旅のはじまり




 石造りの建物は、庶民の住宅とは違い円く成されていた。周囲には酒場や賭場、そして娼館。裏稼業の立ち並ぶこの一角での一番の稼ぎ場として有名な場所だった。金の為、名声の為、自分の腕を磨く為―――腕に覚えのある者達が世界中から集まり、途絶える事を知らなかった。

 その入り口の受付には顔中傷だらけの厳めしい男が座っていた。彼が若い頃も、訪れる「客」たちにも引けを取らない勇者であった。故に、猛者を選別する眼にも長けている―――はずであった。

「ん?」
 男は受付に座る己に影を落とした、外套をかぶった細身の姿に眉根を寄せた。外套は長旅のせいかやや薄汚れてはいるが、上質な皮でできた高級品。足音もなく近寄った所作、被りの下から覗く穏やかで整った顔立ち。経験からわかる。貴族だ。しかも小娘である。貴族の観戦は珍しくない。だが、こんな若い娘が、しかも供もつけずに一人でやってくる事など、彼の闘技場には一度もない。

「お嬢さん、見物はあっちだぜ」
 物好きなだけだろう、と男はすぐに卑下た笑みに戻し、観戦受付の方向を指差す。しかし、少女は外套のフードを外し、首を横に振る。かしゃり、と音を立てて男の前にある机の上に金袋が落ちた。
「ああ?」
 男はその袋と少女を交互に見た。「次の試合へ出場希望です」と小さいが、はっきりした声が男の耳に届いた。

「なあに言ってんだ。お嬢さんが出るような場所じゃねぇよ。冗談を言っちゃいけねえ。大体、次の試合の出場者はもう決まってるんだ」
 男も頭は柔軟だと自負している。一瞬だけ、この娘を出場させた風景を思い浮かべた。が、すぐに否定して。確かに貴族の小娘を出せば盛り上がるだろう。だが、ここは真剣試合。怪我で済めば運が良い方なのだ。他のごろつきなどはどうなっても構わないが、貴族に何かあればこの闘技場の存続に響く。自分で望んで身を投じたのに、何かあれば責任を全てこちらに擦り付ける。それが貴族の常套手段であるという事を、この男は知っていた。それに、次の出場者が決まっているのも事実だった。

「おらあ冗談に付き合っている暇はねぇんだ。ほら、見物はあっちだぞ」
 苛立ちも含めて観覧受付へ顎をしゃくる。かしゃり、と音を立てて金袋がもう一つ突き出された。思わず卓上に目を遣れば、初めに出された金袋よりも膨らんでいるのは一目瞭然だった。男の眉間に深い谷が出来た。何故この小娘はここまでして試合に出たいのか。

「次の試合に出る―――確か、ハリモさんとおっしゃいましたかしら。その方、急病で試合欠場なさるそうです」
「あ?」
 笛の音のような優しい響きの中に、有無を言わさない威圧感が含まれていた。男は受付の後ろに控えていた少年に顎で合図した。少年は慌てて外へ駆け出して行く。
「それに、わたしは家を捨てた身です。わたしに何かあってもあなたに責任はありません。これは保証しますわ」
 心を見透かされたような回答と、有無を言わさぬ圧力に男は観念して首を振った。
「あんた名前は?」
「プリシラ」
 男はその他に二、三質問をすると、本当に知らねぇからな、と呟いて奥の部屋へ消えて行った。

 小間使いとプリシラが控室に向かって行くのと入れ違いに、先刻男が外に使いを遣った少年が慌てて飛び込んで来た。
「親方ぁ!あの女の言う通りでした!」
「何だと?」
 男の傷だらけの頭から汗が流れた。
「次の試合に出る予定だったハリモって奴、裏通りのお医者の所でボロボロになって寝込んでたんでさあ。かろうじて口だけ聞けたんで事情を聞いたら、いきなり外套を着た女に『次の試合変わってくれないか』って言われたそうなんです。で、断ったら女がいきなり魔法をぶっ放してきたらしくて、気がついたらお医者の所に寝かされていたそうです」

 男は腕を組んで煙管を加える。確かに、あの小娘の言う通りではあった。
 面白い試合になるかもしれない。期待と不安が混ざった煙が、煤けた天井へと吸い込まれた。


 
 
 プリシラが案内された小部屋は、汗の匂いと重々しい空気が充満していた。この空気はどの闘技場でも一緒なのだ、とプリシラは思う。時間が進むにつれて、壁の外のざわめきが量を増して行くのがわかる。次の出場者は魔法使いの小娘なのだ。さぞかし話題になっただろう。

