アナタ、呪われてます

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「よろしければ、私がお教えいたしましょう」
 話が料理の方向へ向かったのは、何かの拍子だった。
 たしか、自分が料理当番だった時に声をかけられたからだ。
 オスカーはその時の事をふと思い出し、炊事場の前で傾げていた首を戻す。その間も、彼の手は手際よく野菜を切っていた。
 ベグニオンの援護は兵力だけではなく、大所帯になった軍隊の腹も補償してくれていた。帝都シエネより定期的に生鮮食品が届けられる。しかし、それをデインが手をこまねいているのは、不審だと、以前セネリオが漏らしていた。それはいち傭兵のオスカーも不気味に思っている。だが、今こうして暖かい食事にありつけるのは、転戦の中では変えがたいものがあった。ゆえに、今それを十二分に戴こうと少しでも手をかけようとしている所である。

「オスカー」
 名を呼ばれ、その声にオスカーの心臓は一度、平穏ならぬ動きを見せた。振り向くと、タニスが立っていた。彼女は鎧もマントも外し、剣すら佩いていなかった。
「タニスどの」
 濡れた手は所在を余して、切られるのを待っていた野菜を転がしていた。
「今日、君が当番だったと聞いてな」
 手伝う事はないか、と言われた時、オスカーの大きな手の中の野菜が増えていた。いつか教えよう、といったのは自分だ。その日が現実になっただけではないか。妙に浮き足立っているのがおかしかった。
「では、この野菜を切ってもらいましょうか」
 貴族の、しかも司令官級の相手に何て事を、と傍からはそう思われるだろう。しかし、そうやって身分で線を引いてしまっては、かえって彼女に申し訳ない気がした。殊更、戦場以外に関しては。
 オスカーの思惑通り、タニスは嫌な顔ひとつせず(自ら手伝うと言ったのだから当然なのだが)、オスカーの手元にあった小刀を手にする。濃茶の髪が鼻先に触れそうになり、オスカーは反射的に身を引いた。
「これはどのように切るのだ?」
 その言葉に頭も心臓も平常通りの動きに戻る。安堵を隠しながら、均一に火が通るようにと、根菜の切り方を説明する。その横のタニスは、兵法の授業でも聞いているかのように真剣だった。


 しかし。
 丁寧に教えたつもりでも、そうそう上手くはいかないようだ。
 まな板にはまばらな形の野菜が、戦死体よろしく転がっている。まな板を戦場と化してしまった、オスカーの教え子は、留年を確定されたように青ざめていた。
「そんなに気を落とさないで下さい。食材を無駄にした訳ではありませんから」
 火の通りが少し悪くなった事、剥かれた皮がいささか分厚い事。損害と敢えて表現すればそれだけで、別段口にできない代物が出来上がった訳ではない。
「うむ、そうなのだが……」
 慣れぬ事ならば仕方がない。オスカーがそう取りなすも、彼女の矜持は保てないようだ。すまん、と普段からは想像できぬ弱々しさで彼女の口から漏れた。
「何事も慣れですからね。私も始めは散々でしたよ。料理だけではなく、馬術も、槍も」
「だが君は、飲み込みが早い」
 わたしもたくさんの新兵を指導してきたからわかる。とタニスは付け加えた。
「そうでしょうか」
「ああ。君は何をやらせてもそつなくこなす。だがわたしは武のみだ」
 そう言い切るタニスに、オスカーは心中で苦笑う。
 今ある姿は、幼き頃より何を握って育ってきたかによるのではないだろうか。
 オスカーは貧しい開拓村の子で、病弱な母に代わって家事全般をやらなくてはならなかった。父の仕事を手伝わなければならなかった。生きて行くのに必要だったからだ。
 逆に、タニスはベグニオン帝国でも爵位のある貴族家の生まれだ。おそらく何十人もの使用人を抱えているだろう。大勢の人間にかしずかれ、生活に必要な物事はすべて他人に任せていられる。ベグニオン貴族の生活は、エリンシアを擁し、賓客としてマナイル神殿に滞在した際に片鱗を見ていた。手ずから料理する事など、貴族である彼女に必要ない事など明白だ。
 身分が違いすぎる。以前からそう感じてはいたが、こうして何気なく隣にいる時にはより強く思い知らされるのだ。同じ軍に在る今が、特別な状況であるだけで。だから、これ以上はよしておこう。鍋の中で揺らめく不揃いな野菜を見つめながら、オスカーはそう決めたのだった。




