あの風になれ

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「エルク、お客さまよ」
 リグレ公爵夫人に呼ばれ、エルクはプリシラに本を貸していた事を思い出した。と、同時にその読破の早さに驚きを隠せずにいた。貸した本はエルクが師から譲り受けた、古代語に関する論文と、理魔法の研究の歴史や解釈を講じた本がいくつかだった。これらだけではない。あの「長旅」から戻った後、プリシラは頻繁にエルクから魔道の教えを請いており、彼女の進歩は魔道の申し子とさえ思う少女には及ばないが、それでもエルクが焦りを感じる程であった。だが、エルクはカルレオン伯爵令嬢がこうも魔道に打ち込むのには不安を感じていた。またひっそりと屋敷を抜け出して、今もどこかの土地で剣を振るっているであろう少年を追いかけて行くのではないかと。
「お待たせしました。プリシラ様」
 客間には案の定赤毛の令嬢がいた。エルクの姿を視界に捕らえると、ゆったりとした長椅子から腰を上げて貴族の令嬢らしい優雅な動作で礼をする。出会った頃の、思いつめているような悲愴感は消え去ったが、可憐な面立ちに差す憂いの影は相変わらずだった。いや、再びこうなったと言った方が正しいのかもしれない。

「突然すみません。お借りしていた本を早く返したかったので」
 エルクの予想通り、テーブルの上には分厚い本が積まれていた。
「リグレ公爵夫人から聞きました。魔道軍将になられるのが本決まりになりそうだとか」
「まだ正式には」
 それは今エルクが一番頭を悩ませている原因だった。ヴァロール島での旅から帰るなり、エルクの師であるリグレ公爵パントは魔道軍将の座を退くと宣言したのである。まだ若く、能力も国王からの信頼も篤い彼の突然の辞職に宮廷中がざわめいた。だが、その後任にと己の弟子であるエルクを推した故に、そのほとんどが非難の色に変わって行った。エルク自身、魔道軍将など役者不足だと思っているのだが、どうも師は簡単に断らせてはくれないようだった。現在パントはエルクの就任の為に王宮を奔走している。辞任表明から一年経ったが、その実現にはまだ遠いようだった。
「当分ぼくもパント様に付いて王宮に入り浸りになると思います。これからは、ぼくがいなくてもルイーズ様に仰って頂ければぼくの部屋に入っても構いません。お好きな本を持って行って下さい」
「そこまでして頂いて……ありがとうございます。エルク」
「ただ、一つだけお聞かせ願えませんか?」
「え?ええ……」
 エルクは胸に溜めていたものを吐き出すように言った。二人の間に白い湯気が漂う。
「なぜこれほどまでに魔道を?いえ、ぼくは学問を修めようとする姿勢は感服しています。ですが、これはお怒りを承知で申し上げますが……プリシラ様は、行かれるのですか?あのサカの―――」

 プリシラの緑の瞳に見据えられ、エルクは最後まで言葉を紡ぐ事はできなかった。何も読み取れない、何も感じられない表情。旅の途中で見せていたあの明るさは、エトルリアでは見る事はなかった。
「あの旅で、理魔法に興味を持っただけです。別にギィさんがどうとかは……ご迷惑なのですか?」
「いっ、いえ、そんな訳では。差し出がましい言をどうかお許し下さい」
 深々と頭を下げるエルクにプリシラは首を振る。プリシラは借りていた本の続刊を借りると、早々と客間をを後にした。
「これはきっと何かあるわね」
 考え事をしていたエルクの頭に、師の夫人の声が降って来た。
「ル、ルイーズ様っ」
 びくり、とエルクは椅子から慌てて立ち上がる。茶器を下げに来たのか、ルイーズの手には盆があった。
「もしかしたら本当にギィ君を追いかけて行くかもしれないわね」

「まさか。一度ならずニ度も伯爵家から抜け出すなんて」

 そう吐き捨てるが、確信できない。だが、プリシラが嘘をつくとも思えなかった。
「手紙?」
 脳裏にサカの少年の姿が浮かぶが、正直、手紙を書くような性格には見えない。プリシラに想いを寄せる貴族の子弟なのだろうかとも思い付くが、それは却ってカルレオン伯爵夫人の望むところではないのか。
「それにね、夫人が心配していたのよ。またどこかへ行ってしまうのではないかって」
 ルイーズの声を背に、エルクは明るい陽が差す中庭を見た。客間の壁に大きく設けられた窓から、カルレオン伯爵家の紋章を飾った馬車が見えていた。
「あ、そうそう。カルレオンと言えばね、先程ねカルレオン家の方からお手紙を預かったの」
「はい」
「それがね―――」


