風になりたい
「え?行かないわよ」
アレスが「祖国」へ還るのは、三日後の予定だった。
しかし、その帰還は、彼にとっては全面的に希望に満ちている訳ではない。アグストリアという国は、彼にとって祖国ではあるが、故 郷ではない。彼には還らなければならない使命はある。物心ついた時より、母から己の血筋を言い渡されていた。今身を寄せているのは母の親類がいるレンスターであり、自分は大人になればアグストリア国へ、ヘズルの末裔として、エルトシャンの子として帰るのだと。
だが、父の仇への憎悪が激しかったためか、アグストリアへの郷愁は、憎悪の激しい炎に巻き込まれていた。アレスがミストルティンを握る頃には、それは胸中で灰になっていた。
アレスは律儀やらとは無縁の男ではあるが、今は誰が見ても荒々しい手つきで、大雑把に荷をまとめていた。鞄は大きなかさではあったが、各地を転々としてきたアレスは、それほど所持品を持っていない。野宿に耐えられる外套と、少しの金。そして愛剣があれば生きて行ける。
驚くほど短時間でまとめ終えると、それを乱暴に寝台へ投げつけた。息をつく間もなく、自らもそこへ身を投げ、鞄を枕にして寝転がる。
「え?行かないわよ」
あまりにもあっさりした返事が、アレスの頭から離れなかった。軽い雰囲気が余計にそうさせていた。
付いていくもんだと思い込んでいたおれが悪い。
そう片付け、ひとり帰路への準備を進めていたのだが、わだかまりは一向に消えない。
「アグストリア国王ね……」
傭兵だった頃が、一瞬だけ眩しい時に思えた。
だが、自分で決めたのだ。王になると。もう後戻りはできない。彼女とは、そういう縁だったのだ。踊り子である彼女は、今までと同じく各地で舞うのだろう。そう、今までと変わらない生き方。
「…………」
アレスはごろりと身体を横に向ける。
今度は決心が揺らいだ自分に苛立っていた。
「え?行かないわよ」
そう言えばこんな台詞、昨日も言ったなとリーンは思った。目の前の相手は、黒衣の騎士ではなく、弟なのだが。
自分の中に、エッダの血が流れている。解放軍になし崩しに参加したが、それも血が引きつけた運命なのだと、レヴィンが教えてくれた。
「ですが姉上。これからどうなされるのですか」
同じみなしごだが、弟は―――トラキアの、決して豊かとは言えないが―――格式のある武家に育てられていた。自分とは違って素行もいい。そんな彼だから、グランベルの公爵家の血をしっかりと受け止める事ができるのだ。
「わたし?わたしはまた旅の踊り子に戻るの。各地の酒場やお祭りを転々としてね」
よくよく考えると、自分は踊り子だった。
確かに、リーン自身も、高貴な身分である事に喜びを見出していた。だが、次第にそれは戸惑いと不安に変化していた。
誰それの遺児、血を引く者。そんな中に長い時間いて、更に自分もそんな「高貴なる血筋のひとり」だった為に、忘れかけていたのだ。孤児院にいた頃は、貴族や富豪の豪奢な生活に憧れていた。しかし、それが今手の届く範囲にあると知ると、途端に憧れの輝きは消え失せてしまった。理由はわからない。きらびやかな世界の裏には、自由などないとも知っている。だが、それが理由ではない。なぜか、栄光なるエッダ公爵家の城に、公女として上がる気持ちにはなれなかった。
「姉上」
弟―――コープルは金の髪を揺らして、姉を見上げた。
「バーハラを発つまでまだ時間はあります。だから、よく考えてください。ぼくは……」
姉上がアグストリアを選んでも構わない。
まだ幼さの残る弟は、そう強く告げてリーンから去って行った。
「アグストリア、ねぇ……」
突然その地名を出され、リーンは憮然と弟の背中を見ていた。その地を継ぐべき者と、恋仲にあるのを弟は知っている。アグストリア。何度も名を呼んでも、リーンの中に何も浮かび上がってはこない。
「昼から酒とは余裕だな」
バーハラの城下が一望できる丘にどっかりと座り込んでいると、影が降りてきた。
「準備は済んだ。やる事がない」
ぶっきらぼうに答えると、酒瓶と喉を仰がせる。強い酒精を流し終えると、瓶は従兄弟の手に渡った。彼もまた、晴天の下の城下を臨みながら酒を含む。
