白き救い



 今まで各地を旅してきたが、冬に入ろうとしているシレジアは初めてかもしれないと思った。こんな立派な城で暮らすのも。
 刺すような空気は部屋をも支配している。薄着で慣らしきた身だが、さすがに耐え切れずに上着を羽織った。軍にいるが、今までと変わらない稼ぎ方で買った上着。「少なくて悪いが」と言って渡してくれたが、シルヴィアにとっては脂ぎった目でしか自分を見ない人間から受け取るより、はるかに嬉しいものだった。

 鈍い色の空に鐘が鳴り響く。
 ああそうだった。今日という日を捨ててしまいたいと思っていたが、鐘の音が嘲笑うかのように思い出させる。
 教会へ行く時刻まで少し時間があった。ガラス越しの庭は、白く染まっている。上着の合わせ目をぎゅっと握ると、意を決したように革の靴に足を通した。


 
 外は思ったよりも冷たく凍りつくようだった。
 あまりの寒さに漏らした悲鳴まで凍ってしまいそうな。上着の前合わせを握り、自分の体に抱きつくような姿勢になる。「余計みずぼらしく見えるぞ」幼い頃、育ての親にそう言われて小突かれたのを思い出した。
 この気候に、地元の者以外はシルヴィア同様参っているらしく、庭には人気がなかった。このまま人のいない景色の散歩と思っていたが、ちらちらと舞う雪の中に先客がいた。
「あ……」
 唇が上手く動かず、妙な声になる。そもそも、先客の名が思い出せない。武人ではないが、すらりとした長身に広い肩幅。シルヴィアが密かに羨んでいた金の髪が、背中に流れていた。
 男がゆっくりと振り向く。シルヴィアを視線に捕らえると柔らかに微笑んだ。名実共に聖者なのだとシルヴィアは実感する。
「おはようございます。シルヴィアさん」
 彼の方は名前を覚えてくれた。この軍に入って初めは戸惑いもあった。こうして、「普通の人間」に送られる視線も、その一つだった。
「おはようございます。シルヴィアさん」
「おはようございます、ええと……神父様」
 彼は名前を覚えていてくれた。しかし、シルヴィアは彼の名をどうしても思い出せなかった。かろうじて、彼が聖職にある事だけわかる。申し訳なく思いながらも、シルヴィアは頭を下げた。
「寒くは、ないのですか」
 申し訳なさを覆い隠すようにシルヴィアは言葉を続けた。次の瞬間、愚かな質問だと後悔した。聖職者の法衣らしき服の上に、シルヴィアが着ている上着よりもずっと上質な皮の外套が彼の長身を覆っていた。
「あなたこそ」
「わ、わたしは平気」
 シレジアほどではないが、シルヴィアが転々としていた土地にも冬はあった。上着どころか、踊り子の薄物のまま茂みの中で眠った事も一度ではない。
「風邪でもひいたら大変ですよ」
 シルヴィアは神父の行動に呆然とした。己の肩から外套を外し、自分の肩に掛けたのだ。皮の外套は重そうに揺れ、シルヴィアに暖かさをもたらす。余りの慣れない光景に、ありがとうの言葉も紡げずにいた。変な人。そんな感想しか思い浮かばなかった。
「今日はお祝いの日ですからね」
 その言葉で、真っ白な景色と彼の優しさが瞬く間に影って見えた。そう、今日は。
「神父さまこそ、大事な体じゃないの?」
「こう見えても身体は丈夫にできているのです」
 優しい声は、雪のように軽いものに聞こえた。別に冗談を言ったはずではないのに、シルヴィアは噴出した。神父はそれに気分を害したどころか、一緒になって笑った。雪を生む灰色の雲に、二人の笑い声が吸い込まれていく。

