それは、何度目にしても美しいと呟いてしまう。

 堅い木が軋み、折れてしまいそうな程の激しいぶつかり合いが続いていた。茂みの中に身を隠し、目と鼻の先でその光景を見ているのだが、「危険だ」と止めようとする声も聞かずにその動きを目で追っている。結局、止めた方もそれに付き合っているのだが。鼻先にかかったのは、削れたその木片か踏み込んだ時に舞った草か。

 互いに振るう訓練用の槍の丸い穂先は、その音が聞こえんばかりに鋭く空を切り裂く。それを相手は長い柄で受け流し、頭上にそれを振り降ろす。突きの体勢から、素早く振り降ろされる攻撃を防ぐ。その槍の動きの速さに目で追うのに一苦労だった。

 だが、今回は純粋に手合わせを見に来ている訳ではなかった。そうであったら、こんな出歯亀みたいな(誰がどう見ても出歯亀なのだが、本人は認めていない)真似はしていない。

「あの二人、あやしい」

 数日前からそんな下世話な噂が軍の中に広まった。

 セリス皇子率いる解放軍は、バーハラの悲劇で無惨にも散った王侯貴族や騎士たちの遺児を旗印として起った軍隊である。その遺児たちは政治的な意味合いは元より、戦力としても中心となる者も少なくはない。それは軍隊の若年齢化へと傾倒する事態となった。

 戦場での軍神のような強さとは打って変わり、戦いの合間に見せる少年少女たちの年相応の姿。そういった年頃であるから色恋沙汰の話で盛り上がるのも無理はないのだが、「あの二人」が自分の姉と育ての親とも言える家臣では聞き流す訳にはいかなかった。

 他の誰よりも二人と近い立場にいたはずなのに、自分はそれに全く気付かなかったのである。幼馴染みに聞いても首を横に振るだけであった。その方面に目敏い少女曰く、「二人のお互いを見る目が違う」と言うのだが、この幼馴染みと同様に、色恋沙汰に詳しい訳でも勘が働く訳でもない。二人がまさかそんな関係へ育っていたなんて思ってもいなかった。

 その手の何でも話に持って行きたがる者の憶測の範囲だと高を括っていたが、その噂がかなりの広範囲に渡って広まっていた為、今回こうして「調査」に至った訳である。

 

 戦場での特別な作戦を除き、件の家臣は常に自分に付き従っている。姉と家臣が二人きりになる時間。唯一思い付くのは、この槍の稽古だけだった。二人とも槍を持って戦場へ出る。一人は槍騎士ノヴァの末裔。そして竜騎士とした育った身。もう一人はそのノヴァが起こした国の騎士。必然とも言えよう。戦場ではお互い馬や竜に乗って戦うが、稽古ではその身一つでぶつかり合う。同じ槍の国でもレンスターとトラキアではその捌き方が違う。その訓練もあって、二人は頻繁に槍をぶつけ合っていた。現在でもそうだ。

 時折身体を休めてはいるが、家臣が主君に気遣う態度と何ら変わりはない。冷たい水を含んだ布を差し出す仕種も自分に対してのそれと何が違うのか。強引に家臣の手を引いて無理矢理横に座らせ、その身体に寄り掛かるのも、ただ単に姉は昔を思い出して家臣に甘えているだけだろう。暇を見つけてはよく催すレンスター家の茶会では、姉と家臣は昔話に花を咲かせる。記憶どころか存在さえなかった頃の話に頻繁に置き去りにされるが、姉の心底嬉しそうな笑顔の為ならばそれも苦ではない。姉も、本来ならばレンスターで歩むはずの時間を埋めようとしているのだろう。

 隣で身をひそめている幼馴染みを見ると、なぜだか顔を真っ赤にして両手で口元を抑えていた。前方へ視線を戻すと、姉が身を乗り出して家臣の唇に自分のそれを重ねていた。茶の席での思い出話では、「昔はよくキスをねだっていた」と姉は言っていた。それを懐かしんでの事だろう。更に姉は「よく抱っこしてもらった」「遠乗りはいつもフィンの馬に乗っていた」「腕枕で添い寝してもらっていた」とも言っていた。最後はともかく、自分もそうであった。だから、今姉が長い接触の末、家臣の膝に乗っているのも、その家臣の腕が姉の背中を這い回っているのも、昔からよくやっていた事なのだろう。何を疑う事があろうか。