「お忙しいんじゃないのか。おれとは違って」
「探してたんだよ。お前を」
それでも、アレスは振り向かず、じっと眸下の景色に固定されたままだった。
「セ」
「あの野郎の呼び出しなんかに応えるか」
最後まで言えずにデルムッドは肩をすくめる。ひとつため息をついて、言い直した。
「わかったから。セリス様も無理にとは仰ってはいなかった。でも、発つ時には別れの挨拶はしておけよ」
「お前がやっておけ」
従兄弟はアレスと共にアグストリアへ還る。今からアグストリア王気取りで家臣に命令しているという気ではないが、自分よりも遥かにあの皇子と旧知の仲ゆえに、それくらいは代理でしてもいいだろうという気概はあった。
ここから、アグストリアは遠い。各地を転々として生きてきた身だが、広いグランベルを臨んで、改めてそう感じていた。
「なあ」
やはり振り返らずに、アレスは従兄弟に呼びかけた。
「お前、一緒に連れて行く奴いるのか」
「うーん、妹はアグストリアには寄らずに直接レンスターに還るみたいだからね」
その口調では、これといった相手はいないらしい。
「お前さ、不安じゃないの」
「何が」
「親の国って言っても、生まれも育ちも別なんだぜ」
ノディオン王妹の息子は、イザークにてセリスと共に育てられた。風も水も違う土地に、帰れと言われ、あっさりとそれに承諾する彼を、アレスは理解できないでいた。
「ははぁん。さてはお前、寂しいんだろ」
「なっ……別に、野郎の二人旅なんざできればしたくないだけだ」
さすがに血が熱くなり、勢い良く振り返る。馬の鞍に背を預けていた従兄弟は、それでも片頬を上げて次代の王を見ていた。それが余計に面白くなく、アレスは再び身体を元に戻す。
「おれはそういう風に生まれたんだよ。遠くにあっても、必ずアグストリアへ還るんだって思って戦ってきた」
アレスよりも少し年下のはずの従兄弟は、育ちのせいか、ずっと落ち着き悟ったような物言いをする。
「遠くにあっても、か」
だがそれは、幼少時より大人たちから言い聞かせられたせいではないのか。かつての自分のように。
従兄弟を見て、そう感想が浮かんだが、それを口にする事はなかった。若いとは言え、いい年した大人が自分で決めたのだ。デルムッドも、自分も。そして、リーンも。
間違った選択でもない。彼ならきっと、善政の一助となるに違いない。いや、むしろ……
「なあ、デルムッド。おれにか」
「それは断るね」
先刻の仕返しだ、とばかりにデルムッドはアレスの言を最後まで出さなかった。
アレスは無言で立ち上がり、従兄弟の手から酒瓶を引っ手繰った。
あれから、アレスは何も言っては来なかった。
「……ばかみたい」
それは金の髪の恋人へ、ではなく、自分に呟いたものだった。
自分の中では、もう答えは出ているではないか。そして、それを彼に告げたではないか。それなのに、なぜこうも肚はすっきりとしないままなのだろうか。
だが、その理由もすでに察しはついている。その理由が、白馬の王子を夢見る少女のようで、あまりにも馬鹿馬鹿しく、そんな夢まだ見る自分に嫌気が差していた。
まさにそのアレスこそが「白馬の王子様」そのものであった訳で。本来なら喜ぶべきなのだろうが、リーンはひどく冷静でいた。
リーンの背後で、礼拝堂の扉が開く音がした。錆びた蝶番のひどい金切り声に、リーンは思わず顔をしかめる。
バーハラ城の敷地内の片隅に置かれたそこは、かつては王家の者だけで執り行う神事を行っていたが、ロプト教が台頭するようになってからは打ち捨てられた小屋と化していた。
「あ……レヴィン様……」
新たな参拝者は、解放軍の軍師だった。いや、「元」を付けた方が正しいだろうか。
「珍しいな。お前が礼拝など。エッダの血に目覚めた訳か」
「そんなんじゃ、ありません」
暗い表情でリーンは答える。それを打破するかのように、レヴィンはふと話を切り出した。
「アレスもお前と浮かない顔をしているそうだ」
彼にアグストリアの玉座を打診した男はそう言った。
「そうなんですか」
「二人とも、アグストリアへ行くのが嫌なのか」
