トラキアの花に

 眉間に皺が取れずにいることを、自覚していた。
 そもそも、何が問題でこうなったのかも、冷静になって考えればわかること――フィンはずっと手のひらに 顎を乗せたまま、半刻近く動いていなかった。書類を持って来た部下が部屋に入って来たことすら、呼びかけられるまで気付かなかった。

 慌てて羊皮紙を受け取り、すぐに連なった文字に目を通す。
 南トラキア。
 その地名を目にするだけで、フィンは重いため息が喉から湧き出るのを何とか抑えた。

 どうすればよかったか、など、悩むまでもない。
 だが、レンスター地方から遠くに在るお方に逢う理由を、懸命に探している自分はいとも滑稽だった。彼ほどの臣なら、主君に一たび願い入れば、二つ返事で承諾してくれるであろう。そうしないのは、一重にフィンという男の人為(ひととなり)による。

「……あの……将軍……」
 部下の退室にも気付かないほど、彼は思い込んでいた。
 びくりと肩をこわばらせ、目を見開いて若い士官を凝視する。
「ああ、何だ」
「陛下が……国王陛下がお見えです」
 フィンの目はさらに見開かれた。
「なぜ早く言わない!」
 弾けるように椅子から立ち上がると、士官は肩を竦めた。そんな彼を尻目に小走りに扉の近くまで歩み寄ると、重々しい音を立てて扉は開かれた。
「そんなに怒ることじゃあないと思うけどね」
 国王手ずから、扉が開かれたことに、フィンは深く頭を下げる。そんなフィンに、リーフは「私用で来たんだから」と手をひらひらさせ、佇む士官に目配せする。士官は逃げるように部屋を出た。
 
「フィン、姉上泣かせたってね」
 立ち上がりかけていたフィンは、主君の言葉で尻餅をつきそうになった。
「へ、陛下……」
「宮中で持ち切りだよ。フィンが姉上に無体を働いて姉上を泣かせたとか」
 フィンは息を飲んだ。
 宮廷、という世界は噂は光の速さで広がる。
 だが、"今回のこと"は全くもって誤解である。それに尾ひれが付いて王の耳に入ることもある程度は予想がついていたが、急に王にそう切り出され、内心焦ってしまった。話の内容より、尻餅をつきそうになったことを、少しだけ恥じた。
「陛下、あのですね……」
 体勢を立て直し、弁解の許しを得ようとした。
「別にお前を咎めようとは思わないさ。ただちょっと好奇心で真偽を確かめたかった訳だよ」
 本来の年より若く見えるせいもあってか、リーフの顔は悪戯を考えた子供のようだった。彼の耳に届いた実姉の件も、単なる男女の私的な戯れのひとつだと笑って受け入れてくれているのだ。

「……とは言え、更に聞いた話だと、姉上がこのままでは国王としても困ったことではある。そこで、だ」
 リーフは表情を変えぬまま、ちらりとフィンに視線を向けた。ぞくり、と歴戦の騎士の背中にうすら寒いもの走る。期待はあった。だが、虫の好過ぎる話ではなかろうか。
「生憎ですが、公務が立て込んでおりまして。その件でしたら他の者に……それに、私のような粗忽者ではなく、貴婦人が適任かと存じます」
 まったくもって正論だった。
 と、フィンは自負している。
「誰が南に行けと言った」
「え?」
 主君は相変わらず笑みを浮かべたまま、背後の扉を顎で指す。
「御自らお見えになっている。挨拶がてら話をしてみたらどうだ」

 フィンは主君に目礼すると、大股で執務室を出た。
 本来なら、その行為は不敬に値するものだが、国王のフィンに対する信頼と敬愛は宮廷で知らぬ者はいない。誰もそれに眉をひそめる者もいなかった。


 フィンは堅い表情で廊下を歩く。
 客間の扉の両脇を、二人の兵士が守っていた。彼らはフィンの姿を見ると否や、敬礼をし、取手に手を欠ける。
「……フィン!」
 扉から飛び出すのは血筋か。
 フィンは飛びかからんばかりのアルテナの肩を支える。その体勢のまま、部屋に入ると、アルテナは謝罪を口にした。
「フィン、ごめんなさい。わたし……」
 アルテナの頬は赤く染まっているが、決して色恋に染まった訳ではなく、トラキア王女として、南トラキア総督の面目を穢した恥辱によるものだった。
 
 このような事態になったのが二日前。
 馬では六日近くかかろう南トラキア総督府から、飛竜を寝食惜しんで飛ばして来たのだろう。髪は風に乱れ、服も赤土の埃を満足に落としていない。
「もう、いいのです。幸い、グランベルの方々は軽く流してくださいました」
「でも……」
 男尊女卑の激しい旧トラキアで、竜騎士として軍にいただけでも、彼女は実力が認められていた。だが、赤貧の旧トラキアは、戦は盛んでも社交界など催く余裕はない。
 そんな姉を思い、弟王リーフはグランベルから社交の礼儀とダンスに詳しい者を呼んだ。
 指南役の話では、筋は良いと。しかも、長身と美貌でひときわ際立つ大輪の華となるだろう、世辞ではあるがそう評された。
 だが、歴戦の女騎士も、槍と飛竜がなければ華開くことはなく、哀れに震えてた小鳥だった。
 初めての煌びやかな世界にアルテナは極度に青ざめ、話しかけてくる客相手にもぎこちない返事しかなく。
 ダンスも散々なもので、まるで糸の切れた操り人形のようであった。気安い相手なら、緊張も解れるだろう。見兼ねたフィンがアルテナの手を取った瞬間、彼女は手を振りほどき、会場を去ってしまった。仮にも、この社交界の主催がである。

