Drops


 冷たい風で、思わず空を仰いだ。朝から淀みがかっていた空は、いよいよ灰色の雲が広がり、草原一帯を暗い影で覆う。
「降るな」
 風が運ぶひんやりした空気も、暗い空も、キアランにいた頃と同じ雨の知らせだった。ケントは、馬の腹を軽く蹴った。草原の暮らしにすっかり慣れた愛馬は、羊と山羊の小さな群れを追い立てる。やがてケントの赤い髪にぽつり、ぽつりと水滴が落ち、その数は増すばかりだった。
 降ると予想していたにもかかわらず、その上、妻の忠告もあったのだ。
 その妻はこのところ、気が滅入っているようで、その上で放牧を彼女は申し出た。だが、いち早く草原の仕事に慣れたいケントは、それを断り、馬に乗った。思えば、この天気の下、慣れぬケントの羊追いを心配しての事だろう。と、妻の気遣いを無碍にした事を悔やんだ。
 

 短い草の野は瞬く間に川や水溜まりができていた。羊たちの足も、馬の蹄も泥水に染まり、ケントの靴も馬の跳ねる泥を受けた。泥だけならまだましだ。雨は止む事を知らず、大樽一杯の水を一度に掛けられたように頭ごと水びたしになる。外套は持っていない。馬上で体勢を整えるのが精一杯だった。
 家畜の蹄のほとんどが雨水に漬かっていた。どこか洞窟(あなぐら)でもあればと周囲を見渡すが、雨に煙る草原がどこまでも続いていた。仕方なく妻の待つ包(ゲル)を目指す。目前を小走りに行く羊たちの方が、彼よりもずっとこの天候には慣れているようだった。
 大雨の中ぽつりと白い包が見えた。その頃には濡れていない箇所などない体になり、すべての家畜を一頭残らず彼らの天幕へ入れると、滑り落ちるように馬から下りた。
 キアランを出る際に携えた金は、草原で二人慎ましやかに生きて行ける額だった。その僅かな金で買った僅かな家畜。一頭も失う訳にはいかないのだ。
 重い足を踏みしめるたび、雨水を靴の中で踏む不快な感触がする。しかし、その疲労も包に入った途端に忘れた。薄暗い家の中をいくら見渡しても、妻の姿がない。絨毯に置かれた縫い物の道具が、女主人の影を残しているだけだった。慌てて滝のような雨の中へ戻る。妻の馬も見当たらなかった。

「リンディスさま!」
 叫び声は雨に叩きつけられ、響く事はなかった。今朝の様子を考えると悔やまれて仕方がない。考え込むより先に馬に飛び乗った。雨で鞍が滑るが、何とか体勢を立て直す。しかし、どこへ行ったのかと首を廻らしても、灰色の草原では見当もつかない。
「リンディスさま!」
 もう一度妻の名を呼ぶ。
 ともに暮らし始めて数ヶ月。まさか主君の孫娘と野に下るなど考えもしなかった。騎士の家に生まれ、騎士として育ってきた。そのせいか、仕える家の令嬢だった妻に対して、どこか遠慮がちな部分がある。
 
 愛馬の首が震え、白い鼻息が上がる。
 激しい水音の中、馬の足音が聞こえた。咄嗟に妻の馬だと頭を上げる。雨に煙る中、想像通りの姿が現れ、安堵に気を緩ませた。それは妻も同様だったようで、雨に濡れた顔をほころばせる。
「よかった……」
「リンディス様こそ、ご無事で」
 しかし、ケントはすぐに下馬し、二本の手綱を握る。その所作は姫に仕える騎士そのものだ。
「ケント、いいから。あなたも馬に乗って、早く戻りましょう」
「泥濘んでいます。急いではかえって危険ですので」
 馬上より、堅くなった声がするが、ケントはそう答えると手綱を握り続けた。リンディスの不満そうな感情が雨とともに頭上に落ちてくるのを感じ、
 しまった―――
 ケントは己の態度に後悔する。騎士然とするのは彼の無意識下の言動で、それが、こと草原で暮らすようになってからは余計に、妻を不機嫌にさせてしまうのだ。
 簡易な取り繕いだと自覚しつつも、己の馬の鞍に手をかける。しかし、馬に乗る事は叶わなかった。振り仰いた瞬間、頭上より落ちてきたのが目に入った。雨ではなく、妻が。
 首に強い衝撃を受け、泥の上に背中が叩きつけられる。息がつまり、咳き込んだ矢先に雨粒が容赦なく口内へ入り込み、さらに咳き込む羽目になった。
「ケント」
 それでもケントの体から身を退けようとしないリンディスの方が容赦ないかもしれない。
「も、うし訳、あ……」
 言い終わる前に再び咳き込む。こんな仕打ちをされても謝り続けるケントもまた、やはり騎士根性が抜け切れていない証拠だった。
「ねえ、後悔している?サカへ来たこと」
「そんなことありません」
 荒い呼吸を整え、強くはっきりとそう答えた。
「でも、こんな雨、キアランにはない」
「ええ、そうですね。羊たちを帰すだけで精一杯でした」
「包だって、雨をしのぐには不十分だわ。それに、しばらくこんな天気が続くのよ」
「慣れるしかありません」
 悲痛な顔をしたリンディスもまた、大量の雨に打たれ続けていた。頬と、草原色の髪から雨水が流れ落ち、ケントの顔に当たる。
 この人は、ずっと自分を責めていたのだ。キアランの騎士を、無理矢理草原へ連れて来てしまったのだと。
「リンディスさま」
 大きく息を吸い、妻の名を呼ぶ。大粒の雨に打たれようが、喉を打とうがもう気にならなくなっていた。
「リンディスさま。私は自分の意思でここへ来ました。後悔など、していない」
 一度たりとも、後悔が頭に浮かんだ事はない。確かに草原の厳しさにも直面した時はある。だが、それでもキアランへ帰るという選択肢は欠片もなかった。
「あなたと、草原の民になる。その覚悟でやって参りました。相違ありません」
 手を伸ばして濡れた頬に当てると、リンディスは驚いたのか、肩をびくりとさせた。しかし、すぐに大きな手のひらの上に自分の手を重ねる。
「だから、それが騎士みたいだって言ってるのよ」
 咎める言葉だが、その声は熱を帯び始めていた。
「なかなかこの習慣は取れません。今しばらく時間を頂ければ」
 その答えに諦めたのか、リンディスは苦い笑みを返した。ケントもつられて破顔する。
 起き上がろうとした矢先、妻の身体がケントの胸に預けられる。大量の雨水を含んだ互いの服ごと重たげに重なり合った。
「まずはそう、リンって呼ぶことからね」
 胸のあたりから、ぽつりと呟く声が聞こえた。
 降りしきる雨は、ケントの中の騎士の影を流してくれるかもしれない。
 この雨が終わるのと、彼が「リン」と呼べる時はどちらが先であろうか。
10/05/26   Back