「なあ、兄貴ってさ、最近よくあの人と一緒にいるよな」
 ある夜だった。上の弟が天幕に入るなりそういった。
 あの人。
 それがタニスを指している事はすぐにわかった。オスカーは鎧を手入れしている手を一度だけ止め、すぐに手巾を動かした。
 初めてタニスが料理を「手伝って」以来、彼女は頻繁に調理場に立つオスカーの所へ教えを受けに来ていた。ベグニオン帝国の、聖天馬騎士団副長―――すなわち、貴族が傭兵とともに食事の準備をする姿が目立つのは自然だった。傍から見れば、ボーレのように映る事も。
 もちろん、彼女と多くの刻を過ごせるのは内心が弾むのだが、現実は料理の講師と生徒だ。しかもかなり出来の悪い。
 調理場に立つ数はまだ少ないが、最初よりはましになるくらいの経験にはなっているはずだった。ミストに教授した経験では。だが、タニスに至っては、まったくの進歩が見られないのだ。あれほど見事に手綱と剣をさばく姿からは想像できないほどの不手際さで。
しかし、調味などの肝心の部分はオスカーの手によるものなので、見栄えが悪くなった以外は変わらぬ食事だった。長旅と戦に疲労している兵士らが食料の外見を気にするはずもなく、腹に収まった食料は兵士らの充分な滋養となっていた。

 だが、弟はそんな事を言っている訳ではなかった。それはオスカーも気付いている。しかし、弟の口から出たのは、彼には予想だにしていない事だった。
「親父似だよな。兄貴って」
 それには、さすがのオスカーも眉を寄せて弟を見遣る。ボーレはにやついて兄の前に座っていた。
「父さんに……」
 思わず反芻したが、徐々に嫌悪感がこみ上げてくる。ボーレはオスカーの心中を理解できずに目を丸くしていた。無理もない。父親が二人の母親に、そして自分たちを裏切っていた事を、ボーレは知らないのだから。彼の親への恨みは、父よりも、幼い自分とヨファを捨てて出て行った三番目の母への方に傾いている。
「美人が好きなところ」
 オスカーの表情から、ようやく読み取ったのは、どこが似ているか、というものだったらしい。ボーレははっきりと告げた。告げたのだが、それはオスカーの納得のいくところではない。
「それは誰にでも当てはまると思うが」
 美人が嫌いな男などまずいない。それに、オスカーが父を嫌悪していた理由である異性関係の部分を指摘され、不快感は増すばかりだった。
「うーん、でも何かなあ。美人の種類が親父の好みに似てるというか」
「母さん達とタニス殿は似てないぞ」
 短い髪に、騎士という生業、そして高貴な血は彼女を中世的な美しさに仕立てていた。反面、記憶の中の三人の母たちは、絵に描いたような村女、蓮っ葉な街娘のような風体だ。内面も、厳しさや毅然としたものは見えない。
「でもなあ、上手くは言えないんだけどさ、おれ達の中で兄貴が一番親父に似てると思うんだ」
「ボーレ」
 外見上では、ボーレの方が父親に似ている。オスカーの母の死後、身重の女と父が再婚し、生まれたのがボーレだ。別の胤のはずのボーレが父親によく似ていると村中で噂になり、肩身の狭い思いをした記憶は今も強く心にある。
 しかし、弟は単なる顔体つきではなく、内面的な部分を指摘していたのだ。それこそオスカーの否定したい部分であった。多感だった少年の頃、妻を失った悲しみを別の女で埋める父を嫌い、村を出た。メリオルに行っても華やかな都市に染まる事なく邁進してきたのだ。
「うん、そうだぜきっと」
 オスカーのたしなめる声も、弟には届いていないようだった。
「村の司祭様も言ってたし」
「司祭様が……」
 兄弟の憶測より、村の長老の存在がオスカーの胸に突き刺さった。ボーレは幼き日の記憶を蘇らせて何度もうなずいている。
「そうそう、村で一番年食ってたパム婆ちゃんも。おれ達の爺ちゃんもひい爺ちゃんも相当女好きだとか言ってたぜ、あの婆ちゃん」
 気の強い女ばかり手を出してたせいか、いつも手酷い目に遭ってたんだと。とからからと笑う。その横で、オスカーは苦い顔を張り付かせて手巾を弄んでいた。



