この大地に


 その日は朝から慌ただしい空気に満ちていた。
 城内ではなく、城の外、つまり領民が生活する村からその気配を感じていた。前からこの日に向けての準備を進んでいたようだが、当日となると、こうもせわしないのかと驚くばかりだ。


 彼女も一族の祭祀を取り仕切る身ではあったが、それは全て厳かに行われ、人々が楽しそうに準備をしている様子は新鮮に映っていた。
 一年の労働に区切りをつけたんだ。この日は無礼講だよ。
 先日夫となったばかりの若い領主は彼女にそう言った。その夫は、この日であっても日中は継いだばかりの領主の仕事に追われている。毎晩疲れた顔を隠して笑いかける夫に、ニニアンは胸の痛みが大きくなるばかりだった。かつてのように支えとなりたいが、異種族の政治には手が出せない。

 さらに、どこの馬の骨ともわからぬ娘を侯爵夫人に迎えた事を、フェレに仕える者らは不審に思っているようだった。顔や態度に現さずとも、竜族の勘が、胸中に渦巻く黒い影を伝えていた。
 彼女はもちろん、エリウッドにとってもそれは重々覚悟はしていた。フェレへの帰路、彼はニニアンの手を取り、皆に君の事を認めさせるからと誓った。ニニアンも、フェレの民となる事を誓った。だが、いくらフェレ家の嫡男が強く願っても、出自も知れず、外見もリキア人のそれとは違う小娘が簡単に受け入れられるはずはない。
貴族からは社交辞令の範囲から出ない態度を取られ、身分の低い使用人からは奇異の目で見られる毎日だった。あの戦いで得た心許せる友も、フェレとは遠くにあり、たった一人の弟にいたっては異なる世界へと戻ってしまった。

 
「……顔色が優れないわね」
 朝食の席、ニニアンにそう話しかけたのはエレノアだった。夫はと言うと、視察を理由に、食後の茶も楽しむ間もなく席を立った。
 慣れぬ異界の気は、ニニアンの身体をゆるりと蝕んでいるのは確かだった。ここに長くいては、竜の命は早く燃え尽きるのも知っている。それでも今はまだ生命も保ててはいるのだが。
「……いいえ、大丈夫です……」
「そう?」
 だが、先に心に疲れが見え始めているようだ。エレノアはニニアンを前に首をかしげている。カップから立ち上る湯気を、溜息で揺らした。
「遠くから嫁いで来た妻を、早くも放っておくのね。我が侯爵さまは」
 夫の母は、フェレでの数少ない理解者だった。先代侯爵とも縁があり、息子が深く愛する娘だからと、この夫人は快く迎え入れた。出自などを深く尋ねる事もしない。
「そんな……エリウッド様は、お忙しい身で」
「わたしが嫁いできたばかりの頃は、あの方はそんな事なさらなかったわ」
 あの方、と聞いてニニアンはまつ毛を伏せる。
「ああ、ごめんなさい。そんなつもりで言った訳ではないの」
 亡きエルバートと縁もあるからこそ、エレノアは軽い口調で言葉にしたのだが、ニニアンのそんな様子に夫人は慌ててカップから口を離した。ニニアンがエルバートの死の責任を感じているのを思い出したからだ。
「本当に、気になさらないで。……それに、今日は収穫祭よ。あなたも楽しんでいらっしゃいな」
 自分の席から立ち上がり、ニニアンの傍に寄り添う。
 そこまで気を遣ってくれる義母に、却って申し訳なく感じてしまう。ニニアンは精一杯エレノアに微笑み、うなずいた。


 フェレへ来てからというもの、エリウッドは領主としての仕事を覚えるのに追われているが、ニニアンも侯爵夫人の教養を身に着ける毎日はせわしなかった。ひっきりなしに教育係が部屋に出入りし、異文化の作法を教え込まれる。リンディスがいつだったか窮屈で嫌になるとのぼやいていたが、それを思い出しては頷いてしまう。
 だが、食事の間から自室へ戻ると、侍女が今日のお稽古は全てお休みとなりました、と告げた。恐らく、エレノアの計らいだろう。

