あなたと見る世界



 冷風がフィンの顔を打つ。空は思ったよりもずっと寒い。それが最初の感想だった。高さも然る事ながら、この気温は堪らない。体の奥底から凍ってしまいそうだった。
おまけに、体の均衡を上手く保てず、落下すれば命はないと思うと―――馬も馬で危険なのだが―――震えてしまう。改めて竜騎士や天馬騎士の胆力を思い知った。

 しばし時が経つと、この体勢に改めて恥ずかしさと申し訳なさが産まれて来た。主の身体に、己の身を預けている状態。年若い姫に対して、その家に仕える騎士がこのざまだ。いくら竜に乗るのが初めてだとて。

 ―――キュアン様、エスリン様。誠に申し訳ありません。

 主君にいくら詫びても足らぬであろう。惜しまなく愛情を注いで来た姫君に、騎士の身で狼藉を働くとは。だが、吹き荒ぶ風と不安定な足元を前に、大の男は若い娘を頼りにせざるを得なかった。飛び立つ前のやり取りに、後悔の念もむくむくと湧き起こる。しかし、いくら責める気持ちがあろうとも、この体勢を変えるほど今のフィンには勇気がなかった。




「トラキアは慣れたかしら?」
 急な呼びかけに、フィンは振り向きざま畏まって頭を下げる。一方、下げられた方は、たまったものではない、と苦笑いを浮かべた。楽にして、とフィンに"命ずる"。それでようやくフィンは体を向き直した

「―――いえ、あまりこうして、この土地をゆっくりと見て回った事はありませんでしたので」
 そう言うと、フィンは再び、視線をバルコニーから広がる景色に向けた。

 高い山々はまるでこの一帯の城壁のごとくトラキアの地を囲んでいる。まさに、この高い山々がこの地を護ってきたと言ってもいい。
 反面、平地はほとんど見られない。馬で巡った時もフィンは感じていたが、急斜面をまざまざと見せつけられる。山、と言っても彼の故郷レンスターのように、緑豊かではなく、痩せこけた赤茶色の土に、低木が点在して見えるだけだ。人々の生活の援けになる資源がある訳でもない。

 南トラキアの総督の補佐―――それが、今フィンがトラキアにいる所以だった。ここは敵国だった。しかも、十数年前、主君とその夫人の仇でもあり、そして、主家の姫君を奪い、自らの娘として育てた男の。
 そんな土地に、しかも武人である彼がこの地へ赴くのには、アルテナの為とは言え不安が拭いきれずにいた。しかし、こうして実際にトラキアの内側を見ていると、政には明るくないと自負している身でも、いつもの間にか内政に腐心するようになっていた。それほどまでに、この国は足りないのが目に付く。水、土、家畜―――などの人が生きる為の資源が。対して余りあるのは人々の自国に対する愛敬。あれだけ憎んでいたトラバントの、傭兵業に固執した性が今ひしひしと感じている。

 ゆえに、フィンは暇を見つけては馬で国内を逡巡するようになっていた。
 その矢先に、南トラキア総督が自らも彼に着いて行くと言い出したのだ。アルテナも育った故郷へ戻ったと言うのに、総督の政務に追われ、竜にまたがる機会を滅法減らしていた。無論、故国のために役に就いた事は誇りには思う。トラキアの貧しさは憂いていたが、総督になって初めて見えた故郷の影の濃さに愕然とした。就任当初は、トラバントとアリオーンの大きな翼の下で安穏と暮らしていた自分を恨んだものだ。

 だから―――という訳ではないのだが、公式な視察の任務以外で、暇を見つけてはトラキア国内を巡る彼が羨ましくもあった。アルテナはまたフィンが私的に馬を出そうとするのを見計らい、同行を願い出た。
「なりません。公務ではないので」
 フィンは堅い声で主君の申し出を遮った。アルテナは―――トラバントの娘は、トラキア国民の信頼も篤い。しかし、故郷とて要人である限り命を狙われないという保証はない。アルテナが南トラキア総督に就任する前後も、旧トラキア王国の残兵による狼藉が報告されている。

 いくらその旨を説明しても、アルテナは食い下がった。正式な公務でない限り、警護に動かせる兵の数も限られるのは勿論アルテナは知っている。フィンの心配も充分に汲んでいる。
 そんなアルテナの様子に、フィンも心が傾いていた。ノヴァの再来と言われた女竜騎士も、執務室に詰める日々は堪えてるのだろう。しばし考えた後、では、供と馬車の準備を、と答えを出した。しかし、アルテナの顔は明るい笑みではなく、不思議そうに目を丸くさせていた。

