夜の片隅にて



 "祖国"は、アルテナにとって何もかも新鮮だった。先の戦争の傷痕はまだ深く残ってはいるが、華美を失わない建物、豪奢な城を取り巻く四季折々の美しい自然。どれもトラキアにおいては、お伽話の世界だった。この地で、この城で生まれて三歳まで育ったなど想像できようか。

 長椅子にもたれかかり、しっかりと張られた革を撫でる様子は、無作法な事この上ない。しかし、夜が更けてより共に杯を傾けていた弟が去ってから、アルテナは今この部屋に一人だ。牛の皮を丁寧になめして張られた椅子の肌触りも、今まで経験のないもので、触れずにはいられない。
 昔の誼の一人―――フィンでも居ればよいのだが、彼は己が騎士である事を理由に、家族の輪には入ろうとしない。久しぶりに逢えたのに、分かっていない、と酒精が入った息が漏れた。

 酒は不思議なものだ、とアルテナは滞在数日で実感している。
 トラキアでは、酒を始めとする嗜好品は、王族ですら滅多に口にできない。栓が開けられたとしても、男たちの喉を通る。アルテナが口にしたのは数えるほどだ。
 
 ああそうだ。トラキア。トラキアはどうしているのか―――

 思わず身を起こし、バルコニーへ出た。
 見上げれば、月と星が広がっている。時折空を横切るのは、今の時刻では蝙蝠だけだ。鳥も、飛竜も飛んでいる事はない。

 冷たい風が、酒で火照った体に心地よかったが、さすがに飛竜を駆って夜駆けに出ようなどは思わなかった。それに、飛竜にまたがれば、夜半とは言え、たちまちレンスター城下は大騒ぎになる。北の全てがアルテナにとって珍しいものであるように、レンスターの者たちの目には、トラキアの飛竜と女竜騎士は珍奇に映るらしい。一たび空を駆れば、夜半を賑わす諸侯たちの目を一身に集めるのは経験済みだった。レンスターの都は、故郷のような静かな夜ではない。毎晩と言っていいほど、どこかの貴族の屋敷で晩餐会が開かれている。

 アルテナは諦めたように、しかし、弾んだ足取りで部屋に戻る。王女である前に竜騎士として育って来た誇りはある。普段の足取りは、凛として、宮女たちを騒がせたものだ。それを思い出したのか、扉の前で急に身を整え始める。

「フィンを、フィンを呼んで欲しいの」
 部屋付きの侍女に告げると、時を経たずして騎士の姿が見えた。どうやら、ずっと近くで控えていたらしい。
「リーフが帰ってしまったのよ」
 彼の顔を見るや否や、そう言って、杯を彼に向けてひらひらとさせる。フィンは困ったような顔をした。
「アルテナ様も、お休みになられた方がよろしいのではないでしょうか」
「でも」
 明日もご公務はあるのですから、と言われるが、名残惜しそうにちらと机の上の酒瓶を見遣る。いくつもの瓶の栓が開けられていた。弟も嗜んでいたのだが、彼が出て行ってからも空き瓶の数は増えていた。
「滅多に口に出来ぬとは言え、量が過ぎれば体に毒です」
「あら、はっきりと言うのね」
 酒の膜の張った瞳は軽く騎士を睨む。
 フィンの言う通り、これだけの酒が並ぶ様子は、トラキアでは滅多に拝めない。しかし、だからと言ってアルテナは加減を知らずに鯨飲している訳ではない。これでも、己の酒量は心得ているつもりだ。