「少し歩きましょうか」
 身体も温まりますし、付け加えた。なんだ。やっぱり寒いのではないか。シルヴィアはまた笑った。無理にでも楽しい気分にしなければならないと、心のどこかで考えているのかもしれない。
 雪を踏む音が一定の鼓音となって二人の耳に届く。歩きながら、他愛のない話が次々と湧き出ていた。聖職者なんて堅苦しい人間ばかりだと思っていたが、少なくとも彼は違うのだと、お布施をくすねようとした男を教会の孤児たちと逆さ吊りにした話を聞きながらぼんやりと思った。そして、他の人間が自分に向けられる偏見と同じ目を、彼に向けていた事も。
 
 城の中に建てられた礼拝堂が目に映り、足が止まった。不思議そうに神父が覗き込む。
「神父さまは、今日は忙しいんじゃないの?」
 礼拝堂の鐘に視線は釘付けになったままだった。神父は鐘とシルヴィアを交互に見やると、「準備には来なくていいと言われましたから」と答えた。
「ああ、そうだ」
 不意に、神父はぽんと手を叩く。その音に驚き、シルヴィアはようやく視線が鐘から離れた。
「東の方に小さな森があるの知ってます?」
「森?」
 聞き返すと、神父は満足そうにうなずく。
「少し歩きますが、城の敷地内なんだそうですよ。ちょっと行ってみませんか」
 ここから遠く離れるなら。深く考える間もなく何度も頭を縦に振った。シレジアは土地がたくさんあっていいですね。と暢気な声が聞こえた。

 
 くるりと踵を返し、一歩足を出す。神父もそれを真似て長身を回転させる。それが妙に可笑しくて、シルヴィアの心は軽くなっていく気がした。礼拝堂が遠くなっても、現実は変わらないと言うのに。
 森への道のりも、神父と他愛のない会話は続いた。よくここまで話題があるものだと感心するほどに。神父の語りに気持ちが乗ってしまったのか、口を開いてしまった。アグストリアの開拓村に偶然たどり着いた時の話を。真っ白になってしまった高い杉の木が並ぶ中へ進んだ時だった。
「開拓村の酒場で踊らせてもらったの。そしたら男たちに絡まれて。でも、こんなの良くある事だからって平気だったんだけど……」
 軽くあしらえば酔っ払い達はすぐに別の女へ向く。今までのように。しかし、開拓の重労働の疲労と鬱積か、男達はシルヴィアの手を離す事はなかった。いいじゃねえかと酒の息を振り撒き、シルヴィアの身体を粗末な机に押し付けた。
「最悪の事も、こんな事してるんだからと諦めてた。だけど、いざそうなると怖くてしょうがなかった。必死で喚いていたら、助けてくれたの」
「それが、レヴィン王子だったのですね」
 シルヴィアはこくりとうなずく。逞しいとは言えない体だが、これほど頼もしいと思った事はなかった。記憶の片隅に残っていた物語の王子様みたいだと。
「レヴィンは口は悪いけど、とても優しかった」
 散策ようにと造られた森は、道が均されていた。その脇のベンチにシルヴィアは腰掛ける。隣に神父も腰を落とした。
 ベンチに背を預け、子どものように足をばたつかせながら、レヴィンとの短い思い出を語る。恋人とは言い難かったが、シルヴィアにとっては満ち足りた数日だった。吟遊詩人という割には歌う姿をほとんど見なかったが、そんな事はどうでも良かった。一緒にいて楽しいと感じていたのだから。滞在していた村が領主の放ったならず者に襲われそうになり、レヴィンが戦うと言い出した時も迷わず着いて行くと決心した。彼とまだ共に居たかったからだ。
 彼がどこの誰かなど、シルヴィアにとって問題ではなかった。しかし、本当に一国の、しかも世継ぎの王子だと知った時は驚愕が走った。
「シレジアに着いて、レヴィンが王妃さまやシグルド様たちと一緒にいる所を見て気付いたの。レヴィンを返さなきゃって」
 本人は嫌がっているが、彼はどう足掻いてもシレジアの王子であり、フォルセティの継承者なのだ。貴族でもなく、教養もないシルヴィアにもそれは感じる。シレジアを導く王になる者だと。自分は、その隣にいる事は相応しくないのだと。
 神父はシルヴィアの隣でじっとその話を聞いていた。先刻までの軽い口はずっと封じられたままに。
「シルヴィアさん」
 神父は法衣の隠しから布を取り出す。細やかな綿織のそれは、シルヴィアの目に、雪のように真っ白に映った。
「よくぞ決心されましたね」
 その布が目尻に当てられた。そこで、自分が涙を流していた事にようやく気が付いた。久しく流していないせいで、それはひどく暖かく頬を伝った。



