飾り玉には心惹かれるが、彼女にはそれらよりも魅力的なものが待っていた。人だかりの道から、広場に出る。人の多さは変わらないが、息が詰まるような窮屈さからは解放された。

「遅いよ」
 夏は噴水にもなる人工池の前で、セーラを見るなり彼はそう口を開いた。
「これでも急いで来たのよ。この人ごみじゃ辻馬車は通らないって言うし。それにね、半年振りに会う主人に向かって、何て言い草なのかしら。半年も経てばもっと気の利いた挨拶でもできると信じたわたしが馬鹿だったわ」
 「誰が主人だ」というこの空気よりも冷たい声を聞き流し、セーラは灰色の空を見上げる。仕えているオスティア家当主、ヘクトルから二つ返事で賜った休暇である。エリミーヌ教のシスターたるセーラが、教会最大の祝典である聖誕祭に休暇を貰えたのは、ひとえにヘクトルの自分への信頼からである、と、セーラは疑いもしていない。
 聖誕祭は楽しまなくては、とばかりに手紙を出した先は、エトルリア王都アクレイア。総本山であるこの地にて、エリミーヌの誕生日を厳かに祝うのだと、周囲には触れ回っていた。
 さっさと人ごみを縫うように歩く少年―――エルクの後につきながら、セーラはこれから世話になるリグレ公爵家の屋敷へと思いを馳せる。初めて赴くエトルリアの大貴族の屋敷である。広場を臨むあの大きな屋敷のように、さぞかし立派な館なのであろう。聖誕祭を祝う飾りも、どれほど豪奢な物だろう。早足で歩いている事も手伝い、胸が上気してきた。
 古びたカフェの前を通り過ぎた時、セーラは立ち止まった。古びたカフェの、同じく古びた窓から漏れる香りがセーラの鼻腔をくすぐったからだ。その途端に、浮ついた心が急に冷えた感覚がした。一言で表せば、懐かしい。だが、それは決して暖かい記憶ではない。

「どうかしたのかい?」
 早足で進むも、時折セーラの様子を伺っていたエルクが、青ざめるセーラを見つけていた。その声に、セーラは我に返る。
「何でもないわよっ。さ、早く行きましょ」
 もう少しでカフェの方向へ顔を向ける所であった。あの形を見てしまう所だった。その衝動を断ち切るように、セーラはエルクを促す。夢にまで見たリグレの屋敷はもうすぐなのだ。その期待で頭を無理矢理満たした。
 

 
 街の外れから、辻馬車で半刻ほど揺られると、絵本の世界のような屋敷が見えてきた。リキアのオスティア家も立派だが、建物や敷地の美しさはこちらの方に旗が上がる。柊と葡萄の蔓で出来た輪飾りが飾られた門がゆっくりと開く。ひんやりとした空気に揺れる寒芍薬の花。刈り込まれた庭木には、鮮やかな色の平紐が飾られている。至る所に建てられている燭台は、聖誕祭の夜を明るく灯すのだろう。今夜はさぞ素晴らしい夜になるだろうとセーラの胸をより一層弾ませた。思い描くだけで、こんなにも高揚してしまうのだから。
 客間にて二人を出迎えたのは、リグレ公爵夫人ルイーズであった。豊かな金の髪を上流階級の夫人らしくゆったりと束ね、柔らかな笑みから指先の動きに至るまでまで気品を感じてしまう。初めて彼女に出会った時から、セーラはルイーズに憧れを抱いていた。まだ見ぬ自分の母親も、きっと彼女みたいな貴夫人に違いない。そう理想の母親を思い描きながら、セーラはスカートの両裾を摘んで腰を折った。視線がつま先に止まった瞬間、またあの匂いが鼻腔に飛び込んできた。セーラの胸中が一瞬で暗い影に覆われ、脳裏で微笑んでいた美しい母が霧散した。生姜と、砂糖が焦げた匂いがもたらした暗い影。
 セーラは恐る恐る顔を上げた。ルイーズの後ろ、暖炉の横には立派な樅の木。日の光を反射している色付きの硝子玉。古びているが荘厳さに鈍く光る燭台。だが、それらは彼女にとっては脇役でしかなかった。鹿、熊、梟―――獣の姿を模っているのは、生姜を練りこんだあの焼き菓子。この匂いと形と過去は、変わらずにセーラの中にあるのだと嫌でも見せつけていた。