 プリシラは、簡素な椅子にじっと座り、次の試合の事を思う。緊張も恐怖もなかった。その逆に、弾む様に心臓が波打つ。プリシラは深く息を吸ったのも、逸る心を抑える為だ。

 もうすぐ、もうすぐだから。

 背後で扉が開く音がした。反射的にプリシラは立ち上がる。
「出番だよ」
 先ほど受付にいた、プリシラとは幾つも変わらない歳の少年が、ホールへ続く扉を開ける。薄暗い廊下の先に陽の光が溢れていた。血と汗の匂いがより凝縮している廊下を物ともせず、光の扉を迷いもせずにくぐる。プリシラにとっては、夢見た世界であるのだ。

 プリシラが試合会場へ出た瞬間、四方から野太い声い包まれた。

 ―――おいおい、大丈夫かよっ!?
 ―――こんな所にゃもったいねぇぜ!

 殆どが、ひやかしやからかいなどといった下衆な声だった。もうこの手の歓声には慣れている。今のプリシラにはその声のなどは聞こえない。穏やかな瞳でじっと向こうの相手を待つ。

 対峙する先の扉が開くと、一際歓声が高まった。
 現れたのは、低い背、幼さの残る顔立ち。サカ人とひと目で分かる顔つきと服。子供と言っても過言ではない。長旅で日に焼けたその顔は、"対戦相手"を前に青ざめていた。

 ああ、やっと見つけた―――

「ギィさん……」
 頬を朱に染めて、プリシラは目を細める。まるで野原へ遊びに来た令嬢のように、軽やかな足取りで中央へ進む。それとは正反対に、少年剣士―――ギィは震えながら足を繰り出した。まるで囚人、いや囚人そのものだった。彼は既に、プリシラの宝玉のような瞳に囚われている。

 二人が審判の間に立つ頃には、ホールはしんと静まり返っていた。荒れ地のような広いこの場に、青ざめた少年と花のようなかんばせを綻ばせる少女、歴戦の勇者のような顔立ちの審判。闘技場とは言えども異様な光景に、観衆は息を飲んだ。

「スリープなどの補助魔法、及び登録した武器以外の使用は禁止とする。使用した時点で試合は中止、反則者には掛け金の十倍の罰金とする。また、試合放棄の場合は武器を捨てる、または両手を上に揚げる、その旨を叫ぶ事」
 審判は淡々と慣れきった台詞を述べると、身の丈程の棒を二人の間に下ろした。
「始めっ!」
 その声と棒が天高く振り上げられると同時に、野太い歓声が建物全体を包む。プリシラの皮膚にもそれはぴりぴりと振動を与えていた。一方、ギィの小柄な身体は後ろに跳んで間合いを広げていた。

 いけない。魔法使い相手にそんなに間合いを広げたら―――

 相手を危惧しつつも、プリシラの淡く色付く唇はしかと精霊を呼び出す。幾度となく唱えて来た、古代語。
「うわっ」
 ギィのすぐ傍を炎が走った。反射的に避けられた、上着の長い裾が少しだけ焦げた。

 あら、後で繕わなければ―――
 その姿を思い描くと、じわりと胸が熱くなった。まるで彼の妻のようではないか。

 ギィは剣を構えているものの、戦う気がない事は誰の目にもわかった。プリシラが、ずいと一歩近付く。それに合わせるようにギィの身体も一歩下がる。

「な、何で―――」
「あなたが逃げるから」

 震える声に、淡々とした声で答える。およそ一年前、あの「魔の島」での戦いが終りを告げた。故郷へ帰る者、また新たな旅を続ける者、共に戦った仲間達が、それぞれの道を歩んで行った。プリシラは望んだ。愛しい人が、目の前の少年が、自分の手を取ってくれる事を。しかし、それは叶う事はなかった。ギィは何も告げずに旅立ったのだ。

 ギィの剣先は、かたかたと震えている。その姿は、最近この界隈で噂されているサカの剣士のそれとは思えない。一体何怯えているのだろうか。プリシラは首をかしげる。
「わたしが追いかけても、あなたは逃げて行く」
「そ、それは―――ひぃっ!」
 待機させておいた炎の精霊に命令を下す。情けない声をあげて、ギィは飛び跳ねながら服に引火した火を消していた。周囲はやがて怒声から爆笑の渦に変わり、命がけの闘技場は、劇場へと変わってしまった。