「ねえ、フィン。トラキアでもお酒造れるようになったらいいわね」
 フィンへと振り向くついでに、長椅子の背もたれに身を乗り出す。手中グラスの中で、琥珀色の波が作られた。トラキアでは、葡萄や麦は民の口に入る食糧だ。嗜好品の製造に回せるほどの余裕はほとんどない。トラキアの権力者たちが口にしている酒は、国外から手に入れた物ばかりだ。
「そうなるには、まずは国を少しでも豊かにさせる事ですね」
「逆だわ。豊かじゃない今だからこそよ―――だって、今までまともな国交なんてなかった国だもの。そこから造られるお酒だなんて、珍しがられるわ。きっと」
 アルテナを囲む王侯貴族の顔を思い出し、自虐気味に口を歪める。
 今は、年に数回行われる国王への報告のために南トラキアの領主として赴いている。アルテナが故国の地を治める手筈となったのは、紛れもない弟のはからいだった。しかし、仮にそれが為されなかったら。トラキアの王女から一転してレンスターの王女へと"戻って"しまっていたら。滞在中の状況を振り返ると、故郷へ帰って来たはずなのに、決して良い気分とは言えなかった。

「……アルテナ様」
 騎士の声に、アルテナはぱっと顔を上げる。
「ごめんなさい!折角来てもらったのに……!」
 身を起してフィンに座るよう勧める。しかし、あくまでフィンはアルテナを休ませようとする気だった。アルテナは彼の気概に気付かないふりをする。
「ほら、お菓子もこんなに頂いたから」
 苦笑いは、酒瓶の横に積まれた箱に向けられる。手のひらに収まるような小さな箱から、両手に余るほどの大きさまで、様々な大きさの箱が卓に置かれている。金で縁取られた平紐や、繊細な彫りで飾り立てられていた豪奢なものだ。フィンはすぐにこれらの意味が脳裏に閃いた。浮いた話とは無縁な彼とて、今日は婦女子がどのような行動を取る日なのかは知っている。
「これはアルテナ様に贈られた物ではありませんか」
「いいのよ、こんなに食べられないし」
 フィンの答えは関係なく、アルテナは近くにあった箱の一つを開く。箱の中身は、一目見ただけで最高級の菓子職人の手によるものだと分かる。リーフはひと箱持って行ったのよ、とアルテナは付け加えて箱を差し出した。王とは言え、リーフは食欲旺盛な育ち盛りと言える。幼少時は苦労してきた分の反動があるのだろう。持ち帰って奥方に絞られていなれば良いが、とフィンはいらぬ危惧を浮かべた。何せ、この日の贈り物には、少なからずの好意が含まれている。アルテナに対しても、贈り主が貴族の令嬢なのだから、王の姉に対する儀礼的なものではない事が窺えた。アルテナがレンスターへ来訪する知らせが宮中に渡ると、庭にさえずる小鳥の鳴き声のように、来訪を待ちわびる声がする。
 
 一方当のアルテナは、王侯貴族が己の一挙一投足を騒ぐのは、単に珍しいからなのだと結論付けていた。トラキア半島内にて、武勇に優れ、見目麗しい女騎士は多数仕官し、アルテナ自身も何人も知っている。女騎士は自分一人ではない。ただ王の姉、敵国の王に育てられた王女、という戯曲にも劣らぬ悲運は貴人らの心に触れているのだろう。貴族の令嬢からの贈り物も、断る隙もなく押し付けられた形だ。レンスター王城内の屋敷にまで、人伝手に届けられた物もある。今まで口にした事もないような、極上の風味なのは素直に感嘆するが。
 捨てるに気が引けるのは、長年の清貧が染み付いている。せめて、気の置けない者と愉しむのがアルテナにとって最大限の敬意だ。

 フィンも諦めたようで、身を屈めて小箱の中のひとつをつまみ上げる。口の中ですうっと溶け、品の良い甘さが広がって行く。甘い物は女を虜にさせると言うが、確かにこれは惹き込まれのも無理はない。
 フィンが菓子に素直に感動している様子をアルテナはじっと見ていた。が、突然、
「あ!」
 と声を上げる。「わたしったら」と口に手を当てた。
「如何されたのですか?」
「あなたに何も用意していなかったわ。ごめんなさい!」
 フィンも目を丸くして、アルテナの言葉の意味を理解するのに時間をかけた。
 この日が好意を向けた相手に贈り物をする日だとは知っていたが、自身が贈ろうとは考えてもみなかったのだ。トラキアの王女だった時代から知ってはいたが、他人に贈り物をする機会がほとんどなかったアルテナにとって、この日は遠い世界の習慣だった。
「いえ、私になど」
 フィンは即座にそう答える。
「でも、あなたにはレンスターへ来る度に世話になっているのだし」
「騎士の当然の勤めです」
「でも」
 との応酬は長らくは続かず、フィンが長椅子に腰を落ち着ける事で折れた。これも騎士の勤めとばかりに。そうとは知りつつも、アルテナは満足げに微笑む。
 
