きみのための子守歌

 傭兵団の砦も老朽化がかなり進んでいると思っていたが、この小屋はそれに輪を掛けて酷かった。
 野盗達は、このぼろ小屋へ二人を文字通り放り込んだまま、戻って来ない。甘く見られているのか、用済みと判断されたのか。ぞれぞれの後ろ手に縄をかけられたのみであった。外に見張りを置いている様子でもない。
「みんな、どうしてるかな」
「さあな」
 半刻もこの状態で、さすがに落ち着きを取り戻したのか、ミストは不安の翳りもあまりない口調で、ボーレに声を掛けた。隙間だらけの扉の近くを調べていたボーレは、それを振り返りもせずに答える。さすがに、扉は頑丈に鍵を掛けられているようだ。しかし、かなり老朽が進んでいる。斧、いや何か硬い物でもあれば簡単に破れる。ボーレはそう踏んでいた。けれども、この小屋は古びた筵と何かの木箱が幾つかある以外は、黴の匂いと、鼠しかいない。
「わたし達の事も、きっと気付いてるよね、きっと。みんな助けに来てくれるよね」
 あくまでも明るいミストの声にボーレの苛立ちは募っていた。むくりと立ち上がり、ミストを見据える。
「な、何よ……」
 ボーレは口を噤んだ。確かに、この状況は最悪とは言えないが、良い状況とも言えなかった。二人が連行されている道中、確かにボーレの耳に入って来た野盗の声。それは、ティアマト達の本隊とは別の盗賊団だと確信するものだった。例え、仲間達がボーレとミストの異変に気付いても、この場所までも特定する事までは困難だろう。助けを待つなど、得策とは言えない。
 だが、それをミストに言っていいものか。それを悩んでいた。下手に不安にさせてしまって良いものなのか。
「お前もここから出られる方法を考えろ」
 不躾にそう告げると、再び小屋の捜索に戻った。ミストはそんなボーレに驚いたのか、反抗もせずにそれに従った。太陽は西へと傾いて来ていた。
 夜になれば、状況はさらに悪化するだろう。その前に、打開策を練らなければ。ミストをこのような目に遭わせてしまった自責の念も手伝い、ボーレの心中に焦りが影を落とす。せめて、ミストだけでも助かる方法はないだろうか。
「ボーレ!」
 ミストの希望を孕んだ声に、ボーレは振り向いた。小屋の隅、薄汚い箱の近くをミストは見下ろしている。ボーレが近付いた瞬間、清涼な空気に包まれた。土壁が剥がれ落ち、そこを筵で隠していただけの補修。ボーレはその穴に頭をくぐらせた。黴臭い空気からの開放に、思わず深呼吸してしまう。まだ樹海の中ではあるらしかった。しかし、この小屋の他に、建物も、野盗の影すら見当たらない。「よし」と、ボーレは小さく呟いた。望みは大きな道となったのだ。
「ミスト、外には誰もいない。だから……」
 ボーレは左肩を竦め、首に架かっている呼び笛の紐を歯で引っ張った。小さな音を立ててそれは千切れる。
「これを持って出ろ」
「何で?」
 その言葉に、ミストの顔が強張る。
「この穴はお前なら通れる。お前だけでも逃げろ」
 広大な樹海だが、この笛ならば仲間も気付いてくれるだろう。しかし、ミストは首を横に振るだけだった。
「おれ達を捕まえた奴と、仲間と戦ってた奴らは違う盗賊団なんだ。傭兵団の連中がおれ達が捕まってる事に気付いても、助けようもねぇ。おまけに陽ももうすぐ暮れる。だから、な?」
 苛立ちを抑え、諭すようにボーレは言った。ミストは、ボーレの懇願に近い言葉を受け、俯いてしまった。
「……いやだよ……」
「こんな時にわがまま言ってんじゃねぇ!」
「嫌」
「馬鹿、この状況で何言ってるんだ」
「嫌だって言ってんの!ボーレの馬鹿!ボーレの馬鹿!ボーレの馬鹿!」
「三回も言うこたあねぇだろ!」
 反論する場所が違う。自分でもそう思いながらも、口角に泡を飛ばす。咥えていた呼び笛がボーレの口から落ち、からんと乾いた音を立てる。それが境目になったように、辺りはしんと静まり返った。
「ボーレを置いて一人で行くなんて嫌だよ。一緒に帰ろうよ」
 ミストの目には、涙が浮かんでいた。ボーレはそれになぜか、数日前の訓練場での出来事を思い出す。
「一人なんて、嫌だから。ね?だから、二人で出られる方法をもう一度考えようよ」
 これ以上強く言えずに言い淀んでいると、こつん、とミストの頭がボーレの胸へ預けられた。その瞬間、あれだけ考えてもわからなかったものに気付いた気がした。アイクが傭兵団を去った時も、あの訓練場での涙も、そして今。これが答えじゃないのか。ただ一言、ミストに言えば良いのではないのか。ミストはそれを、待っていたのではないのか。
「ミ、ミスト……あのな……」
 ミストはそれに期待するかのように、ボーレの胸へ半身の体重を預ける。
「ボーレ、もう少し、このままで……」
 耳を胸に当てて、そっと目を閉じているのが判った。ミストが何か呟いているが、それは吐息に近く聞き取る事ができない。心臓の音が、聞こえてしまうのではないか。そう危惧してしまうも、残りの言葉を紡がんと口を開いた。樹海の木々の擦れ合う音も、ボーレの鼓動に同調するようにざわめいていた。
「ミスト、おれ」
 風の音は徐々に強くなり、次第に空気を切り裂くような鋭い音へと変わって行った。老朽化の激しい小屋は悲鳴を上げるように音を立て、所々に亀裂を作って行く。