「あ、あんたに、ひっ、まだ会う訳にはいかなかっ―――」
 炎は蛇のように地面を這い回り、ギィを執拗に追いかける。それはプリシラの思念を現しているかのようだった。

 エトルリアの女はただ辛抱強く待っているだけではいけない。

 プリシラがエトルリアの貴族社会で教えられた事だった。耳にした当時は心に止まる事はなかったが、今なら痛い程わかる。各地を渡り歩く少年剣士を追いかけても、彼はまた風のように別の土地へ行く。ここで、やっと追いついたのだ。

「おれは……サカ一の剣士に……」

 ギィは死に際の台詞のような言葉を紡いだ。かろうじて剣を構えているものの、それは弱々しいものにしか見えなかった。
「サカ一の剣士になる。だがあんたはエトルリアの貴族。生きる世界が違うんだ!だから―――」
 大股で、プリシラが一歩近付く。ギィは肩をびくりとさせた。思わず剣を落としそうになる。剣は短剣ですらも届く間合いが詰められるが、ギィの足は地面に縛り付けられたようだった。プリシラは魔法など何も使っていない。むしろ、魔力も帯びていない右手を思い切り振り上げた。頬を張る音が、確かに響いた。

 確かに、この娘は今まで魔法を使っていたはずだった。少女の「攻撃」に一同目を疑い、一斉に静まり返る。
「い、今のは今回限り有効とするっ!」
 審判の声に再び歓声が上がった。しかし、違反に近い行為をした本人の耳には入っていなかった。ひたすら、目の前の少年を見据える。

「そう、そんな事で、そんなどうでもいい事で……」

 悲しみ息が詰まりそうだった。自分は決めていたのに。この人と行く道なら、例え苦しい旅の身でも、サカの大地で生きようとも喜んで共にしようと。涙がこぼれた。自然に唇が動く。

「ひっ!」
 ギィは反射的に後ろに飛び退いた。その直後、ギィがいた場所に炎の柱が吹き出した。炎の勢いは今までの比ではなかった。
「殺す気かっ!」
 ここは闘技場。殺し合いの場所であるのだが。
「ギィさんなんて嫌いです!」
 鼻をすすりながらプリシラは叫んだ。直後、幾筋もの炎がギィを取り囲む。数は多いが細い火柱をギィは剣で薙ぐ。彼の動きは、次々に炎の薙いで行くと、次第に鋭敏さを取り戻していた。上空から降り注ぐ炎も、素早い動きで避けている。その逆に、プリシラは先刻までの冷静さは消え失せ、自暴気味に炎をギィに向けていた。ギィは剣で炎を払い除けながらプリシラに近付いて行く。プリシラは、何故だか嬉しくなかった。あれだけ彼の傍を望んでいたのに。

 ギィを取り巻く炎は全て払われ、サカ特有の細い剣先がプリシラの鼻先に突き付けられた。焦げた匂いと煙りが辺りに漂っている。

「だから、聞いてくれよ。続きがあるのに」
 ギィの瞳には怯えの色は消え、真直ぐにプリシラを見ていた。プリシラの胸は再び高鳴った。
「あんたはエトルリアの貴族で、おれはサカ人だ。それは変わんないし、変える気もない。だからさ、せめて、おれの夢を叶えて立派な男になって、堂々とあんたの前に立ちたかったんだ」
「本当ですか?」
「本当だっ!だけど、それを言ったらあんた、何が何でも付いて行くだろ?駆け落ちなんかじゃなくて、ちゃんと、あんたの親にも、エトルリアの貴族たちにも認めさせたかったんだ。サカ人だからあんたと一緒になれないなんて思ってない!」
「ギィさん。嬉しい……」
 プリシラは手で口を覆った。溢れ出る涙を堪える事ができない。ようやく、ようやく望みが叶ったのだ。

「何やってんだ!!」
「あーあ、泣かせちゃって」
 気が付けば観衆は動かぬ二人に罵声を浴びせていた。二人の会話は観客席にまでは聞こえない。急に試合が中断されたようで、しかも相手の娘は攻撃を忘れ涙している。何が起こっているのか分からない分、苛立ちは大きかった。

「お前ら何―――うっ」
 ついに審判も、長い立ち話しに痺れを切らして声をかけた。だが振り向いたプリシラの顔に、歴戦の猛者でもある大男が凍り付く。大男の様子に、プリシラは柔らかい笑みに戻ると、両手を頭の位置に挙げた。

「降参します」
 一呼吸おいて審判は重々しく頷いた。ギィの腕を取り、高々とそれを上げる。
「勝者、ギィ!」
 突然の結着に、観客の咆哮が一斉に上がる。観客の殆どは少年剣士に賭けていた。状況は良くわからないが、とにかく勝負には勝ったのだ。