 夫の母に感謝しつつも、暇を持て余す結果となった。エリウッドは公務を休めるはずもなく、気の置けない友もこの城にはいない。
 厚手のケープを羽織ると、ふらりと城門までの長い道をひとり歩いた。
 門を出てすぐ先の広場に、領民が篝火の台を組んでいた。女たちは力仕事をする男たちの為に食事を作り、その周りで子供たちが犬を追っている。
「あ、およめさんだ」
 ニニアンの姿に気付いた子供が、小さな人差し指を向けた。"おめよめさん"と呼んだのは、ニニアンが最後に領民の前に出たのが、婚礼の時だったからだ。幼い目には、貴族の婚礼衣装がさぞかし鮮烈に映ったのだろう。
 子供の声に他の領民も顔を上げ、一斉に若い領主夫人に視線を向ける。恥ずかしさで、下を向いてしまう。つま先にあった視界に、小さなつま先がいくつも混ざった。
「遊ぼうよ、およめさん」
「向こうに鳥がいっぱいいるんだよ!」
 小さな手に引かれる。後ろで大人の諌める声がしたが、ニニアンが戸惑う暇さえ子供たちは与えてくれない。
 思えば、こんな小さな子はニルスしか知らない。穂を咥えて走る犬を追う少年の背中と弟の背中を重ね、胸がずきりとする。
 刈り取りの終えたばかりの畑には、おこぼれに与かろうとする小鳥が集まっていた。懸命に地面を啄ばむ小鳥を足音で脅かせば、わっとはばたいて行く。その数はあまりにも多く、ニニアンたちに暗い影を落とすほどだ。
「ね、すごいでしょ?」
「え、ええ……」
 圧倒されていると、後ろで刈り取りをしていた男が叱る声がする。今度は子供たちと顔を見合わせて笑った。
「あそこでね、おっきな火をたくんだよ」
 少女が指した先には、巨大な篝火の為に組まれた丸太だった。
「およめさんも」
「ニニアンよ」
「ニニアンも、しゅうかくさいに行くよね?」
 ―――あなたも、楽しんでいらっしゃい
 ―――君も、楽しむといいよ
 ふと、夫と義母の言葉が脳裏に浮かぶ。それらを残らせたまま笑顔で頷いていた。
「そうだ!おもしろいもの見せてあげる!」
 弾けたように駆け出した少女は、近くの小さな小屋へ消えたかと思うと、すぐに何かを抱えて戻ってきた。
「あっ、ミリサ、だめじゃないか」
 悪戯小僧も、妹の持つ包みには眉を寄せた。よほど彼らにとって大切な物らしい。
「だって、神父さまがもうひける人いないって言ってたもん」
 少女の言葉では、どうやらそれは楽器のようだった。
「見せてくれるかしら」
 容易に持ち出してはいけない物らしいが、楽器と知ってしまえば好奇心が勝ってしまう。古いがしっかりした綿の袋から出た桂の顔と丸い胴の懐かしき姿に、熱い息が漏れた。
「月琴」
 ぽつりと呟いた声は、小さな友に届いたらしく、「そうだよ!」と元気な答えが返ってきた。
 ニニアンが古き日に奏でていた物と良く似ている。ニルスは愛用の笛を携えたが、ニニアンの愛用の楽器はかさ張ると置いて行った。そのひとつに、月琴があった。ニニアンの楽器があればもう少しお金になったかもしれないよ。との呟きを旅の最初によく聞いたものだ。
 誰に了承を得るでもなく、竿を左の指で挟み、右の腕で胴を抱える。
「ニニアン、弾けるの?」
 月琴を構えると、子供たちは瞳をきらきらさせた。
「ええ、ちょっと昔、ね」
 これを弾いていた時が、もう遥か彼方のように思えた。だが、長く親しんできた為か身体はしっかりと覚えているらしい。けば立つ弦を恐る恐る弾く。きん、と秋の空に一度だけ響いた。
 切れてしまわないかと危惧していた古い弦は、思ったより強度を保てていた。張りを確信すると、ニニアンの両手の指は弦の上を踊る。今まで大人が興味本位につま弾いていただけだった。月琴の本来の音色に、子供たちは口を開けて聞き入る。周りには作業の手を止めた大人まで集まって来たが、その頃には指を止めるどころか、声も音に乗せていた。遠き昔、歌は父と母、双方から教わった。そのひとつの故郷の歌。極寒の高地に咲く白い花を知っているのは竜だけなのだと。