 問題は、アルテナの社交界での失態ではなく、その後、彼女が私室に引きこもり気味になってしまったことだった。
 政務は何とかこなしているものの、外に出る回数は減り、南トラキアに仕えている者の言葉では、見ている方が心痛むほど沈んでいると。

「またこのような機会はございましょう。場数を踏めば、次第に慣れて行くかと」
 目撃していた貴族たちは、日ごろから多くの花を行き来する蝶だった。先刻のフィンの言葉通り、見慣れた貴族の恋の駆け引きとの光景と映り、フィンが多少の忍び笑いを受けるだけで、会自体はつつがなく流れ続けた。
「……何かと気苦労はございましょう。ですが、各国の方々と誼を結ぶには、こうした催しも必要であるかと」
 それでも、アルテナは苦い顔のままだった。
 大勢の貴族の前で失態を犯してしまったことは元より、あのような世界はもう沢山だ。そう告げているようだった。
 彼女の心中は、よく分かるつもりだった。王姉という地位に甘えることなく、故郷の為に生涯を捧げると宣言し、同じく南トラキア出身のハンニバル将軍と共に南トラキアを護っている。平穏無事にレンスターの王女として育てば、母に劣らぬ宮廷の華となったかもしれないが、懸命に故郷を再興しようとする姿も立派で胸を打つ。

「そうね。わかっているのよ」
 アルテナは父譲りの濃い茶色の髪をフィンの胸に預けた。
 先日の社交界では、北トラキア諸国のように髪を結い上げるのではなく、長い髪をそのまま流し、緩く束ねていた。それが身に着けていた薄い色のドレスに良く映え、来客もフィンも茫然と見ていたのを思い出す。確かに、こなれてはいないが、一輪の華だった。

 南トラキアで社交界を開くと言ったのはリーフ自身だ。フィンもすぐさま頷いた。アルテナの気質を知っておきながらも。
 社交界が終会した後も、心配ではあったが、夜の遅さを理由にアルテナを訪ねはしなかった。もしあの時行けば、こうして飛竜を駆って無理はしなかっただろう。
 だが、あの時、何と言って王女を慰めれば良かったのか。今でも迷っていた。傍いて欲しい。そう望んでくれたかもしれない、と思うのは、ただ自分の願望なのだろうか。

 
 フィンの手は、今は白い手袋に覆われ、濃茶の髪のひと房を掬っていた。よく見れば、トラキア特有の土埃が濃茶の髪にも付着している。
 ただひとつ言えるのは、今のアルテナの姿も、トラキアの土にまみれた竜騎士である彼女も、フィンにとっては天上の花なのだ。だが、厳しさという愛情で育った花を、フィンもリーフも萎らせたくはない。レンスターから離れていた分唯々諾々と愛でていても、彼女にとっても何もならないのだ。
 それはアルテナ自身も知っているだろう。だから、慣れぬことを受け入れようとしているのだ。その姿がとても健気で。フィンは無条件で手の差し伸べたくなるのを堪えていた。

「アルテナ様。あまり気を落とさぬよう。今日は王城でゆるりと休まれてください」
 返事はなかった。
 フィンの胸に身を預け、じっとしている。幼少の頃に築いた全幅の信頼から成るものだろう。そうフィンは思っていた。
 ゆらりと濃茶の髪が揺れ、アルテナの顔が見えたかと思うと、急にその距離が縮まり、次に柔らかい感触に触れる。
「んっ」
 状況をすぐに理解し、受け入れたことにフィンは驚いていた。
 それどころか、アルテナの方が驚き、狼狽の体を見せていた。甘えるつもりで軽く重ねたはずなのだが、深くされることを、考えてもいなかったのだ。
 少し困らせるつもりだっただけなのに。そう言っているように、アルテナは身じろぎする。
「……フィンっ……!」
 離れた瞬間、仰いで睨んだのだが、すぐにまた重ねられてしまう。アルテナの手はフィンの腕を強く握りしめ、深い皺となっていた。だがその力も次第に弱くなり、滑るようにフィンの腕を撫で、背中へと回る。

 そうなったのを知ると、フィンはアルテナの体を不意に引き離した。
「……!」
 意識を急に現実に戻され、アルテナはまた驚愕の顔でフィンを見る。その顔は真っ赤で、目尻には涙が滲んでいた。
「さあ、リーフ様もお待ちです」
 弟の名まで出されては、夢心地も覚まさなければならない。観念したように、アルテナはわかったわ、と吐き出す。
 フィンは表情を緩めて頷いた。
 危うく溺れそうになっていたのを、悟られぬように。
 
 



ツイッターキスお題「人気の少ない所で」「振り向いた時に」「泣きながら」
10/04/16   Back