 リグレ家の執事が重厚な扉を引くと、数歩も歩かぬうちにカルレオン家の御者がプリシラを待っていた。恭しく頭を下げる老人に軽く頷くと、真っ赤な絨毯と絹の背もたれでできた狭い宮殿が迎えている。いつからだろう。この感触に何も感じなくなったのは。馬の鞍に乗った方がずっとましと思えてしまう。一人、手綱を握りどこまでも駆けて行けたら。
 広場から少し馬車を走らせ、四つ角を曲がった先にエトルリアでも有数の名家であるカルレオン伯爵家の屋敷はあった。リグレ公爵邸までは、歩いて行ける距離。だが、貴族の令嬢、いや、プリシラにはそれは許されない。
 門を守る衛兵、出迎える執事、頭を下げる使用人に囲まれて歩く廊下。何不自由なく暮らしていた家が、これ程までに窮屈なものだったとは。
「お帰りなさい、プリシラ」
 満面の笑みを浮かべる母に、プリシラも合わせる。日に日にこの心苦しさは増していくものの、それでも両親だけには心の内を知られたくなかった。
「お母様。ただいま戻りました」
 一年前の、兄を探す旅へは、置き手紙だけを残して行った。本来なら、勘当されも仕方のないはずなのに。厳罰を覚悟で戻った先には、咎めるどころか、帰還を涙して喜ぶ両親がいた。
 しかし、それ以来プリシラの身体には見えない鎖が絡み付いている。カルレオン伯爵夫婦は、娘を一人にさせる事を決して許さなかった。どこへ行くにも、必ず伯爵家の者が付いて回る。
「リグレ公爵夫人はお元気でしたかしら?それと、エルク様も」
「ええ。お二人ともお元気そうにしてらしたわ」
「そう。エルク様の魔道軍将の件、本決まりなんですって?」
「まだ宮廷の方々の意見が一致していないようなんですって」
 この所の母の関心は、エルクの魔道軍将就任についてだった。リグレ家の屋敷から帰って来る度に、エルクの様子を事細かに聞いてくるのだ。婦人たちが集まる茶会や夜会などでもエルクの話は持ち切りらしい。若い現魔道軍将よりもさらに若い魔道軍将候補は、婦人達の注目の的だった。惜しむらくは、社交の場に一度も出席していない事だとか。
「そうそう、クレメンティ子爵夫人からお茶会の招待を受けているの。夫人がぜひあなたもって。ご一緒なさらない?」
 そして、母親のもう一つの関心事。またか、とプリシラは内心思う。母だけではなく、父も頻繁に茶会や晩餐会へ誘っていた。去年までは控えめなプリシラの性格を考慮して、王族が出席するような大きな席でしか同席させる事はなかった。それが、今では小さな交流会でもプリシラを連れて行きたがる。そのほとんどが若い貴族の子弟がいる、もしくは親戚にそのような人物がいる場。父母の考えなど手に取るようにわかった。強引に縁談を決めないだけ、娘への配慮があるのだが。
「はい。ご一緒させていただきます。お母様」
 それでも、母の言われるままにしないといけないのだ。もう父母を悲しませる事はしたくはない。その思いが、煮え切らない世界を作り出しているのだと知っていても。

 自室に戻ると胡桃材のテーブルの上に白い封筒が置かれていた。弾かれたように駆け出してそれを手に取る。と同時に封を切られていない状態に、改めて父母の優しさを思う。本来なら名も書かれていない、出自もわからない怪しげな手紙などすんなりと一人娘の元へ届くはずはないのに。
 プリシラは象牙のナイフで封を開けると、封筒同様の真白い便箋を取り出した。手紙が定期的に届くようになってから変わらない封筒と便箋。そして簡素な文。貴族の子弟からたまに届く仰々しいあいさつ文などそれにはなかった。簡潔に書かれていた近況。プリシラの顔が自然と綻ぶ。元気でやっているようだった。残念なのは、旅の身であるために返事が書けない事だった。
 しかし、プリシラが遠い土地にいる手紙の主に思いを馳せる事も長くは続かなかった。侍女たちが茶会の支度をしに部屋へ入って来たからだ。
 普段遣いの軽装が脱がされると、プリシラの胴を覆うコルセットはよりきつく締め直される。息苦しさが物理的なものとなり、長年の経験でも慣れる事はなかった。絹のストッキングに鰐口のストッキング吊り。下穿きの短いスカートの上にパニエが巻かれると、下半身が床に引っ張られる感覚がする。
「お嬢様。奥様が今日はこれをお召しになって欲しいと」

