祝い酒



 長兄の厳しくも、悲しそうな顔を推して森を飛び出してしまった。心地よく流れる風も、心配そうに並んで飛んでくれる鳥たちもリアーネを慰めてはくれるのだが、森を出る時に感じた、ラフィエルの翳りを露にした気配が重く胸に残っていた。
 それでも、すぐ上の兄の物言わぬ悲痛な叫びが、ラフィエルの心配にも勝っていた。それは、リアーネの胸に小さな欠片となって突き刺さった。それがよりリュシオンの心を傷付け、悩む彼を遠くフェニキスの地へ追いやってしまった。
 愛する者と添い遂げる。それを公言してから、リュシオンの心は淀んで見えた。確かに、ネサラはベオクと手を組んで、鳥翼族の同胞を陥れた。リアーネはネサラの贖罪は完全に消えたとは思ってはいない。しかし、まだ幼さが残る鷺の姫には、鳥翼族間に出来た渓谷の深さが行き渡らなかった。
 だから、直接リュシオンに会って、わかり合おうと決めた。このままでは傷つけ合っているだけだった。話せば、きっと兄の心も晴れるに違いないと。
 供もつけずに森を出るのは初めてだった。徐々に生気を取り戻しつつあるセリノスの森の気は、一人旅を心細く感じたリアーネを支えてくれる。吸い込まれそうな深い海の恐怖から守ってくれ、フェニキスへ無事辿り着く事ができた。残念ながらリュシオンはいなかったが、また海を越えて大陸へ行けばいい。小柄な身体を、翻して純白の翼を羽ばたかせた。
 あと半刻もすればベグニオンの帝都が見える。幾つかの神殿の屋根が見え、リアーネはそのどこかにいるであろう兄の姿を思い浮かべる。再び森の気がリアーネの身体に流れ、長旅の疲れを洗い流してくれるように感じた。
「おい、あれ……」
 地上から、ベオクの声がはっきりとリアーネに聞こえた。ベオクだというのは、地上を見ずとも気配でわかる。好奇の響きを含んでいる事も。この気は、森を出て行く前にラフィエルから散々言われた事だった。いや、それ以前にもリュシオンからも、ティバーンからも、婚約者からも釘を刺されていた。リアーネは、周囲の諫言を全く視野から外していた訳ではない。ただ、ベオクが多くいる場所へ赴くのが予定外だっただけだったのだ。
 鷺の民じゃないか、という言葉に、身体に緊張が走る。恐ろしい事が起きる前に、兄と合流しなければ、と白い翼を鳴らした。
 大丈夫だ。今の皇帝は、ベオクは自分達には悪い事はしない。そう言い聞かせながらも、土を蹴り、自分の影を追いかけるベオクの男達の気配は、二十数年前のそれに似ていた。心中で、何度も兄と黒い翼の婚約者の名を叫ぶ。
「おい、弓、誰か弓を持っていないか」
 その声は、大物を捕らえる興奮に染まっていた。恐る恐る下を見ると、三人のベオクが期待をみなぎらせてリアーネに視線の矢を放っている。その手には、鉄が付いている長い棒がある。それでは空には届かない。しかし、その中の一人が「弓」という言葉を発しているのがわかった。リアーネは懸命に羽をはためかせて一番近くの神殿を目指した。
「急げ、弓だ、弓!一生遊んで暮らせる金になるぜ」
 最後の言葉はよくわからなかったが、自分を捕らえようとしている事は確かだった。リアーネの胸に失望と恐怖が同居し始めた。鼻の奥から脳裏にかけて、血の流れが止まったように思えた。それでも、兄の姿を思い高度を上げる。長距離の飛行のせいか、背中の翼が急に重たくなり、自分のものではない感覚がした。
「いけるぞ!弓を早く!」
 背中に欲望が入り混じった声を受け、固く目をつぶり兄と婚約者の名を呟いた。それから間もなく、白い羽毛が舞う澄んだ空からリアーネのものとは違う羽音が聞こえた。それは次第に大きくはばたき、リアーネを、地上のベオクにまでも覆うような影となった。その影を見上げた瞬間、リアーネの緊張と恐ろしさが混ざった表情が一瞬にして光が灯った。




 困った事になった。
 狭いとは決して言えない部屋だが、喧騒に近い声はその広さに負けずに響き渡る。歌で培った声量なのだろう。しかし、感心して傍観してはいられない。繊細で、争いを知らぬはずの白鷺の口喧嘩など。
 蔦模様の擦りガラスは、陽を常に柔らかなものにする。その窓辺から身を放し、ため息に近い声を金糸の髪と純白の翼を持つ背中にかけた。
「リュシオン王子、元はと言えば王女を捕らえようとした不埒な輩に非があるのです。単身でここまで来られたのも王子を思っての事。もう妹姫をお許しになられてくださいませ」