 タニスの生家は、宗教国ベグニオンでは珍しく、爵位を持った軍人の家だった。
 ベグニオンがまだ王国だった頃より、彼女の先祖は多くの武勲を立て、帝国となった際に当時の皇帝より爵位を授けられたのが、華麗なる宮廷の仲間入りの始まりだったと言われる。
 中枢部マナイル神殿に名を響かせたいのであれば、僧侶になる方が近道だ。それがベグニオン帝国の定石だった。しかし、彼女の家の、特に本家に近い男子は挙って軍人の道を選ぶ。彼女の父もそうであり、彼女の母も軍人として名高い家の娘であった。
 そんな家に生まれたタニスだが、女児であるがゆえに、期待されたのは軍人そのものではなく、軍人の妻になる事だった。そして、さらなる武勇を轟かせる息子を産む事。だが、血筋か周囲の影響かそれとも双方の要因か、物心つく頃には自身が騎士になる道を切望していた。
 しかし、騎士になる志は堅くとも、タニスは家に無意味に反抗するなどという愚は犯さなかった。母や侍女長が勧める令嬢の教育を拒みはしなかった。乗馬(あくまで貴族の姫の上品な乗り方で、彼女は既に従卒らに負けぬ馬術を修めていた)に裁縫、料理や化粧など、教師の頭を痛めぬ程度に勤めていた。いたのだが、

「大変申し上げにくい事ではございますが、お嬢様の……料理だけは、その、他の手習いと比べて上達が遅れ……」
 教育係の恐縮しながらの報告に、老侍女長はタニスの父の姉妹たちの姿が閃光のように脳裏に走った。長年この名家の子女を見守ってきた彼女だが、幾人もの教育係より、そう告げられていた。タニスの叔母たち、そのおばたち。男子に嫁いで来た貴族の姫たちはそれなりの腕を持っているのだが、その血を半分受け継いでもなお、この家の娘たちは皆揃って、なぜか料理に関しては落第者なのだ。

 タニスも料理の腕に疑問を持っていたのだが、決定的になったのは聖天馬騎士団に入団しての事だった。身分にかかわらず―――とは言ってもこの騎士団は貴族の令嬢が多く属しているのだが―――新兵は雑用係なのはこの一団の規律でもあり、タニスは遠征にて幾人かの同期と食事当番を命ぜられていた。しかし、何日目かのある夜、従卒として付いていた騎士よりその任を解かれる。
「あなたの淹れるお茶はおいしいのだけどね」
 ふと漏らした彼女の言葉で、自分は料理をしない方がいい人間だと悟った。料理が不得手なのは己の人生に大した損害ではないと思っていたからか、タニスはあっさりとそれを受容れた。それ以来、果物を剥く小刀すらまともに握って来なかったのである。

 だから、クリミアの傭兵と料理の話になり、その流れで教授願う事になるのは正直驚いていた。傭兵風情と見下していた面を恥じるほど、彼は物腰が丁寧で、そして彼の槍や馬も予想以上にタニスを補佐していた。興味が湧いたのだ。オスカーという男に。それゆえに、今度は料理の手さばきを見てみたいと思い、炊事場に足を運んだ。ついでに、教育係も匙を投げた料理の腕も、彼ならば直せるかもしれないと淡い期待も込めて。



「ではタニス殿。今日もここにあるものを切っておいて頂いてもよろしいですか」
「うむ。わかった」
 タニスに頼めるのは専ら食材切りであって、転戦に転戦を重ねている今、皮一枚も無駄にするわけにはいかない。一度だけ簡単な豆のスープをやらせてみたが、何度も確認したはずなのに、塩の分量が多すぎて口にできるものではなかった。塩も加減を間違えれば凶器となる。
 葉菜を切っている割には、ずいぶんと派手な音が隣から聞こえてきた。きっとまな板代わりの切り株の深くまで刃を食い込ませているのだろう。

 食べられればいいんだ。食べられれば。
 そう言い聞かせながらオスカーは鈍い音を背中に肉を切りさばく。野菜切りを任せていると言えば聞こえはいいが、つまりはタニスへの教えを諦めているも同然だった。最初の授業から幾日が経つが、いびつな野菜たちは一向に改善が見られない。それでも彼女なりに真面目に取り組む姿に、断る術を知らないのだ。
 しかし、とオスカーは眉間に皺を寄せて野菜と格闘するタニスをちらりと見る。先日の弟の言葉が頭をよぎり、肉と向き直った。タニスは気が強いというよりかは、負けず嫌いなのだと無理やり答えを創り。
 だからこそ、こと料理に関しては柔軟性を欠いているのかもしれない。そして、彼女はやはり料理などする必要もなく、するべく人でもない事も知ったのだ。そして、それでもなお、不穏な小刀の音を聞いているオスカーは、この時間を楽しんでいるのだと気付いていた。だから、実はとうに匙を投げてしまっている旨は、肩タニスには黙っていようと心に決めていた。見栄えの悪い野菜を差し出す軍友には、心の中でそっと詫びておく事にした。


10-01/26 TOP

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