 この日だけはと、孤児院の老神父は小麦粉とバター、そして砂糖を抱えていた。子供達も、滅多に口に出来ない物に目を輝かせて食台を取り囲んでいる。セーラもその一人だった。この時ばかりは、毎日のように祈っていた貴族の父母の迎えを忘れていた。
 何もない孤児院のひっそりと立っている樅の木に、唯一彩りを与えてくれたジンジャーブレッド。孤児院でのただ一つの暖かい思い出は、オスティア家に行く時に捨てて来たはずなのに。どうして、この季節とこの匂いは捨てたはずの物を、再び描き出すのだろうか。


「―――セーラさん……?」
 ルイーズの声に我に返り、自分が酷く重苦しい顔をしているのに気が付いた。
「あっ、すみません。あまりに素敵なお部屋なのでつい見とれてしまいました」
 
 わたしは、貴族でなければならい。
 あれはわたしの過去ではなく、幼い頃に聞いた一人の可哀想な貧しい少女の話なのだ。

 勧められたソファーに座り、出された紅茶の香りに無理矢理意識を向ける。白磁のカップがかたかたと小さな音を立てていた。他愛のない話に相槌を打つも、ここまでにも香り立つあの生姜の匂いが心を覆いつくし、離れる事はなかった。
 控えめなノックの音が聞こえた。それと同時に樫材の扉が小さく開く。
「お、た……」
 扉の陰から、乳母を伴った赤子が不安定な歩きを見せていた。
「あらクレイン」
 ルイーズは歩み寄り息子を抱きかかえると、セーラに挨拶するよう優しく諭した。セーラは膝元の背の幼児に向かって微笑みかけた。
「こんにちは、クレイン様」
 セーラの言葉を理解したのかそうでないのか、一歳半になったばかりのクレインは喃語を放つと、母の指を引っ張りながら暖炉を指差す。
「そうよ、ツリーよ」
 息子を抱きかかえ、ルイーズは暖炉へ、正確にはその傍にあるツリーへ歩み寄った。
「この子ったらすっかりこれが気に入っちゃたのよ」
 再び息が詰まるような感覚がしてきた。クレインの小さな手は、梟の形をしたジンジャーブレッドを掴んでいる。
「来年は一緒にこれに絵を描きましょうね。そしたら、その動物があなたを守ってくれるのよ」

 ―――嘘だ!
 セーラは叫びそうになるのをかろうじて喉に留めた。落ち着こうとゆっくりと息を吸い込むたびに、体が冷たくなっていく。
 
 ―――わたしもみんなと一緒に絵を描いたのよ。猫の絵。たくさんの願いを込めて、ツリーに飾った。

 しかし、どんなに強く願うも、セーラを凍えるような寒さから守ってくれる事はなかった。飢えを和らげてくれる事はなかった。そしてまた、聖誕祭が来ては同じ願いを込めていた。これを何年繰り返したのだろう。

「ルイーズ様、まだ時間がありますから、彼女と少し敷地内を散策してきます。さあ、行こう」
「え、ええ」
 ルイーズの返事を最後まで待たず、エルクはセーラの体を部屋から強引に押し出す。
 芯の通った声と二の腕をつかまれ、セーラは暗い思いでから意識を引き上げられた。それでも沈んだ面持ちのままではあったが、エルクに促されて冷気が支配する中庭の一角へ出た。
 二人は一言も発しないまま、中庭に備え付けられた長椅子に座る。鹿や熊の形に刈り取られた庭木の葉が、重たそうにもたげていた。裏手にあるせいか、それとも中庭が広いせいか、手入れはされているが、この辺りは屋敷の正面のように飾り付けはあまりされていなかった。
 エルクは大きく白い息を吐き出した。俯いたまま一向に口を開かないセーラを横眼で見ると、くしゃりと前髪をかき上げる。陽が傾きかけ、曇り空に更に翳りが差しているのがわかる。

 雪が降るかもしれない。
 そう思うも、長椅子と体がくっついたような気になり、寒さが増しても動く気にはなれなかった。セーラはじっとかじかむ手を見つめている。急に冷える風が舞ったと思うと、セーラの肩が暖かさに包まれる。ちらりと横を見ると、エルクは長椅子に背を預けてじっと空を見上げている。冷気に紛れて、あの匂いがセーラの鼻をくすぐった。彼がこの外套を羽織ったまま、ずっとあの部屋にいたからだろう。しかし、不思議と胸の中にはあの嫌な影は降りては来なかった。
 それでも、一言も言葉を交わす事なくセーラは外套の前合わせを握り締めた。外套に染み込んだ甘い生姜の匂いに包まれて、セーラは目を閉じた。  
08/02/04初出 2013/12/22 加筆修正   Back