長い影





 どこまでも続く青空に、山羊の短い啼声が響く。時折風が吹き、辺りの草を揺らす以外は、静かなもので、遠くでのんびりと馬を進ませていたセインの耳にも、家畜の声は届いた。

「ああ、美しき歌声から離れて幾星霜。耳にするは風と畜生の声のみ」
 観衆は当然だが、大地と空しかない。そうと理解しつつも、セインは手に胸を当て、空を仰いで吟じた。馬上であるのに器用にも身体は見事な均衡を保っている。これも、長年の馬術訓練の賜物であろうか。と、思えば彼は眼前に家畜の群れを見かけると、弾けたように身を起して手綱を握り直す。

「おーい」
 山羊の啼き声と同じく、友を呼ぶ声もよく響く。数はそう多くはないが、山羊の群れに意識を向けていたケントもすぐに顔を上げる。草原では、人の声が珍しいほどだ。それに、届いた声は余りにも懐かしいものだった。
「セイン?セインなのか?」
 きっちりと結ばれた口が急に綻ぶのを見て、セインは目を剥いたほどだ。かつてなら、顔を合わせた途端に気難しい顔がより険しくなっていたと言うのに。何とも言えない澱を肚に抱えながら、セインは片手を挙げる。

「久しぶりだな、よくここが分かったな」
「クトラの集落に寄ったら、この辺りだろうって言われてね」
 馬から下り、辺りを見渡す。一面、山羊が思い思いに草を食んでいた。"彼ら"の財なのだろう。リキア出身のセインには、この家畜の数が、どれくらいの冨貴を示しているかは分からない。しかし、友の顔を見る限りでは、一変した生活環境の疲労や栄養不足と言った影は見られなかった。二人で暮らしていける分には財はあるのだろう。いや、もう二人ではないかもしれないが。

「リンディス様はお元気か?」
「ああ」
 セインもケントに倣い、羊を追い回し始めた。ケントはこのまま、羊の群れを己の住まいへと移動させようとする。その道中、セインはキアランを出てからの旅の話を友に語る。ケントはセインの脚色された話を懐かしそうに頷いていた。自分から語っておきながら、肩すかしを食らった気分だった。ケントの身に纏うサカの民族服がそうさせているのか。彼はもうキアランの騎士ではなく、完全に一人の遊牧民の男となっていたからだろうか。
 キアランがオスティアに統合されてのち、セインも友人同様、祖国を出た。ゆえに、ケントが騎士を辞して草原へ旅立った事を責める資格は彼にはない。

 ケントは羊たちの群れと、空を交互に見遣った。
 家畜は大方腹を満たしたようだ。ゲルに戻る頃には、日が暮れるだろうと告げる。
「折角ここまで来たんだ。泊って行けばいいさ」
「いいのかい?」
「リンディス様も喜ばれるだろう」
 平然とした言葉にセインは反射的に噴き出した。教本からそのまま出て来たような騎士だった。
「何だ汚い」
「いやさ、お前サカに来て何年経ったんだよ」
「二年―――になるか?」
「ああ、そうだね。二年か、二年」
 長いのか短いのか。それは各々過ごした者にしか分からない。少なくとも、自由騎士―――傭兵のようなものなのだが―――として各地を回った二年は、セインにとって奔走する馬の足のようだった。リキアへ戻った時に再開した旧知の騎士の見目がすっかり変った事に随分驚いたものだ。

「アートン、覚えているか」
「ああ、もちろんだ。同期じゃないか」
「たった二年ですっかり変っちまっててなあ」
「そんなに大変なのか?」
「いいや。別にキアラン騎士が冷遇されているって訳じゃないぜ。あいつもオスティア侯にゃ感謝してるって言ってたし」
 キアランの正当な後継者が故郷へ帰った後は、キアラン侯爵の遺言通りに、領地はリキア盟主の手に委ねられた。しかし、ヘクトルはキアランの統治をリキア同盟の監査役を派遣したのみで、一切をキアランの臣下に託し、彼自身は指ひとつ出していない。キアラン騎士団へも同様だった。
「老けたんだがな、公務の苦労が祟ったんじゃなくて、むしろ内側。家庭の苦労で老けたみたいだぜ」
 セインは再び含みのある目をケントに向ける。
「あいつん所にも子供が生まれるらしいぜ。何せ格式高い家の跡取りだ。おまけに嫁さんと母親が気が強いって嘆いてたしな」
「そうか。だが、女が強い家は良い家庭だと聞くが」
「"お前んところ"もかい?」
 ケントはセインの問いに答えずにひらりと馬に飛び乗る。鞍もすっかりサカ族の物になっていた。馬に跨った姿は相変わらず背筋が伸び、堂々としていた。再び鎧を纏い、槍を携えたら立派な騎士となるだろう。
「アートンの奴、お前の事心底驚いていたよ。ハウゼン様亡き後のキアラン騎士団長はお前だって信じて疑わなかったから余計にな」
 ケントは苦笑いを浮かべた。キアランがオスティアと統合されたが、残された者の中で大きな混乱や不平はなかったと聞いていた。領地の治世者も騎士団も全て据え置く。ヘクトルのこの決定も、ケントをサカへと背中を押した手の一つでもある。

