四年目の空



 このところ、晴天が続いている。
 今日も澄み切った薄い水色と陽光を跳ね返すような眩しい白の世界が広がっていた。
 ぼんやりとそれを眺めている内に、無意識に思い描く光景があった。晴れ渡った空に、天馬が駆ける姿が。雲のように真っ白な翼が青い空を切り、流れる風は主の桃色の髪を掬うのだろう。

「……ビン副団長」
 平野にその声は静に響き渡った。
「ケビン副団長!」
 それでようやく馬上のケビンはわれに返る。補佐役が兜の下から怪訝な視線を投げているのにも気付く。首を軽く振って前を向けば、騎士たちが整然と彼の前に並び、静寂を作っていた。
「全員揃いました」
「あ、ああ。そうか」
 彼らしくなく口の中で呟くように返答し、手綱を握り直す。主人を乗せたままずっと動かずにいた鬱憤か、ケビンの愛馬が主の下でせわしなく胴を揺らしたり、蹄を踏み鳴らしたりしていた。
 
 ようやく本来の声量が戻り、立ち並ぶ騎士たちに訓練の内容が響き渡る。彼の傍の補佐が号令を放ち、馬具の金具すら鳴らさなかった騎士らが、一斉に土埃を上げた。
 その様子を厳しい面持ちで睨んでいる中年の補佐役だったが、ふいに視線を変えると、再び心配そうに馬上の上官に声を投げかけた。
「副団長」
「うん?どうした」
「天候でも気にされているのですか」
「いや、違う!そんな事はないっ!断じてないぞっ」
 急に声を張り上げるので、補佐の兵はたじろいでしまった。「失礼しました」と頭を下げるも、口を半開きにして空を仰いでばかりでは、部下らに示しがつかないではないか、と胸中でぼやいた。



 三日ほど前の事。
 それは、クリミア王国宮廷騎士用の食堂前へ、偶然ケビンが通りかかった時から始まる。昼時はすでに過ぎ去り、副団長としての業務に間が空いたため、個人鍛錬の道中だった。
「ったく、なんであの娘が、あんな奴なんかと……」
「しょうがないさ。蓼食う虫も好き好きってな。……にしても、もっといい相手がいたとは思うがな」
 午後から非番の騎士たちだろう。人影の薄くなった食堂で遅い食事を囲んで話をしていた。どうやら、若い騎士の意中の娘が他の男を選んだらしい。
 騎士ともあろう者が、色恋沙汰に精神を揺るがすなどけしからん。
 真っ先に愚痴を零す騎士を糾弾する言葉が浮かんだが、実際に彼に叱咤する気はなぜか起きなかった。それどころか、食堂の入り口の影に立ち止まり、交代後間もなくの時間を楽しむ青年たちに傍耳を立てていた。その行為こそ、騎士にあるまじき行動だとは彼の頭からきれいに消え去っていた。

「ああ、クリミア宮廷騎士団の貴重な資源がまた一つ消えた……」
「あのな、軍隊内に女を求める方がかえっておかしいだろ」
「お前は、いい所の坊ちゃんだからそう言えるんだ。いざとなりゃ親類から貴族の令嬢を紹介されるだろうよ」
「おれの言いたい事は女の絶対数が多い場所で出会いを求めればいいという話だ」
「そうだけどよ」
「まあまあ。こいつの方に理がある事は確かだ。お前もいい加減落ち着けよ。何も騎士団の中にだけ女がいる訳ではないんだ」
「……あっ!」
 力なく卓上にうつむいていた騎士が、突然勢いよく頭を上げた。周囲にいた二人は、さすが鍛錬を積んだ騎士とも言うべきか、驚きながらも不意の頭突きを食らう事は何とか逃れた。
「いた、いたぞ!彼女が!」
「はあ?」
「ほら、いたじゃないか!天馬騎士の、マーシャって娘!女王陛下の傍にいるあの娘!」
 その名前を聞いた瞬間、柱に突いていたケビンの指先が無意識に赤く染まる。
「お前な」
 すでに、ケビンの耳には友人たちの呆れた声は聞こえず、マーシャを手放しで賞賛する騎士の声だけが鼓膜をくすぐっていた。女性を褒め称えるのはクリミア人の美徳とされているが、この騎士は大げさなほどに彼女の容姿の愛らしさ、天馬に跨った時の凛々しさなどを並べ立てていた。その羅列になぜかケビンは苛立ちを覚えていた。
「そう言えば近衛隊の連中が騒いでいたな。ベグニオン出身だから近寄り難かったけど、お高く止まってなんかなくて、むしろ気さくでいい娘だったって」
「わざわざあの聖天馬騎士団を辞めてここまで来たんだろ?ああ、何かクリミア男と結ばれる運命にあるんじゃないかな……」
「おいおい」
 若い騎士らのうっとりとした声と、呆れる声を背に、ケビンは踵を返して本来の目的地を急いだ。



