しあわせな時間軸


  南の海が見える小高い丘に、その家はあった。けして大きくはない。だが、真新しさを感じさせる丁寧に作られた煉瓦の壁が、強い潮風から主を守って来た。
 年期を感じる肢体は、だがしっかりとしていて、若い頃と変わらない足取りで海を臨まんと歩む。正確には、この海の向こう側を。水平線の向こうから自分の姿はわかるだろうか。それとも、年老いたこの姿などもう興味はないのだろうか。
 品よく結われた髪は少しだけ色褪せてしまったが、それでも晴れ渡る空の色に似ていた。この髪が好きだ、とあの人は言っていた。あの人は無垢な少年のような顔をくしゃくしゃにして今でも笑っているだろう。その笑顔を見たいと何度焦がれただろうか。照れた時、逃げるように反らす横顔に何度口付けたいと思った事か。
 朝日が昇り始めた、透き通るような白い空。小高い丘の向こうからいくつもの煙立ち昇った。人々が目を覚まし、生活をしている証であった。その小さな煉瓦の家からも、もくもくと煙を吐き出している。風は海へとそれらを誘い、白い空へ溶かして行く。だが、この家の煙だけはゆっくりと、白い空へ手を伸ばさんと昇って行く。高く。高く。

 朝露が消える頃、水平線の遥か彼方から黒い影が見えた。
 ああ、あの人だ。来てくれた。
 視力がかなり弱くなった目を細める。でも、あの人からなら自分の姿はもうわかっているだろう。こんな老いた姿になって、失望していないか。そんな不安と焦がれ、この二つが混ざりあって、胸が早鐘を打っている。
 若い頃に始めて出会った圧倒的な存在感。その大きな翼に包み込まれた時の、潮の匂いと安心感と愛しさが込み上げて来た。一瞬だが、出会った頃の、自分がまだ若い娘である錯角に陥ってしまった。やはりそうだ。変わらない、顔をくしゃくしゃにした笑顔。でも、少しだけ大人びた感じがしたかもしれない。
「なーに泣いてんだよ」
 そう言ってそっと目元を拭った時に初めて泣いているのに気が付いた。この長い時間がたくさんの物を変えてしまった。身も心も随分と年老いてしまった。
「あんたイイ女だよ。今でも変わんねぇ」
 
 わたしのせいで、わたしの我侭で、こんなに遅くなってしまいました。
 
 こんなにも不安な気持ちを他人に曝け出した事はなかった。この長い年月で、心を守る鎧も脱いでしまったようだった。
「あんた真面目だからな。待ったよ。あのお姫さんが立派な王として務めを果たすまで。でも、ちゃんとこうやっておれとの約束を果たしに来てくれたじゃないか」
 
 ですが、もうわたしには時間がないのです。
 
「確かにあんたにとっては長い年月だったかもしれない。おれも結構長く感じたなあ。でもさ、例えほんの一瞬でも、一緒にいられる時間があるなんて……その……」
 饒舌だった彼の口は急に閉じ、青い視線から逃れるように顔を横に向けた。
「その、な、し、幸せなんじゃねえの?」
 照れ隠しのようにニカっと笑い、真直ぐな肢体を勢い良く抱きしめた。頭上に薄茶色の羽根が降りかかり、同時に潮の匂いがふわっと鼻腔をくすぐった。
「だから、泣くなっての!な?さあ行こうぜ?」
 どこへ?と青年の顔を見上げた。
「どこだっていいさ!二人で暮らせる土地なら、どこへでも行くさ!」
 そう早口で言い放つと、細い体を抱きかかえ、翼をはためたせた。淡い緑の絨毯の上に濃い影と薄茶色の羽根を落とす。
 フェニキスから吹く潮風と、柔らかい陽の光が、力強く羽ばたくその背中を押している様だった。
06/03/24 戻る