繋がる地
上空からだと、地上にいる人間がよく知れる。
規律よく進む軍隊の中、兜と鎧を身に着けた槍騎士も、アルテナは簡単に見つける事ができた。
彼の馬と寄り沿うように、一騎の騎士が旗を風になびかせている。旗は、レンスターの紋ではなく、新たな紋章が染め上げられていた。それを掲げ、進軍する度にアルテナの心は不穏に波打つ。
彼女の弟―――新生トラキア国王―――は、バーハラでの戦いからの帰還後、レンスター国内の安定、そしてトラキア半島の統一に本腰を入れ始めた。アルテナは王の姉、そしてゲイボルグの使い手として南方の平定を任されている。
一年ほど前まで、半島の南の覇を唱えていた旧トラキア王国。今人々を脅かしているのは敗戦を逃れ、野盗と化してしまったトラキア兵や傭兵だと聞く。統一の混乱で民をこれ以上苦しませる訳にはいかない。アルテナはその思いで飛竜に跨っている。
トラキアの土よりも赤い炎が簡素な家屋を飲み込んで行く。その様子を、アルテナは竜から降りて見ていた。
野盗の討伐は一日とかからずに終わった。元は軍属だったとは言え野に落ちた連中と、少数だが統率の取れた軍隊では力の差は歴然だった。
「危険です、お下がりください」
後処理に奔走する兵士の一人が炎を見つめるアルテナを制す。気が付けば、激しい炎が巻き上げた塵が皮膚に伝わる距離にあった。ぱちんと弾けた火の粉が飛竜の硬い皮膚にかかり、愛騎は首を振った。
「ごめんなさい」
アルテナは兵と竜にそう言い、手綱を引いた。歩行は得意ではない飛竜はのろのろと主に引かれて行く。
兵は徐々に隊列を整え始めており、そうでない兵らは生き残った十数人の賊を一つに連ねていた。
捕えられた男たちは、アルテナを見ると瞳を様々な色に変えた。元トラキア兵であった彼らが、トラバントの傍に付き従っていた兄妹を知らぬはずはない。
十あまりの視線を受け、アルテナは動けなかった。王命を受けた時より覚悟はしていた。だが、いざ"トラキアの民"に刃を向けるとなると心の底が冷たくなった。彼らはもう国民を守らない。それどころか、細々と生きる人たちの財産や命を奪っている。彼らの対する怒りも確かにあった。はずなのに。
「アルテナ様」
賊を前に立ちつくすアルテナを我に返したのは、彼女の胸に響く声だった。穏やかで、だが、決して優しくはない声だった。アルテナが最も信を置く槍騎士は、赤い埃にまみれた兜を脇に抱え、背筋を伸ばして立っていた。
「アルテナ様。投降した賊はすべて捕獲してあります」
「……わかりました。では」
アルテナは下すはずの命を飲み込んだ。昨日の軍議で、賊はすべて討つべし。捕虜にはせず、と決めたからだ。アルテナは当初それに反論した。だが、元は兵士だった輩が民を苦しめ、その命以外でどう贖罪になろうかと老練の将らは口さがなく若い司令官を抑え込んだ。レンスターを始めとする北トラキア地方出身の軍人らは、南部の者には容赦しないきらいがある。この隊の司令官が、南レンスター育ちである事をわかっていても、その気概を崩す事はなかった。
「処刑を。お命じください」
将軍の一人が前に進み出、そう言った。アルテナは強張った顔で捕虜と将軍を見遣ったが、口は固く閉ざされたままだった。そして、助けを求めるようにフィンを見る。フィンはじっとアルテナを見ているだけで、唇を開く様子はない。
「アルテナ様。昨日の軍議をお忘れか」
咎めるように、もう一人の壮年の将が声を出した。
「しばし、待ってはくれないでしょうか。ルテキアに一時留めておいても遅くはないのでは」
力なくそう言うのが精一杯だった。将軍らは、彼女が躊躇している理由は十二分に気付いている。だが、彼らは敢えてアルテナに決断を迫った。"新生トラキア王国"の王姉が南トラキアの賊に厳しい処分を下す事を。
フィンはやはり堅く口を結んだままだった。老将たちとは違い、彼の顔からは何も読み取れない。
駄目だ。そんな事では。
アルテナは首を振った。そもそも、王の側近中の側近たる彼が地方のこんな小規模の賊討伐に加わるなど、普通では考えられぬ事だ。それなのにフィンが参戦しているのは、自分のためなのだという事はわかる。彼が自ら願い出たのか、それとも弟が気を利かせたのかはわからない。どちらにせよ、フィンが傍にいる事で、アルテナは心細さを払拭していた。だが、それに甘え切ってはいけない。