「……これがお前さんの報酬だ。ちゃんと確認してくれよ」
 憮然とした表情は試合の報告を聞いた時から変わらずにいた。大きな手は、大きく膨らんだ金袋をギィに投げ渡す。まだ子供と言える年齢だが、闘技場や傭兵での実力は裏稼業の界隈にも響き始めている。年齢は関係なく、強い男の報酬は安定している。
 しかし、男の渋面は少年剣士に対してではない。隻眼は、金を数えているギィと、その腕にしがみついている「対戦者」だった少女を交互に見ていた。何がこうなったのか、審判だった大男に尋ねても、男には理解に苦しんだ。最初闘技場にやって来た時の、恐ろしい雰囲気を醸し出していた少女とはまるで違う、年相応の「恋する乙女」がそこにいた。

「確かにもらった」
「ああ。ご苦労さん」
 少年の方も心なしか片頬が引きつっている気もするが、関わらない方が身の為だろう。ぎこちなく歩く少年と、やはりその腕に絡み付いている少女の背中を見送りながら、男は思った。

「親方ぁ、助けて下さい。さっきからお客から苦情がひっきりなしなんすよ」

 小間使いの少年が床の許に飛び込んで来た。良家の令嬢らしき娘の参戦で客は入ったものの、観客の殆どはギィに賭けていた。無理もない。ギィ本人が安定した剣士である上に、対するは小娘である。参加者が多くとも、賭けが偏れば儲けにならないのは自明の理でもあるのだが。それでも、貴族の娘の闘いを観るだけでも賭け金は観戦料として割り切っていた者もいた。しかし、試合も最後は出場者が殆ど棒立ちだった上、突如娘の方が試合放棄を申し出ての終了であったのだ。盛り上がりに欠け、苦情が殺到しているらしい。審判の大男も「痴話喧嘩」だと評していた。

「観戦料を引いた賭け金を返してやんな」

 あの試合の事をいくら考えても答えは出ないだろう。手短に小間使いに言付け、男は煙管を咥える。ふと、男は他の街の闘技場経営仲間の話を思い出した。最近各地の闘技場で滅法強い魔法使いの小娘がいる事を。そして、その娘は対戦者が必ずサカ人か剣士の時に現れる事を。
「まさか、な」
 男は傷だらけの頭を横に振った。恐らくもう来ないであろう。無理に関わる事はしない方が身の為でもある。




「―――なあ。そろそろ離れてくれないか」
「いいじゃありませんか」
 店が並び、人が頻繁に行き交う通りだった。中には二人のような仲睦まじい男女も見受けられたが、ギィには受け入れられない。何度も腕を解こうとしたが、信じられない程の強い力で締め付けられ、離れる事は叶わなかった。諦めて宿に向かうが、何度も方々に冷やかされ、物売りにもよく引っ掛かるので頭が痛い。
「そろそろ陽も暮れますね。食事にしましょうか?」
「うん。だけど、本当にいいのか?今は少し金があるけど、いつ食うに困る日が来てもおかしくないんだぜ?」
「それは承知していると言ったじゃありませんか。本当ですよ。ここまで来たのも自分で路銀を稼いで来ましたし」
「へ?ど、どうやって……」
「あなたと同じ方法で」
 プリシラは見上げてにっこりと笑う。
 確かに、先程の魔法を見れば、流れの魔道士も納得できる。かつて一緒に旅していた時は、衛生兵として戦場にいた。理魔法を使えるようになったとは聞いていたが、正直、ここまでとは思っていなかったのだ。別れた後での上達具合は、彼女の方が上かもしれない。

「さあ、行きましょう。"わたし達"の部屋、とっても眺めがいいんです。きっとギィさんも気に入ると思いますよ」
 わたし達、と言う言葉に、ギィの眉が動いた。
「おれ、自分で宿取ってるし……」
「それでしたら解約してきました。問題ありません」
 腕に絡まる力が余計に強くなった。
「えええっ!?」
 ギィは跳び跳ねんばかりに驚く。
 彼女の余裕ある財布には、彼の安宿の解約料などものともしなかった。むしろ、彼と共にできるのならば安いくらいだ。
 この上なく幸せそうな顔をしている彼女は嬉しいのは確かだ。しかしその有無を言わせぬ言動を見るに、この先二人の行く道は、いやギィにとっては前途多難に思えてならなかった。  
14/02/20 加筆修正   Back