 歌い切り、一呼吸置くと、ニニアンは拍手に包まれた。
 歌っている最中は人の目も気にしないのだが、身体の熱が冷めると急にいつもの引っ込み思案な侯爵夫人に戻る。視線をうろつかせていると、人だかりの向こうに夫の姿を見た。エリウッドも領民をかきわけて妻の許へ行くのをためらっているようで、困ったような優しい笑みを向けていた。
「エリウッド、さま」
「ニニアン。素晴らしかったよ」
 このやり取りで、新侯爵が領地へ降りて来ていたと知った民が、二人から一歩下がる。エリウッドは強張る領民に気にしないで、と手を上げた。
「勝手にお城を出て申し訳ありません」
「いや、いいんだ。母上に叱られてしまってね。君を探していたんだ。済まなかったね、城では退屈な思いをさせてしまったようだ」
「いえ……」
 ニニアンは少し離れてしまった友へ歩み寄り、手にしていた月琴を渡した。
「ありがとう。とても良い物だから、大切にしてね」
「うん!」
「あの、奥様……これは」
 少女の後ろで、村長らしき老人が口を開いた。
「これはわしの曾爺さんが旅の楽師から宿代に貰った物でして。誰も弾ける者がおらんのです。どうか、古い物ですが奥様がお納めくだされ」
「でも……」
「ありがたく貰っておくといい。ニニアン」
 助け舟を出すも、まだ戸惑うニニアンだったが、エリウッドが何かを思いついたように明るい声を上げた。
「そうだ。今日の祭りでもう一度歌ってくれないか」
 領民たちも領主の提案に呼応し始めた。そこまで言われては否とはもう答えられない。頬を上気させて頷くと、エリウッドも満足そうに頷き返した。
「さあ、まだ準備は終わってないかな。ぼくも手伝うよ」
 エリウッドは勢い良く領民の方を向き、マントを脱ぐ。滅相もない、とうろたえる男たちをよそに、若い領主は刈り取りを終えたばかりの黄金の山へと足を向けた。


 ニニアンも女たちに混ざり、祭りの準備を手伝っていると、太陽が西の山間に沈んでいくのが見えた。
 教会の鐘を合図に広場の周囲の藁に火がつけられ、中央の一番大きな篝火が轟音を立てて燃え始めた。太鼓や小さな鐘が鳴り響き、早速若者たちが踊り始める。すでに酒を飲んでいた者もいたらしく、照らされた赤い顔は、炎と気恥ずかしさだけではないようだ。だが、皆この日の為に畑を耕してきたと言っているような顔をしていた。
「エリウッドさま、こんなに汚れて」
 力仕事に精を出していたエリウッドの服は汗の跡や土埃に染まっていた。炎に照らされた自分の服を見て、エリウッドは高らかに笑うだけだった。
「久しぶりに身体を動かした気がするよ。それより、どうだい?」
 赤い光を受けた手が差し出される。白い手袋に覆われた手しか見ていないのだと、ニニアンは思い返した。そっと夫の手に自分の手を乗せる。踊り子として各地を転々としてきたが、誰かと手を携えて踊るのは数えるほどしかない。
 若き領主夫婦が加わると、囃子の音が一層高まった。
 フェレの城で常に感じていた疎外感や遠慮は火にくべて、他の若者たちのように力強いステップを踏む。
「良かった」
 ひとしきり踊っても、まだ鳴りやまぬ太鼓の音を背に、エリウッドは安心したように笑った。その言葉と笑みが理解できぬとニニアンは不思議そうにまばたきする。
「君が後悔しているんじゃないか。どこかでそう思っていたんだ」
「後悔だなんて……!」
 背後の篝火がごうっと音を立てて暗い空に舞った。
 その炎の明かりを受けながら、エリウッドはニニアンに向き直った。
「君の身体も、心もこの地には合わないんじゃないか。ずっとそう考えてたんだ……でも」
 薄水色の髪を何度も揺れた。エリウッドの熱の籠った手がその髪に置かれた。
「済まなかったね。そんな事を考えていた方がかえって失礼だった」
「ええ、そうです。エリウッド様。わたしは決めたのですから。ここへ残る事を」
「そうだった。ニルスとも約束したのに。馬鹿だった」
 そう言って、エリウッドは再び手を差し出した。
「もう、そのような事は仰らないでください。エリウッド様」
 重ねた手の向こうで太鼓の音に合わせるように火の粉が舞っていた。
 この人がいるから、弱い命も轟々と燃やし続けられるのだ。少しの間、それが弱まっていたのは事実だったが。
「ああ。誓うよ」
 その言葉が耳に届くと、ニニアンは汚れた服に頬を当てた。若い男女から、若者に中てられて青春を思い出した老年の男女まで、フェレの小さな村の者たちは挙って炎に照らされてはしゃぎ回る。若き夫婦が、領主と言えども寄り添っている姿は自然にその中に溶け込んでいた。もう誰も特別にはやし立てる者はいない。

 
10/10/05   Back