 姉と家臣がそういう関係になる事が面白くないはずはない。むしろ歓迎している。ただ、真意を確かめたかった。あの二人が、真正面から問い正しても正直に答えそうにもない事だけはわかっている。だが、何も答えを急ぐ問題でもない。今は戦争を終わらせ、国を再建する事が最優先なのだ。例え本当に二人に何かあっても、弟として、主君として見守って行けばいい。


「やっぱりただの噂なんだよ。さ、行こうか」

 未だ顔を赤くしている幼馴染みに小声で囁くと、リーフは音を立てないようその場を去った。その反応に、信じられないといった表情で幼馴染みの少女は立ち去ろうとしている背中を見ていた。


 敵将であったセリスの元へ、トラキアの王女アルテナは供も付けずに単身飛び込んだ。よって解放軍には飛竜は一騎しかいない。獰猛な外見と気性の竜は、繊細な天馬のみならず、訓練された軍馬でさえも脅かす。 アルテナの永年の相棒は、厩舎から少し離れて繋がれていた。鹿や羊の肉を与えられ、竜の口からは満足そうな欠伸が出た。固い鱗で覆われた頭を地面に下ろした時、聞き慣れた足音が土を通して竜の耳朶に届く。飛竜の心主知らず、とでも言いたそうな面持ちで、竜は重い頭を上げた。

 主の白い手が飛竜の頭を撫でた。触れる方はごつごつとした感触だが、触れられる方には柔らかな女の肌がしっかり伝わっている。飛竜はこの感触が好きではあった。ただ、最近は「不要な物」が附随しているので面白くない。主の後ろで、自分を見ている青い双眸は邪魔以外の何者でもなかった。


「アルテナ様」
 その声は、飛竜が聞き分ける事が出来た人間の声の中で、一番耳障りに思えた。更には、その声に飛竜の主はこの上なく嬉しそうに身体をすり寄せているのだ。その男に。飛竜は固く閉じた牙の間から、ぷしゅう、と息を出した。

 生まれ育った国を出て行った事を飛竜は理解していた。主の意志に従った。主にはもう自分しかいない。それを胸に異郷の軍隊の、同族が全くいない環境にも耐える事ができた。それなのに、主は別の生物に心を向けている。

 この男が飛竜の目の前に連れて来られた時から、飛竜には主の世界が変わったと感じた。食糧を持って来る時も、身体を洗う時も主はこの男を連れて来た。主以外の人間に身体を触れられるのは気に入らなかったが、主の為にそれに耐えた。

 ある日、男と主の手が飛竜の頭を撫でようと、同時に動き、その二つが重なった。それ以来、この二人は自分の目の前で手以外を重ねている。それが人間にとってどういう意味かは理解できていた。

 もう主の世界には自分はいない。そう飛竜は感じ取ると、目の前の青い髪の人間を憎まずにはいられなかった。今でも、差し出してくる節くれだった手のひらを噛み付いている。

 

 「彼」は知っていた。

 「彼」は他の仲間よりも少しだけ知能が優れていたので知っていた。

 更に「彼」は目が良かった。遠くで主人がいる事を知っていた。近くに恐ろしい飛竜がいる事も。更に主人が特定の人間と一緒にいる事を知っていた。その内の一人と特に仲がいい事を知っていた。今も少し遠くでその人と鼻先を近付けているのを知っていた。「彼」はそれが人間の求愛行動だという事も知っていた。

 人間はニ本足で立つ。だから「前足」は歩く事意外に使う事ができる事も知っていた。今主人はその前足で特定の「牝」の身体に触れている。それも人間の求愛行動だという事も知っていた。さらに前足で人間を余計に覆っている「皮」を剥いでいる。  知能が優れている、とは言え所詮馬である。それ以上の行為が何を指しているのがは「彼」には理解できなかった。




「だーかーらっ、単なる噂なんだって!」

 リーフは兵士用の食堂で熱弁を奮っていた。それも虚しく、彼の周りを取り囲む者達は終始にやにやしている。リーフの良く通る声に次々と野次輪が大きくなっていった。

「茶会時でも、槍の稽古時でもっ。二人には全くそんな素振りはなかった。断言しよう」

 強い口調にも周囲は本気には捕らえてはいない。それ程、その「噂」とやらは軍の中心部に知れ渡っていた事だった。例え弟君が調査に出向いても、上手く巻かれたのだろう。皆はそう確信していた。

「リーフ様、面白くないんでしょう?折角出会えたお姉様に早速恋人ができて」

「違う、違うよ!」

 揶揄する声に必死になって否定する姿を遠巻きに眺めていたナンナは、そっと溜め息をついた。

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