 正午を少し過ぎた時に、シルヴィアはようやく礼拝堂に足を踏み入れた。中には見知った顔が並び、みな一様に祭壇へ視線を向けている。誰もが、祝賀に顔を緩ませていた。
 儀式の主役として、祭壇の中央にはレヴィンがいた。婚礼用の礼服は思ったより似合っていて、シルヴィアの知る男とは別人に映った。これが別人なら。そう思うも、やはり花婿はレヴィンで、瞳は伴侶となる女に向けられていた。
 花嫁は美しく、想い人との婚礼に頬を染めていた。それがひどく眩しく見え、例え自分があの場に立っていたとしても、あのような清純な空気は纏えないと感じた。
「おめでとう。レヴィン」
 参列の最後尾でシルヴィアは小さく呟くと、上着の下で手巾を握った。

 木綿の手巾の持ち主は祭壇上にいる。白地を金糸で縁取られた司祭服を纏い、主役達に祝福を与えていた。彼から発せられる厳かな空気が、彼が本当にに聖書者だったのだと思い知らされる。参列者のささやきから、彼がエッダという家の公爵で、クロードという名だという事を知った。忘れていたのではなかった。ただ単に彼の名を知らなかったのだ。
 他愛もない話を繰り出していた唇は、今は堅い聖書の文句を連ねている。シルヴィアは、共に歩んでいた時の神父と祭事を執り行っている彼を重ねていた。どちらが本当のクロード神父なのか。考えれば考えるほど、変な人だった。祭壇の前に立つ花婿は、その風景の一部と化していた。