 侍女の一人が持って来たのは、首元の萌木色が足元へ向かって濃い緑になっているドレスだった。あくまで「茶会用」であるので、フリルやリボンといった装飾も控えめで、首や胸元、腕も覆われている。プリシラは二週間前に仕立て屋が寸法を測りに来たのを思い出した。頼みもしない新しいドレスはこれで何着目だろう。すでにプリシラのワードローブは埋め尽されていた。
 すでに作られたものを断る事などできはしない。プリシラはいつも通り無言でそれに包まれる事になる。アクレイアで流行の白粉と紅粉をはたかれて、紅で唇が彩られる。
「お嬢様。素敵ですわ」
 侍女達の溜め息に近い言葉は、お世辞ではなかった。こんなにも美しく、そして貴族特有の高慢さがない。プリシラは、カルレオン家、使用人に至るまで自慢の令嬢であった。
 しかし、着飾った自分を誇らしいとはプリシラは思わない。締め付けるようなコルセットもドレスも必要なかったあの旅に戻れたら。あの人がそばにいた時はどんなに心が軽かったか。思い出すだけで、今の生活が苦しく感じてしまうのだ。


 クレメンティ子爵夫人とカルレオン伯爵夫人は、別の男爵夫人邸のサロンで知り合った仲だった。常日頃より、令嬢の同席を求めていたクレメンティ夫人の希望が、この日ようやく叶えられた形となる。
 広々としたホールで談笑する紳士淑女達。所々に置かれた丸テーブルの上には、甘い焼き菓子の他にも晩餐会かと見まごうばかりの料理、酒まであった。これでその日の夜も酒宴や夜会にも出向く者もいるのだ。プリシラは誰かと交流をするとでもなく、紅茶のカップを少し傾けただけでそれをテーブルに置いた。
 カルレオン伯爵夫人は他の夫人達と楽しそうに話している。母も以前は他の貴婦人達のようにサロンや夜会などの社交的な場を飛び回るような性格ではなかった。それが、プリシラが戻って来てから、まるで何かに取り憑かれたように貴族社会に馴染もうと必死になっていた。父母の期待には添えたいが、貴族の世界に馴染む事だけはできずにいた。期待に添えない分だけ、心も重くなる。
  「あなた。カルレオン家のプリシラ様でしょう?」
 顔を上げると、二人の女性がいた。貴族の女性らしく、二人とも髪を高く上げ、流行りの銀の髪留めを着けていた。
「はい。初めまして。どうぞよろしくお願い致します」
 二人ともプリシラよりも少し年上に見える。二人は貴族の女性らしい優雅な身のこなしで礼をすると、口々に自分の名を名乗る。両名とも、家名は知っていた。彼女らは名家の子弟の夫人であったのだ。ただ、夫は嫡男でもなく、国の要職にも就いてはいないらしく、自己紹介のついでに愚痴をこぼしていた。
「プリシラ様、以後お見知りおきを。いずれわたくしのサロンにもご出席頂ければと思いまして」
「こちらこそ。光栄ですわ」
 社交辞令なのはお互い承知であった。それから一言二言言葉を交わして二人は去る。もとより、サロンという場所で交わされる会話は、他の貴族の噂話がほとんどであった。人の悪口に相槌が打てる程、プリシラには興味が持てない。だから毎回、プリシラはこういった席ではぼんやりと紅茶を啜り、時の流れを待っている。だが、二人の夫人が去り際に囁き合っていた言葉に思わずその背中を凝視してしまった。耳を疑ってしまった。幻聴かと願った程に。
「ああ、これで後一押しすれば我が家も宮廷に出入りできるようになるかも」
「そうね。なんせ、未来の『魔道軍将夫人』ですもの」