 なだめる様に伝えるも、こちらに振り向て瞳を向けられた瞬間、青い炎に射抜かれた感覚がした。戦いには慣れているはずだが、その矢に怯み、思わず立ちすくむ。
「シグルーン殿。妹を助けて頂いた事は感謝している。だが、これは軽率な事をしたリアーネに問題があるのだ」
 発端は彼女の主が公務を放り出して外を眺めていた時から始まった。鳥翼族の要職と会見があるために、この日は帝都ではなく、シエネより南の、海が臨めるマリズエラ神殿にて公務の場を移していた。しかし、それは好奇心の旺盛な皇帝の探究心を刺激するだけだった。机上に書類の山岳を作り、バルコニーの手すりに身を乗り出していた皇帝をシグルーンはたしなめようとした。少女皇帝の細い指が潮風をわずかに含んだ空を指す。それを辿れば、神殿付の農夫達が白鷺の王女を捕らえようとしている現場が目に入った。シグルーンは、急いで天馬に跨った。しかし、危機を脱したはずの王女はそれでも悲痛な色を消さなかった。「兄を探している」との片言に、シグルーンは未だベグニオン国内にいるであろう白鷺王子の姿を探し出しす事ができた。そして、現在に至る。
 兄妹の感動の再会は、お互いの怒号で幕が開かれた。兄リュシオンは妹の軽はずみな行動をただひたすらに責め、妹リアーネは兄のせいだと叫ぶ。二人の美しく、涼やかな声色に含まれる怒り、片言の言葉、時折混ざる古代語。穏やかで争いを厭うと言われているはずの鷺の兄妹が、一歩も引かずに口論を繰り広げていた。
「兄さま、ネサラのこと、きらいなの……?」
 次の言を繰り出そうと息を吸ったリュシオンだが、その言葉に呼吸が止まったように凍りつく。先刻までの勢いは完全に失せ、妹から目を逸らした。鷺の民は胸中に反する言葉は紡がない。だから、リュシオンの態度が余計に彼の心中を表してしまう。ベオクのシグルーンの目にも明らかなリュシオンの動揺は、人の心を感じ取るリアーネには手に取るようにわかっていた。怒りと興奮で赤みが差していた頬がわずかに震えていた。
「……いさまの」
 リアーネの瞳には、涙が浮かんでいた。瞳の色と相まって、さながらセリノスの森の泉を思わせる。しかし、その澄んだ泉は急に鋭さを孕み、兄へと向けられる。不意を突かれたのか、リュシオンは吊り上げられた妹の瞳にうろたえる。その一撃を兄に加えると、リアーネは胡桃材の飾り棚へと大股で歩み寄る。柳のような指が棚へ伸ばされた途端、シグルーンが悲鳴に近い叫びを上げた。
「リアーネ姫様……!」
「にいさまの、ばかぁっ……!」
 制止を含む響きも虚しく、リアーネは大理石の女人像を掴んだ。その先は、予想がついたがシグルーンですら止められなかった。戦う術を知らぬ鷺の民。知らぬはずであった。その王族たるリアーネが、このような暴挙に出たという事実に、驚愕で縛り付けられてしまったのだ。同族である攻撃対象も動揺だった。女体を模った大理石が円を描いて己を目指しているのをただ目を見開いて立ちすくむだけだった。非力な姫とは言え、力任せに肘ほどの石像を投げれば、その衝撃は軽くはない。リュシオンの身の危険を察したシグルーンと執務室の扉が同時に動いた。
「リアーネ……!」
 大きく扉を開いたネサラの視界に入ったのは、リアーネとリュシオンの後頭部、それを越えて回転する物だった。それが何かを理解する事なく、額に鈍い衝撃を受ける。その痛みに短く呻いてネサラは膝をついた。衝突した像は絨毯の上を少し跳ね、ネサラの膝下にごろりと転がった。
「ネサラ!」
 投げた本人が口に手を当てて悲鳴を上げる。慌てて婚約者の下へ駆け寄った。
「ネサラ、ごめんなさい、いたかった……!」
「お前が、投げたのか……?」
 額に手を当てながら、毛足の長い絨毯に寝転ぶ女人像とリアーネを交互に見やった。近くで見ればこの部屋の主にどことなく似ている事、それが無傷な事が、痛みよりも苛立ちを強める。
 涙を浮かべ、ごめんなさいと繰り返すリアーネを宥めようとするも、もう一人の人影が近付いていた事に気付いた。膝を突き、リアーネから渡された手巾を額に当てたまま見上げる。
「リュ、シオン」
 口内で呟いた名は、彼の耳にも届いたらしい。しかし、その途端に整った顔を歪めた事がネサラには理解できなかった。
「……『リュシオン』……?」