「わたしは行きません」
「また、なぜ」
その答えに、レヴィンは心底驚いた顔を見せた。リーンはそんなレヴィンに眉根を寄せる。彼は、アグストリア王室に、リーンが入る事を望んでいないように思えたからだ。
「わたしは踊り子ですから。どこか一つの土地に縛られるなんて、耐えられません」
はっきりとそう言うさまを、レヴィンは首を傾けて聞いていた。
長いローブと新緑の髪を揺らし、朽ちかけた長椅子に腰掛け、リーンも隣に座るよう促す。リーンは正直に従わず、 彼の前の長椅子に座り、背もたれに身を乗り出すようにした。長年使われていない為か、組まれた材が不安を掻き立てるような悲鳴を上げた。
「さすが親子だな。そういう所が似ている」
彼は、数少ないバーハラの悲劇前の記憶を持っている。だが、まとわり付く冷たい気のせいか、近寄り難い雰囲気がある為に、解放軍の若者たちは積極的に親の話を彼から聞き出そうとはしなかった。
「似てる?」
レヴィンはああ、と頷くとぽつりと昔話を始めた。
「シグルドの軍に加わるまで、私も旅をしていてな」
偶然アグストリアへ赴いた時に、お前の母親と出会ったのだ。と、レヴィンは告げた。淡々としているが、どこか遠き日を懐かしんでいるようにも見えた。
「お互い素性も知れぬが、そんな事はどうでも良かった。捻くれてるけどいい人だと、言われたんだ。だがな」
レヴィンの含み笑いが、ついに噴出した。普段より堅い表情を崩さない彼の笑いに、リーンは目を丸くして見ていた。それほど母との思い出は愉快だったのだろうか。
「私がシレジアの王子だと知ると、途端に不機嫌になってな。あんたがそんな人だなんてって、面と向かって言われたよ」
「え……何で……」
さあな、とレヴィンは笑みをたたえたまま首を振る。
仲の良かった男が王子、しかも世継ぎであれば、普通は驚きはするが、失望などしないのではだろうか。肝心の母の心境を知れず、リーンは焦れた気分になる。だが、それはすぐに晴れた。あっさりと。ようやく気付いた。同じなのだ、その当時の母と自分は。
ごめん。アレス。
レヴィンが去った後も、リーンは礼拝堂の長椅子に座り、ブラギのタペストリーを眺めていた。
恋人は、近くにいたけれど、いつの間にか遠い存在となってしまった。
ただの踊り子と傭兵だったならば、戦争の終結後、共に当てのない旅をしていただろう。目的を違えても、またどこかで逢おうと、確信のない約束を笑顔で交わせただろう。
だが、彼は傭兵から王になる。次期王からの誘いに、嬉しさもあったが、断った。それは後悔していない。
いくらリーンの中に公爵家の血が流れているとは言え、育ちは孤児院。そして母子二代に渡る踊り子。アレスも傭兵で、そんな者が血だけで王族の椅子に座るには抵抗があるのではないか―――とも考えたが、それもただの言い訳で、結局は生き方を変えられないだけ、そんな単純な理由だった。
それでいいではないか。
大義名分など、必要のない世界で生きてきたのだ。それらが必要な者たちに埋もれて、自分の中の血も御旗とならなければならないと考えてしまったのだ。
「じゃあね、アレス」
旅立ちの日は、風もない暖かい日だった。
明るい日差しの下、リーンは明るい顔でアレスに片手を挙げる。アレスも、仏頂面でそれに応える。不機嫌な訳ではない。普段と変わらないのだ。
「いつか、来いよ。アグストリアに」
「ええ」
笑顔でうなずくと、ようやくアレスは片頬を上げてリーンに背中を向けた。
リーンの許へ通ってきてくれた頃と何の変わりもない別れだった。あれから彼はやはり何も告げてはこなかった。ただ傍で、普段通りに杯を傾け、リーンの膝を枕にじっと目を閉じていた。リーンはそんなアレスが好きだった。
彼が治める国ならば、いつかは知れないが、きっと自分はアグストリアへ行くだろう。王宮へなどはもちろん寄る事はない。どこかの場末の酒場辺りに顔を出し、一晩踊らせてもらうのだ。そこにはきっと、酒場の片隅で杯を傾けているアグストリア王がいるのだろう。
相変わらず夢見がちな自分に、リーンは自嘲じみながら、小さくなる騎士の背中を見ていた。