 ケントの言葉通りに、空は茜色が差し影が長く伸びるようになった。赤く染まった羊の群れが、影を後に引かせながら向かう先に数戸のゲルが見える。どうやらあれが二人の家らしい。
 ゲルから人影が出て来た。羊の鳴き声で気付いたようだ。草原の色の髪が長く揺れ、セインはすぐにリンディスだと気付いた。リンは群れの向こうの二騎の馬を見て、ぱっと弾けたように笑顔になった。
「セインじゃない!」
「お久しぶりです。リンディス様」
 セインはすかさず下馬し、膝を折った。もう、とリンは咎める声を出しながらも、顔は笑みのままだ。既婚者の証か、リンの姿は、キアランに居た頃よりも裾が長い服を纏ってはあるが、それ以外はセインの記憶とさほど変わりはない。僅かに期待していたのだが、どうも新しい家族は増えていないようだ。
「どう?自由騎士は」
「は。想像以上に性に合っていたようで」
「セインらしいわ。沢山の国を回って来たのでしょうね。ねえ、自由騎士の話をじっくり聞かせてくれないかしら」
「それは勿論ですとも。ですが―――」
 セインは大仰なまでに胸に手を当て頭を下げる。そして、丁度羊を柵に入れ終ったケントに向き直った。
「その前に、友と久方の語らいの時間のお許しを」
「え?ええ―――それは勿論よ」
 リンは二つ返事で答える。ありがたき幸せ、とセインはより深く頭を下げる。丁度良くケントが家畜を柵の中に入れて戻って来たところだ。
「ケント、槍を取れ」
 先刻までの明るい調子ががらりと変わり、ケントは目を丸くした。
「急に何を」
「久しぶりに逢ったんだ。ちょっと付き合え。槍は持ってるよな」
 ああ、とケントは怪訝そうに頷いて踵を返す。ケントの馬は、鞍こそ遊牧民の物だが、馬そのものは騎士だった頃の愛馬だった。槍を携えても驚きはしないだろう。リンに尋ねれば、狩猟も弓ではなく槍を使っていると言う。
「セイン、いきなりどうしたの?」
「騎士の挨拶みたいなものですよ。怪我をするような事はありませんのでご心配なく」
 セインは肩をすくめて見せた。が、すぐに戻って来た友に驚きの視線を向ける。ケントは律義な性分なのは良く知っている。だが、馴染みの鎧を着込んでやって戻って来たのは思ってもみなかった。さすがに鎧は処分したかと思ったからだ。サカの民は重い装備を嫌うと聞いている。こうなれば、サカの一族ではなく、完全にリキアの騎士の面持ちだ。懐かしいねえ、と目を細めずにはいられない。
 家畜を驚かせまいと、二騎はゲルから離れた平原へと馬を進める。真っ赤な陽が空に浮かんでいた。沈むのは時間の問題だろう。
「じゃあ、手短に行くとしましょうか」
 空を仰ぎながら独りごち、馬首をケントへと向ける。訓練用の槍は当然持ち合わせておらず、正真正銘実戦用の、殺傷力の強い槍だ。無論危害を加えるつもりはないのだが。
「行くぞ」
 ケントは盾を構え、セインに向かって馬の腹を蹴る。騎士の手本のような構えだった。その姿を見てセインは口の端を上げずにいられない。真正面から迎え打つように、彼も盾を目前に構えた。二本の槍が激しくぶつかり合うさまは、長い影が消え、空に星が浮かぶまで続いた。
 

14/05/05   Back