 人気のない訓練場にて斧を振るっても、なぜか意識は訓練用の斧の先には集まらなかった。霧散した気を取り戻すために無我夢中で腕を振り上げるも、頭の中で別の形を作り上げる。それを斧で打ち払っては、また彼は望む形に精神を構築しようと苦心するのだ。だが、そうすればするほど、錘を付けた斧を振れば振るほど、ケビンの中でマーシャの姿が鮮明に浮かび上がる。

 彼女の髪は、初めて見る色だった。ベグニオンでも珍しいとは後で聞いた話だった。耳の下で短く切り揃えられた具合は騎士らしい心構えだと、最初に出会った時に感じた印象だった。ただそれだけで、強いて言うなら天馬騎士とは珍しいとだけだった。
 後に目にする活躍は、注目せざるをえないものだった。ベグニオン帝国の聖天馬騎士団に所属していたとはいえ、年若い娘だという見目はケビンに不安を与えていた。しかし、それは大間違いなのだと思い知らされた。天馬の特性を生かした槍さばきは、是非参考にしたいと手合わせを申し出ようとした事もある。なぜか果たせないでいるままだが。

 それに彼女は優しかった。
 あの若い騎士らのように、ケビンにもベグニオンの騎士は高圧的だという先入観が多少なりとも植えられていた。
 ともすれば周囲に諌められ、咎められるケビンだが、彼女は苦笑いを浮かべながらも、手を差し伸べてくれていたのだ。それを今さらながらに思い出す。出合ったのは約四年前のデイン=クリミア戦役での事だが、それよりもずっと前から彼女はそうしてきてくれた気がした。
 他国より入隊した身だが、女王であるエリンシアにも忠誠を尽くし、同じ天馬を駆る者として常に傍に主君を守っている。ケビンが求めるクリミア騎士の精神もしっかりと備わっているのだ。


 ケビンの中では、マーシャは騎士としても、人としても申し分のない人為(ひととなり)を持ち合わせていると答えを出していた。
 斧を振る中、あの騎士たちの賞賛の言葉が蘇る。
 あいつらに何がわかるというのだ。
 上辺だけで彼女を捉え、ただ褒め言葉を並べているだけの男たちに。
 自分は彼らよりも、ずっと知っている。より完璧に近い騎士の姿を彼女の内面に見出しているのだ。
 
 だが、それとは違う感触で、ケビンの脳内でマーシャが形作られているのだ。
 なぜだ。
 深く考えすぎてはいけない。本質が見えなくなる。
 それは、ケビンが騎士見習いの頃から叩き込まれていた教訓だった。即決即断を心の銘と刻んでいるケビンは、思考の線が絡まると斧を振るようになった。普段ならば、大抵の困難はこれで何とか乗り切れた。しかし、今はどうだ。絡まった糸は切れるどころか、余計に絡まっているのではないだろうか。

 空に乾いた音が鳴り響いた。頭上に振り上げていた腕を無意識に止め、空を仰いだ。晴れた空に雲が川のように流れていた。羽ばたく音は大きく、鳥とは説明がつかない。だが、思考の外でケビンはそれが何の生き物の翼かは知っていた。
 ケビンのいる場所の上空を、彼女はただ横切っただけだった。雲を押し流す風は桃色の髪をもさらう。
 髪、伸びたんだな。
 彼女の髪が短い事に賞賛していたケビンだが、その彼女が肩まで伸ばしていた事に今この時気付いたのだった。しかし、それを騎士らしくない浮ついた髪型だとは全く思い浮かばなかった。
 桃色の髪を掬った風はケビンに向かい風となって吹いていた。その時額と頬を撫でられたが、やけに冷たい風だと、空を仰いだままぼんやりと感想を浮かべた。





「ケビン副団長、また……」
「大丈夫かな、あの人」
 そんな囁き声が交わされているとも知らず、ケビンは空を仰いでいる。現在は訓練中などではなく、ケビンには事務的な仕事が待っているのだが、それを片付けての事か抜け出しての事か、個人鍛錬用の広場にいた。そこで斧を振っては手を止め、空を仰ぎ、濡れた犬のように首を振っては斧を振りかざすという行動が繰り返されていた。訓練中は多少抑えられてはいるものの、部下たちに不安の影を広がらせるには充分だった。

「やあ、ケビン。今日もいい天気だね」
 勤務外だという事もあり、出戻り騎士のオスカーは気軽に声をかける。突然降ってきた見知った声の方向に、ケビンは音がせんばかりに向き直った。
「な、何をオスカー!おれは空など見てはいないぞ!」
「あ、ああ。そうかい……」
 これほど激しく否定しているとは、本人も自覚はあるのか。
 だが、鼻白むオスカーを前に、ケビンはすぐに頭の角度を変えた。

 風がまた吹き出した。額に汗が浮かび、風がそれを冷やす。斧を振り続けていたせいであろう。
 こんな風は、天馬の羽ばたく音を運んできそうな気がしてならない。
 三年、三年もそんな気を逃していたのかと、どこかで声が聞こえた。
 それにしても、首が痛い。


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