未だ葡萄には酔えず

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 自慢の翼は、最近では専ら特使として、大陸南方と北方を往復していた。
 戦で各地を転々と移動する事に比べれば、(ひとまず)平和な時代に使いとして外国に赴くのは苦ではない。それに、ヤナフの行く先では、彼女が待っている。クリミア女王を影ながら支える、彼女が。だから、彼の主君も、苦笑とともに書簡を渡すのだ。しかも、今回はさらに手土産もある。

 日差しも程好く、心地のよい空の旅だった。
 クリミア城門が見えると、門兵の前に舞い降りる。以前、城門を飛び越し、直接王の間へ行こうとし、弓で狙われた事があったのだ。その時は、ヤナフと面識のある騎士らが取り成して事なきを得たが。

 門番も今ではヤナフの顔を覚え―――無理もない。門を通り越そうとした上、フェニキス人など、見慣れぬのだから―――大した改めの時間もかけずに門戸を開く。しかし、ベオクの慣習とやらは、やはり彼には受容れぬもので、外交官や他の文官の挨拶の辞句の扉を幾重にもくぐった末に、ようやく謁見の間の扉が開くのには辟易していた。
 そんな中、クリミア女王は、貴族の堅苦しく、かつ媚の混ざったものとは全く別の空気を醸し出し、ヤナフを安堵させていた。かつての友軍よろしく、若き王は、満面の笑みでフェニキスからの使者を迎え入れ、書簡を恭しく受け取った。
 相変わらず腰の低い女王さまだ。ヤナフ自身もそう評すも、冠を載せても傲慢さを欠片も抱えない彼女の姿勢には感服している。


 目的を終えると、ヤナフは使節を歓待する離れの館へと案内された。決して狭くはなく、中央に低い応接机とそれを挟むようにして柔らかそうな長椅子二脚を見つけた。緊張とは縁遠い彼ではあるが、長距離の飛行と慣れぬ世辞を大量に投げかけられ、疲労は想像以上に募っていたようだ。部屋に通され、一人きりになった途端、長椅子に体を放り投げる。
 しかし、それも束の間の安寧だった。扉をノックする音が鳴り、見慣れぬ中年の男が数人、無遠慮に部屋に踏み入って来る。
 またか。
 うんざりした顔を隠す努力もせずに、ヤナフは腰を上げる。媚びへつらう様な笑みは、先刻の貴族たちと同様なのは嫌でもわかる。
 この部屋は、特使がごゆるりとする場所ではなかったのか。そう心中で呟くも、フェニキス、いや鳥翼族と独自の繋がりを持ちたがる者には通じない。ひと昔前までは、ガリアとの同盟関係ですら眉をひそめていた貴族や文官たちだが、現在では、いずれ有用になるかもしれぬと、種族を越えて「友好」を持とうと画策する者もいる。ここ最近、クリミア宮中ではその傾向が強かった。ゆえに、ヤナフの貴族を相手にする機会も、クリミアへ赴くたびに増えていた。
 
 いずれはティバーン王にお目にかかる機会をば―――わが一門の子弟をフェニキスへ赴かせたく存じます―――
 
 そういう類の頼み事には、生返事で対応しているのに。いい加減に心中を気付いて欲しいとばかりに。しかし、それはいくら時間を浪費しようが叶わなかった。己に色よい返事がやって来るまで、聞こえぬふりをするつもりか。