 馬鹿な。
 エルクは心の中で吐き捨てた。ルイーズから受け取った手紙を握り潰さなかっただけまだ理性はあったが。エルクはもう一度大きく深呼吸して、文面をなぞる。蔦模様が施された便箋の下方には、カルレオン家当主の署名が確かにあった。
「どうしたものかしらねぇ」
 エルクの心情とは違い、ルイーズの口調は穏やかなものだった。
「パント様はこの事は?」
「ご存じでしたら、ちゃんとエルクには言うはずよ」
 エトルリアの貴族社会では、本人には全く伝えずに縁談を親同士で進める事も珍しくはない。だが、パントは家の為だとかそういう理由で勝手に縁談を決めるような人物ではない事はエルクは知っている。第一、エルクはリグレ家の者ではない。
「ルイーズ様、馬をお借りします。あと、この手紙も」
 エルクは手紙を封筒に戻すと、アクレイアの魔道軍将公邸へ馬を飛ばした。
 魔道軍将パントは王宮とエトルリア中の駐屯地を駆け巡る日々であった。エルクは公邸にいる秘書官に居場所を聞こうと思っていたが、運良く公邸の執務室にいるらしく思ったよりも早く師に会う事ができた。
「エルクじゃないか。どうしたんだい?顔色が悪いよ」
 あいさつもそこそこに、応接間にゆったりと座ったパントに、身を乗り出すようにしてエルクは手紙を突き出した。
「パント様、カルレオン伯から何か伺っていませんか?」
 「カルレオン伯?」とパントは怪訝な顔で手紙を開いた。エルクの師はしばらく考え込むような仕種をすると、傍に控えていた秘書官に茶を出すように言った。
「率直に言えばね、王宮では噂で持ち切りなんだよ。お前とカルレオン伯爵令嬢の事が」
 エルクは勧められた紅茶のカップを止めて、師の顔を仰いだ。
 自分はリグレ家の者ではないと思ってはいるが、事実上養子のような存在である。本来なら宮廷や社交界で然るべき待遇を受けてもおかしくはないのだが、それはエルクの望むものではない。エルクはただ、パントから魔道の教えを受ければそれで満足だった。そんなエルクは、当然ながら貴族社会の醜聞や風潮などには興味があるはずもなく、魔道の教えを請う貴族の令嬢に何の疑いもなく会っていた。貴族の世界に半身を入れているのに無頓着すぎたのだ。伯爵令嬢が公爵家の「弟子」の元へ通っている事など、噂の格好の餌食であったのに。
「迂闊でした……」
 湯気は汗のようにエルクの顔にまとわりつく。
「嘘から出た誠、なんて言葉があるしね。いっそ本当に結婚してしまえばどうだい?」
 がたん、と音を立ててエルクは立ち上がった。パントは慌てる様子もなく、「冗談だよ」と穏やかにエルクを座るように促す。
「プリシラ嬢は影で『未来の魔道軍将夫人』なんて呼ばれいるみたいだし。この文面から察するにカルレオン伯爵夫妻はかなり乗り気だろうね。プリシラ嬢にもそろそろこの話をご両親から直接言われるんじゃないのかな。私としては本人達の意志を尊重すると答えておくよ。『リグレ公爵』としてはね」
 目の前には、「楽しそうな事が見つかった」という顔をした師がいた。
「夫人を持つ事も結構だが、私としては魔道軍将の方を実現させたいね。あぁ、早く楽がしたいよ」
「パント様、公務中に失礼しました。ぼくはこれで」
 最後の言は聞き流して、エルクは執務室を後にした。
 冗談じゃない。自分がプリシラと結婚など。初めは師の紹介であったが、雇い主と雇われの護衛だったのだ。それに、プリシラはサカの剣士を今でも想っているのは確かだ。そして、エルク自身にも、一人立ちできた暁には迎えに行きたい存在がいた。相手は待っていてくれるどころか、想いも伝えてはいないのだが。
 何としてでもこの誤解を解かねば。自ら社交の場に出て誤解だと言い回るか。いや、余計に滑稽だ。では、カルレオン伯爵の元へ直接出向くか。
「そうだ―――」

 エルクの中で、何かが弾け飛んだ気がした。その衝動からか、リグレ邸へ走らせていた馬の首を、パントのいる魔道軍将公邸へと再び向けた。
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