 フィンの指は、卓上にて出番を待っていたグラスを手に取る。さすがに主家の姫からの酌は辞して自分で瓶を傾けた。酒精と葡萄の香りが、互いを引き立てながら体中に浸み渡る。酒は人並みに嗜んできた身だが、これほどまでに良い酒には滅多に出会う事はなかった。諸侯から王姉に贈られた酒は、レンスター国内でも十指に入る逸品なのだろう。先刻の菓子と言い、アルテナは短い滞在中に、今まで高嶺にあった品々を大量に味わっている。贅沢を知り、南トラキアへの思慕が薄れてしまわないか。ふと、フィンの胸に妙なものが引っ掛かる。心だけでなく、彼の袖も引っ張っていた。それは危惧ではなく、ある種の期待に近かったからだ。
「―――何を」
「え?なあに?」
 心中の疑問を、思わず口走ってしまったようだ。フィンは何でもありませんと取り繕う。心のわだかまりを酒精で溶かすように、もう一度グラスを傾けた。
「ねえこれ、本当においしいわね」
「はい」
「ああ、早くトラキアへ帰りたいわ」
 グラスを持つフィンの指がぴくりと動く。
「帰る日が待ち遠しいですか」
「ええ。でも、いつもレンスターに来るたびに刺激になるわ。これをトラキアでもできないかって、そう思っているの。このお酒のような、特産がトラキアにもできないかって―――その前に領地の平定が先なのは分かってるけれど」
 アルテナは立ち上がり、バルコニーへ出る。そこに愛騎が待機していれば、今にも飛び乗って行きそうにフィンは見えた。やはり、この人はトラキアの人なのだと。
「でもね、レンスターが嫌いって訳じゃないのよ。リーフと、あなたが居るし」
 無邪気な言葉だった。フィンが、思わずグラスを取り零しそうになるほどの。
「ああそうだわ」
 アルテナはふいに振り向く。ひんやりとした風が外から吹きつけた。
「この日に贈り物をされた者は、来月何かしら返礼をしなくちゃいけないそうね。何がいいかしら」
「そうですね。女性ならば、同じく菓子がよろしいかと」
「違うわ、フィンによ」
「私にですか?―――では」
 この場を共にし、酒を飲んでいる事が、アルテナにとってフィンからの贈り物だった。フィンも彼女から請われて長椅子に座った事を思い出す。
 フィンも逸る心を抑えてバルコニーへ歩み寄った。欲しい物はないか、と主家の姫に問われて、騎士の答えはただ一つだけだ。アルテナの右手を取り、口付けを請う。

「そうじゃなくて」
 右手の甲にくすぐったさを感じながら、アルテナは苦笑いを浮かべた。
「もっと、別の事。騎士だからとか気にしないで―――」
「では、アルテナ様の望むものを。私の望みはそれに尽きます」
「ずるい人―――じゃあ、トラキアに持ち帰っていいかしら。人手はいくらあっても足りないのよ、レンスター王家に忠誠の厚い人材なら尚更」
「仰せのままに」
 夜半の冷えた空気か、それとも酒精か、吐かれた言葉と息が妙に温かく感じられた。
「夜になったら、トラキアの空とここの空もそんなに変わらないわよ。本当に、綺麗な月ね」
「ええ、本当にお綺麗です」
 夜空を仰ぎ、フィンもそう呟いた。


 
14/02/19   Back