 ため息を何度も噛み殺すが、痺れは限界のようだ。友好的な顔で、部屋から追い出そうと決めた時、救いの手が扉を大きく開け放った。
「皆様。鳥翼国の特使の方は、これから陛下と会食の時間です。どうかお引取りください」
 はっきりとした口調は貴族たちに広がる。女王の近衛の姿に貴族たちは一斉に口を噤んだ。沈黙の空間と化した中、彼らは顔を見合わせると、「先刻の件、どうかよしなに」と笑みを見せながら退室した。返事も疎かに、ヤナフはすかさず扉を閉めた。
「…… ふう、助かった」
 扉に背を預け、盛大に息を吐く。申し訳ありません。と、ルキノは心底悪びれたように頭を下げる。
「さすがにここまで押しかけられるとな」
 凝った肩を解すように、ヤナフは首を回した。ルキノが女王との食事だと言っていた事を思い出し、それに合わせて体も空腹を訴え始めたようだ。
「さて、呼び出しもかかったし行くか。女王陛下を待たせちゃ悪いからな」 
 礼儀だ作法だを重んじるベオクの王侯貴族との食事は、これもまた肩が張るが、いく分か慣れ親しんだエリンシアとの方が、顔もろくに覚えていない貴族の相手よりも遥かに気楽だった。
「あの、それは……」
 しかし、ルキノが少し気まずそうに切り出した。
「それは貴族たちを追い出す口上でして」
 ルキノの手袋に覆われた手が、樫製の扉を開け放つ。台車に乗せられた幾つもの皿が、ヤナフを待っていた。
「貴族たちがあなたの所へ行こうとしていたのを知ったものですから」
 それで、給仕から台車を代わり、やって来たのだと、ルキノは告げた。
「陛下は現在、別件で城にはおられないのです。どうかご容赦ください」
「いいって、別に謝る事じゃない」
 ルキノは律儀に頭を下げるが、ヤナフにとって、それは願ってもない事だった。こうして、二人でいる何気ない時間ができたのだ。
「飯なのは本当なんだからさ」
 クリミア女王も気を利かせてくれたに違いない。そう思えば、口の端が上がり、白い歯を見える。遠慮なく頂くとするか、と台車の方へ歩み寄るが、ルキノが颯爽とそれを遮り、皿を卓に並べ始めた。
「なあ。給仕さん。食事も付き合ってくれるのかい? 」
「特使どのがお望みならば」
 言い終えた途端、同時に噴き出す。台車の上の大小の皿は、一人分にしては多すぎるのだ。
 大皿の蓋を開けた先から湯気と香ばしい匂いが上り始める。
 しばらく夢中で口に運んでいたが、正面の長椅子に座るルキノが、さもおかしそうに自分を眺めているのに気付く。
「……なんだよ」
「そこまで喜んでいただけるのが光栄でして」
 故郷の大雑把な味付けと比べ、ベオクの料理は手が込んでいる。クリミアへの使いも、これを楽しみにしている部分もあった。
 端正さが綻ぶ様子を見るのは、ヤナフとしても嬉しい。しかし、どうも腑に落ちない。どこか、見下ろされているというか、美味しい物を頬張る子供を微笑ましく見守る親というか。
 それが面白くなく、少し乱暴な手つきで側にあった土焼きの瓶を手にする。栓を開けると、葡萄の芳香が一度にヤナフの鼻腔を刺激した。
「ほら」
 憮然としたまま、瓶の口をルキノに向ける。常に酌を断り続けていた彼女は、いともあっさりと、ありがとうございます、と杯を手にした。
「へ? 」
「ヤナフ殿、どうしたのですか? 」
 絶対に断られると予想していたため、呆気な酌にく応じた事に却って唖然とする。
「い、いや、あんたも大人になったんだと…… 」
「? わたしは前から大人ですが」
 その答えに、さらに衝撃を覚えた。前からとはいつからかなのかはわからない。しかし、鳥翼族が統一されてより、特使として頻繁にクリミアへ飛んでいたのだ。いつか一緒に酒を酌み交わそうと誓った仲ではないか。大人になった事をなぜもっと早く知らせてくれなかったのか。
「あの、ヤナフ殿? 」
 余程渋面だったのだろうか。ルキノが恐る恐るヤナフを窺っていた。
「ふん、まあいいさ。おれからの大人になった祝いだ」
「は、はい…… 」
 ルキノは意味が飲み込めていないといった顔で、ヤナフからの酌を受けた。
 自らの杯を傾ける手も止まり、酒を飲むルキノをじっと見つめる。彼女が大人になったゆえの感慨深さではない。だが、小さな仕草にもつい魅入ってしまうのが、惚れた弱みとも言うべきか。
 ヤナフの視線に気付いたルキノは、不思議そうに視線を送る。白い頬はまったくと言っていいほど平静のままで、ヤナフは少しつまらなそうに鼻を鳴らした。
 ルキノが酒を興じる姿を始めて見たのだが、慣れぬ酒精に、もっとこう、何かしらの反応を示して欲しいというのが本音であった。当然、彼女が成人したばかりだとか、酒には慣れていないなどは、ヤナフのまったくの妄想であるのだが。あわよくば、泥酔した彼女の姿を見てみたいとか、まともに立つ事も叶わなくなった彼女を介抱したりして、などと妄想を超えた期待が胸の中に渦巻いていたのだ。
 それを真っ向から否定されてようやく羞恥心が芽生えてきたようだ。ヤナフは勤めて平静を装い、己の杯を傾ける。クリミア産の葡萄の甘い香り。フェニキスでは獲れないそれを、期待を打ち消すように流し込む。しかし、予想していた酒精は喉を刺激せず、変わりに匂いよりも甘ったるい液体に満たされた。あまりの甘さに思わず咳き込んでしまう。
「大丈夫ですか、ヤナフ殿」
 ルキノが慌てて中腰を上げ、布巾を取り出す。
「…… 酒じゃなかったのか、これ」
 甘い芳香に唖然としていたが、それが薄れて行くと同時に怒りがこみ上げて来る。甘い物だと覚悟していたのだが。これはただの葡萄果汁だった。
「はい。そうですが……? 」
 それがどうしたのかと、目をしばたかせるルキノに、ヤナフは眉を寄せる。歳はともかく、陽の高いうちから客に酒を出すような真似は、クリミアはしない。だが、ヤナフは彼女がまだ酒が飲めぬゆえに、ただの果汁を持ってきたのだと思い込んでいた。
 釈然としないまま、ルキノをじっと睨んだ形になるも、姿勢は食事に向き直る。ルキノも変わらず不思議そうに視線を向けるが、ヤナフに倣った。
 酒を酌み交わす約束は、またしても果たされはしなかった。口惜しい事には変わりない。しかし、せっかく二人きりで会えた時間なのだ。それをどう有効に使おうか。それと、フェニキスから持って来た贈物も、彼女の眼前に出る時を荷袋の中で待ちわびている。ヤナフは咀嚼しながらそれらを思い描いていた。甘い葡萄の果汁と芳香は、まだ彼の口の中に残っている。


10/01/06TOP

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