 太陽が沈み、宵闇が広がるも、宴の騒ぎ声は止む事はなかった。主役達はすでに人気から離れた世界で夫婦の時間を過ごしているだろう。祝賀の参列者達は今度はそれを肴に杯を増やしていた。
 喧騒を抜け出して、燭台の赤に染まる廊下をシルヴィアは歩いていた。宴会の広間にはシレジアに身を寄せているシグルドと彼の軍の者たちがいるが、クロード神父の姿はなかった。シレジア王妃ラーナの好意で部屋が用意されているが、彼の部屋を知らない。だが、皆が広間にて酒と食事を愉しんでいる中、一つの扉から灯が漏れていた。戸惑う事なく、それを手の甲が叩いていた。
「どうぞ」
 短い返事は間違いなく神父の声だった。ゆっくり扉の取っ手に手を掛けると、寝台に腰かけて本を広げる神父がいた。シルヴィアの姿を、朝と同じ笑みで迎える。
「宴はいいのですか?」
 シルヴィアはこくりとうなずいた。踊り子を生業としているせいか、騒がしい場も嫌いではなかった。今夜の宴は想い人だった男の婚礼の席だから。そんな理由で抜け出した訳ではなかった。シルヴィアは上着の下の手を神父に差し出す。
「返してなかったから」
 ぽつりと呟くように言い、白い木綿地の手巾を差し出す。
「ああ、わざわざすいません」
 クロードは立ち上がり、シルヴィアの手を包むように手巾を受け取った。その冷たい感触に目を見張る。
「まさか、洗ったのですか?」
「だって、涙も鼻水も、拭いたから」
 クロードは肩で息をはくと、暖炉の傍へとシルヴィアの肩を押した。煉瓦の中の小さな火は一人では充分だったが、夜のシレジアの水を触れた手を温めるために薪を増やす。暖炉の前に座らせ、外套をかけてやった。
「ねえ」
 暖かいものを、と紅茶を用意している背中にシルヴィアの声は投げかけられた。
「クロード神父様は、結婚していないの?」
「私が?」
 紅茶を注ぐ手はそのままに、クロードは「していません」と答えた。
「しないの?」
 さも不思議そうな声にクロードは言い淀む。シルヴィアは構わずに問いを続けた。
「神父様は、シグルド様やレヴィンと同じ『聖戦士の末裔』なんでしょ?」
「ええ、まあ」
「アレクから聞いたの。聖戦士の血を濃く受け継ぐ者は、その血を残す事も使命なんだって」
「ああ、シアルフィ家の……」
 クロードもそれは幼少時から強く言い聞かされていた。ブラギの杖を受け継ぐ証が現れてからはなおの事。
「結婚は相手がいなければできませんからね」
「いい血筋は貴族のお姫様にもてるからうらやましいって、アレク言ってたよ」
 その言葉にクロードは片頬を上げる。シルヴィアの言う通り、成人前から縁談は毎日舞い込んできた。それこそ山のように。
 皮肉気な笑みの神父にシルヴィアはわずかに驚く。それは余りにも聖職者のものとはかけ離れ、そして本人が婚姻というものに嫌悪しているように思えた。その婚姻を取りまとめる者だというのに。
 大きな手が白磁のカップを傾ける。立ち上っていた湯気は、暖炉が照らす部屋に溶けた。
「あなたの言う通り、聖戦士の血は後世にまで伝えなければなりません。否が応でも」
 カップの中味を飲み干したクロードが、吐き出すように呟いた。そんな神父を、シルヴィアは目を瞬かせながら見ていた。
「神父さま、まるで結婚が嫌みたい」
 そう言われ、クロードは息を吐き出すように笑った。
「私は神父です。今まで色々な婚姻を見てきました」
「それで、嫌気がさしたの?」
 神父の身体が、その言葉で一瞬だが固まったように見えた。シルヴィアはころころと笑い出す。クロードは、不思議そうに見ていた。
「ごめんなさい。神父さま、何だか女の子みたいだから」
「おんな……」
 温和な彼だが、さすがに「女のようだ」と言われるのは心外だったらしい。唇を真横に結んてしまった。
「だって、結婚に夢見てそれに失望してるんでしょ?」
 その失望の溝がどれだけ深いかは知らない。だが、シルヴィアにはそれが滑稽に映って仕方がなかった。
「確かに、失望しているのかもしれませんね。今日のように、お互いが望んで結ばれた例はあまりなかったものですから」
 お互いが望んだ。今度はシルヴィアが閉口させられた番だった。もしかしたら、クロードはわかっていて言ったのかもしれない。そう考えが辿り着くと、傷ついてはいられなかった。
「否が応でもって事は、神父さま、いずれは結婚しなければならないじゃない」
「まあ、そうなります。エッダ家と教会の為に」
 吐き捨てるように言うと、さも面白くなさそうにクロードは口を噤む。そこで気付いてしまった。この妙な神父の心中を乱す事への喜びを。意地の悪い遊びだと頭のどこかで囁かれるも、クロードからの棘のある応酬をも期待していた。
「じゃあ、あたしがしてあげましょうか?」
 神父が盛大に紅茶を吹く。シルヴィアは両頬を上げてにんまりと笑い、もう卓の上のカップを手に取った。それが勝利の杯だと言わんばかりに。
 緩やかに上る白い湯気が鼻腔をくすぐる。口から先に出たものだが、それもいいかもしれないと心の中で芽吹いたのを感じていた。

 


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