「馬車?どうして?」
「は。アルテナ様がご視察なされるのです」
「内務官が決めた公務じゃないのよ」
「それはそうですが、道の舗装は主要部でも完全ではなく、アルテナ様にご負担が……」
 随分と回りくどい言い方だ、とアルテナは内心で呆れた。いくら自分が竜を繰る身とは言っても、今までのように安易に空を飛ばせたくないのが透けて見える。だから、はっきりと告げた。
「飛竜で飛ぶのよ。関係ないわ」
「わかりました。では、手の空いている竜騎士を今すぐ……」
 フィンは諦めたように答え、一礼する。主君の前から去ろうとする。が、
「待って、フィン」
 背中に声がかけられ、振り返る。怪訝な顔が前面に出ている事も完全に忘れてしまっていた。あなたも一緒に、と言われたのがその理由だ。

「そ、そ、そのような事は……!」
 背筋が凍るような感覚を振り切るように、フィンは首を振った。動揺を隠せないでいる。いかに断念させる理由を捻出できるか。頭の中はその思念で一杯だった。
「でも、ここはトラキアよ。馬だけでは全てを知る事はできないわ」
「は……」
 フィンはその言葉に頭を下げるしかない。トラキアという土地の性質は、ほんの数ヶ月滞在しているフィンとて分かっている。この地で育った姫君の言い分はもっともだ。もっともなのだ。アルテナの理屈が筋立っている分、フィンの前に試練の壁が立ちはだかっていた……

 



「フィン」
 風に乗って聞こえたアルテナの声で、フィンは何とか気を保った。
 フィンは恐る恐る目を足元へ向けた。広がるのはやはり荒野で、家々がぽつぽつと見える。どれもレンスターの農民よりも貧相な建物で、耕している畑も実り豊かとは言えない。それは馬でも分かる事だ。しかし、アルテナの言う通り、一度に見える量が断然違う。竜騎士の物見から報告は受けていたが、自分の目でしか見えないものも沢山ある。さすがに書き記す事は叶わないが、多くの収穫を確信していた。

「見たい所があれば遠慮なく言って」
「は。ありがとうございます」
 返事はいつものようにはっきりと、とまではいかないが、先刻よりもまともな声色に戻っていた。が、相変わらず腕はアルテナの腰にあった。例え見ず知らずの農民でも、この姿を見られる訳にはいかない。フィンの懸念が腕を通してアルテナに伝わったのか、飛竜は集落を遠目に見る位置を飛んでいる。

 飛竜は大きく空を旋回し、トラキアを囲む険しい山のひとつの頂上に降り立った。
「大丈夫?」
 アルテナは颯爽と竜から降り、フィンの手を取った。まだアルテナの手を借りざるを得なかった。
「も、申し訳ありません……」
 地に足が着く事に喜びを感じるものの、体はよろよろと、まるで年老いたように足腰が覚束ない。騎士ともあろうものが、こうもなってしまうものかと。

「情けない限りです」
「初めて飛竜に乗った人は、誰だってそうなるわ」
 アルテナは口の端を上げてそう言った。
 と、言う事は、王女はフィンがこうなる事を知って無理にでも飛竜に乗せたかったと言う事か。

 酷いお方だ。フィンは力なく笑って見せた。

 確かに、アルテナは飛竜に慣れぬ者が乗ればどういう反応を示すか、充分に心得ていた。かつての自分がそうだったのだから。とは言っても、馬で大陸中を駆け巡り、幾多の戦をくぐり抜けて来たフィンならば大丈夫であろうと楽観もあった。それがまさか、ここまでとは。内心驚きつつ、フィンの思いがけない部分を見つけて不謹慎な喜びも生まれていた。それが隠しきれていない事に、アルテナは気付いていない。


 アルテナはフィンの身体を支えて立たせる。崖には行けないが、ここからでも広がる赤い大地がよく見える。
「覚えている?昔、わたしを馬で乗せて遠くまで連れて行った事」
「はい」
 全てを支える事はできないが、肩にかかるフィンの重さだけでもアルテナは受け止めた。遠い記憶、霞のような映像がアルテナの脳裏に残っていた。この温もりに包まれて、アルテナは緑豊かな景色を眺めていた記憶が。決してトラキアにはない美しい風景に、記憶と夢物語を混同させていたと思い込んで成長したが、終戦後、レンスターに身を寄せた際にそれが本物だと確信した。記憶と同じ景色が、あの国にあった。

 だから、今度はアルテナが連れて行きたかった。彼がずっとこの地にいてくれるとは思っていない。それゆえ、少しでもこの地を知ってもらおうと、記憶に残してもらおうと無理にでも飛竜に乗せて来た。結局はそれも自分の我儘でしかないのだが。

 我儘ついでに、あの頃のように抱きかかえてもらおうと思ったが、今のフィンには無理なようだ。フィンを支えている手で彼のマントをつかむと、肩にかかる重みが少しだけ増した。

 
 
 
12/11/25   Back