 怒りだけではない複雑な感情が渦巻いているのがネサラにも感じ取れた。白鷺王子の眉間の溝は、相も変わらず深く刻まれている。時には生命を吹き込む旋律を奏でる唇は、ネサラに無機質な言葉しか発さなかった。
「お前は、私の妹の婿になるのだろう」
 何だ、結婚を反対していたんじゃないのか。
 直後にそう思うも、リュシオンの言葉の意味を理解した瞬間、体中に痺れが走った。額の痛みを忘れ青い瞳を見返すも、濃い青は陰り、深い海を思わせた。ごくりと、ネサラは喉を不器用に鳴らす。口の中の水気が全て引てしまったようだった。
「……え……」
 掠れた声で、ようやく語尾だけを絞り出したが、案の定リュシオンはそれに満り足りえないようだった。ネサラの頭頂部に突き刺さるような視線を送っている。
「義兄、上」
 小さいが、周囲の者には確かに聞こえるはずだった。だが、それでも義兄となる白鷺王子は彫像のように表情を変える事はなかった。観念して、ネサラはもう一度唇を動かした。
「義兄上、さま……」
 その言葉を聞き届けたらしいリュシオンは、周囲が見守る中、無言で転がる像を広い上げた。ネサラはただその所作を見つめるしかできなかった。
 リュシオンの指が、模られた女人の後頭部で動いていた。指先にほんのわずかに赤みが差しているのがわかる。次の瞬間、その像がネサラに向けられたかと思うと、強烈な匂いと痛みが襲った。
「ぐあっ……」
 再び額を押さえてうずくまる。無遠慮に浸入する痛みと、匂いでそれが酒なのだとわかる。傷には害はないが、歯を食いしばらなれば痛みに耐えられそうになかった。リアーネとシグルーンが心配そうにネサラの様子を伺うが、痛みを負わせたリュシオンは平然とネサラを見下ろしていた。
「セリノスへ帰る。兄上と、婚礼の儀での歌を話し合わなければならんからな」
 誰に向けられたのもでなく淡々とそう告げ、リュシオンは執務室の扉を開け放った。痛みに耐えながら、ネサラはその目に颯爽と歩く姿を映していた。



 婚礼の儀は、清らかな気に満ちたセリノスの森にて、滞りなく行われていた。
 一度は暴徒によって破壊された森だが、取り戻しつつある生気が祝福の場を彩っている。凄惨な虐殺の傷跡は未だ残るも、幸せな祝典はその傷も柔らかく包み込む。花嫁の父も、自身が長い昏睡から目覚めたばかりであったが、今日の祝賀に喜びを見せていた。まだ立ち上がる事は叶わないが、輿の上で式を見守り、時折涙を浮かべていた。
「しかし、とんだ騒動だったな」
 形式的な儀式は終わり、現在は長兄ラフィエルが、妹である花嫁へ歌を捧げていた。勝手に「来賓席」とした樹木の梢にて、ラフィエルの繊細だが芯の通った旋律を聞きながら、フェニキス王は杯を傾けていた。
「リュシオンのやつめ」
 今回の騒動では蚊帳の外ではあったが、まるで自身が身を粉にしたような響きを含んでいた。その声色と仕草に、すぐ上の枝で酒瓶ごと傾けていた側近が肩をすくめる。口を離した酒瓶の口を、そのまま王の木杯へと向けた。
「寂しいのでしょう。再会して間もない妹君ですから」
 酒が作り出した波紋から視線を上げれば、祭壇の近くの幹に背を預けている狼女王の姿を捉えた。伴侶の紡ぐ旋律を聴いているのだろう。口元は柔らかく、一つだけの瞳を閉じていた。
 再会して間もないのはラフィエルも同様ではないか。ティバーンはウルキの言への疑問を胸中で呟いた。ラフィエルは森の気配が安定した後に、妻と共にハタリの砂漠へ戻ると宣言していた。その時は、リュシオンの気配は少し波紋ができただけで「兄上が決めたのなら」と認めたのだ。セリノスよりも遠く、鷺の民どころか鷹の民も立ち入る事は困難であろう砂漠へ。キルヴァスの居城にて暮らす事になるリアーネなどとは比べ物にならない隔たりだった。
「……結局は、ネサラの野郎が悪いって事だな」
 何度思考の枝葉を伸ばそうが、最終的な考えはそこに至る。
「恐らくは」
「恐らくも何も、絶対そうだろ」
 側近達も、王の言葉に強く頷く。それぞれが口角を上げながら。ティバーンだけではなく、鳥翼族の誰もがそこへ行き着いていた。
「ああそうだ。ネサラの野郎が悪い」
 だから死ぬまで働けよと、無骨な手の中の杯を祭壇上の主役達に掲げた。
 


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