 おれがずっと傍にいる

 小屋諸共、ずっと言いたかった言葉は爆音に吹き飛ばされてしまった。
 
 辺りの樹木までもが豪風に薙ぎ倒されていた。そのはずなのに、自分達は全くの無傷である事に、ボーレは状況が理解できなかった。目の前には、夕暮れに溶け込みそうな髪をなびかせながらセネリオが立っている。
「随分と手間取ってしまいました」
 セネリオは持っていた小刀でボーレとミストの拘束を解いた。その間、樹海には複数の盗賊団が潜んでいる事、二人を捜索するついでにその全てを攻撃していた事を淡々と説明した。そこで、ようやくあの爆風はセネリオの風魔法である事に気付いた。
「助けが来て良かったね、ボーレ」
「お、おう……」
 顔を綻ばせたミストに、ボーレはそっけない返事を返す。助かったのは良いものの、結局言いそびれてしまったのだ。ばつが悪そうに周囲を見渡し、長い束縛で固まっていた腕を伸ばした。それでも無邪気な少女の声は、続けられる。
「わたしのマジックシールドの魔法も、中々のものでしょ?まだあれだけ密着してないと二人も守れないけどね」
 伸ばしていた腕をぴたりと止める。あれだけ蒸し暑かった樹海は、陽が沈めば急に寒くなるようだ。心中が凍りつくように感じるのも、きっとこのせいだ。ボーレはそう強く願わずにはいられなかった。



「ボーレ、大変だったね。……そんなに辛かった?」
 後に他の盗賊団を壊滅させていた仲間達と合流し、無事に傭兵団の砦へと戻る事ができた。しかし、それからボーレは食堂の机に突っ伏していた。力なく、気力もなく、時折すすり泣くような声が漏れる。
「杖は魔力と魔法を増幅させる物って聞いたな。熟達した者なら杖がなくても魔法をかけられるけど、魔力の消耗が激しいから普段は杖に頼ってるってキルロイが言ってたよ」
 
 そう、だから、あれは決しておれに対してどうのという訳ではなく、ただ魔法の為だった。
 
 その事実が、いつまでもボーレの胸中に突き刺さっていた。すべては空回りだったのだ。ミストを守ろうとした事、全てが。
 自分のやった事は何だったのか。作戦の為に囮になり、突然ミストを巻き込んで野盗に捕まり、妙な期待を抱いて―――今日一日の出来事を何度思い返してみても、虚しさがこみ上げてくるばかりであった。厨房に立つ兄の溜息が聞こえた。
 
 そうだよ兄貴、放っておいてくれよ……
 やがて、その厨房から兄の包丁の音が聞こえて来た。夕餉の準備なのだろう。小気味良い音が、一定のリズムで食堂に響いている。それに呼応するかのように、疲労が沸いてくるように感じた。

 
 食堂の入り口に、明るい茶色の髪がふわりと揺れる。
「あ、ミストちゃん。どうかしたの?」
 ミストは小走りに近付いて来たヨファの肩越しを一瞥すると、「ううん、何でもないの」とその場を通り過ぎる。それを見送る事もなく、ヨファは再び長兄の下へ戻った。ミストの手には、真新しい長袖のシャツがあったが、誰もそれを見る事はなかった。
「兄さん、今日は何?」
「依頼主からたくさん鶏肉とバターをもらったからね。シチューにしようかなと思ってるんだ」
「ボーレ聞いた?シチューだって」
 ヨファが食卓を振り向いた時には、ボーレはすでに意識を手放していた。立ち上る湯気に包まれて、心地よさそうに寝息を立てている。
「お前はいつもあと一歩で取り逃がしてるんだな」
 軽快に包丁を操る手はそのままに、オスカーはぽつりと呟いた。