「殺せよ」
捕えられた賊の一人が怒気を込めた声を放った。アルテナは声の主を見遣る。血走った眼が自棄になっている事を示していた。一人が口を開いたのを皮切りに、他の賊らも口々にアルテナを罵倒し始める。
「裏切り者。トラキアを見捨て、北の連中に媚びへつらう売女め」
「ダインも、亡きトラバント王も、お前を竜に乗せた事を後悔しているだろう!」
「先の戦争で死んだ兵らも、グランベルよりもお前を恨んでるだろうよ!」
アルテナは目を閉じた。
罵声に苦しんでの事ではない。亡き父の名を出され、「家族」を思い出したからだ。
金を得る為ならどんな非道な所業をやってのけた父と兄。野蛮な傭兵王と他国からは蔑視され、事実アルテナの実の父母もトラバントの奇襲に斃れたと聞いた。
竜に乗った時から傭兵として各地を回っていたのだ。今自身に向けられている憎悪よりも深く激しい感情を、汚い言葉の矢を、数多く受け止めて来たに違いない。
「ダインもノヴァも、祖国を別つ事など、望んではいなかっただろうよ」
トラキアの大地を臨みながら、兄がふと漏らした言葉を思い出す。すると兄の隣に、風に髪を任せている自分の姿があった。
ダインとノヴァの再来と言われた二人だった。それを恥ずかしくも誇らしく秘めて生きて来たのだ。
自分がしなけらばならない事は。やり遂げなければならない事は。
アルテナは腰の剣に手をかけた。
刀身がぎらつく太陽の光を跳ね返す。父と兄の姿を脳裏からかき消した。二人の遺志を汲んでも、幻影を抱いたままでは二人を言い訳にしているような気がしたからだ。
将軍たちは、王姉の姿にただ息を飲んで見ていた。
ルテキアの砦へ戻るも、アルテナは眠れずにいた。ルテキア地方が一望できるバルコニーに身を預け、暗い空をぼんやりと見ていた。
人を殺めたのはこれで最初ではない。トラキア人だからか。それとも、トラバントに忠誠を誓っていた者だったからか。
「……アルテナ様。フィン様がお見えですが」
従者が控えめに声をかけた。
振り返れば幼さが残る顔が不安そうに眉をひそめていた。それほど思いつめているように見えたのかと、アルテナは反省し、従者に笑みを見せた。
「通して頂戴」
従者と入れ替わりに、フィンがバルコニーと部屋の境に立ち止まる。昼間とは打って変わって苦渋の表情を浮かべていた。
「どうしたの、フィン」
眉間に深い谷を作っている様を覗きこむと、フィンはそれを隠すように膝を折った。
「アルテナ様。ご無理を、おかけしました。どうかご容赦を」
「いいの、フィン」
フィンに立ち上がるよう促す。他の将軍の手前、助け舟を出す事をしなかったのだろう。ずっと黙っていた事に、アルテナはむしろ感謝していた。彼が口を挟めば、老将らはアルテナを軽視し続けるに違いない。
「わたしがしなければならない事だった。トラキア人がトラキア人を苦しめたのよ。"トラキアの王女"であるわたしが裁くべきだった」
「アルテナ様……」
フィンが再び表情を曇らせた。アルテナは慌ててごめんなさい、と騎士の手を取った。
その手を引いて再びバルコニーへ出る。夜風は冷たい。眼前に広がる大地も暗く、昼間のように見渡せはしなかった。
兄と並んでトラキアの大地を臨んだ日々はもちろん、この騎士とレンスターの緑なす大地を見渡した幼い日までもが、アルテナの脳裏に蘇った。彼女にとって、どちらもかけがえのない光景だ。
「誰もが望んでいた事なのよ。ひとつになる事を」
「はい。キュアン様の悲願でもありました」
養父の槍に散った実の父。双方に和解という道を標すには、あまりにも確執は多かった。だが、その子らは違う。トラバントもそう思い、自分をトラキアに連れて帰ったのだろう。アリオーンとともに、竜にまたがらせたのだろう。
目を細めてずっとトラキアの大地を見ていた。冷たい風が濃い茶色の髪をさらう。
「わたしの故郷は、この大地。ダインとノヴァが愛したトラキア半島すべて」
「私めも、愛しておりますゆえ」
フィンがマントを外し、それをアルテナの肩にかけた。