よせよ、あいつは肉食だ



 だが、姿だけベオクになろうとも、鳥翼族の嗅覚は隠せない。塔の入り口に差し掛かろうとした瞬間、激しい眩暈に襲われた。それだけ、負の気が渦巻いている証拠だった。ネサラでこの症状である。リアーネは正常ではいられないはずだ。早く白鷺の姫を見つけなければと焦りも生まれる。
 足元から伝わる小さな揺れと、苦しみを孕んだ呻き声、そしてうねるような負の気にようやく耐性がついた時、背後から幾つかの靴音が耳に入った。反射的に身を隠そうと壁に背をつける。しかし、簡素な石組みの塔には、物陰などは見つからない。

「……以前の記録よりも長く生きているか。やはり薬の調合を変えたのが効いたのか……それに、量と半獣の種。この要素と絶妙な具合が重なって生じたに違いない……」
 地下に続く階段より、その声は発せられていた。誰かに話すでもなく、むしろ己と対話しているようにぶつぶつと男の声は止む事はない。背の曲がった壮年の男。裾を床にまで引きずり、視線は手の羊皮紙に釘付けだった。その後ろには、護衛の兵士が男とは対照的に、背をぴんと伸ばして歩いている。
 
 薄い気味悪い男と兵士は、敬礼する若い兵士など気にも止めずに過ぎ去って行く。
その背中を見送ると、ネサラは上げていた右手を下ろした。背の高い黒い鎧が左に折れて行くのを見た。見回りの素振りをしながら、その後に続いた。
 曲がり角の向こうで、扉の蝶番が鳴った。背を壁につけ、角からそっと顔を覗かせる。廊下を挟んで両脇に幾つか扉が見えた。その最奥に部屋の扉の脇に先ほどの兵士が立っている。そこにリアーネがいるらしい。ネサラの側を通り過ぎる際に、あの男は呟きの中で確かに言っていた。「白鷺の様子を見に行かなければ」と。
 
 吐き気を抑えながら塔の中を見回っていたが、兵士の姿はほとんど見られなかった。最奥のこの部屋の側に積み重なっている木箱。加えて、地下から絶え間なく続いている地響きと気味の悪いうめき声。やれな事はない、とネサラは隠していた身を壁から離した。荒っぽい事は嫌いなんだがな。と胸中で呟きながら。
「ん?どうし……」
 見慣れない若い兵士が機密事項に触れる場所に現れ、デイン兵は眉根をよせる。しかし、疑問の答えを見出せぬまま崩れ落ちた。
「恨まないでくれよ」
 気絶した大柄な男を引きずり、木箱の裏側にもたれかける。

 汚れの目立つ扉を開けば、内部は思ったよりも広いのだと感想が浮かぶ。所々に蝋燭が掛けられ、橙色の明かりがネサラの足元を照らす。両脇は鉄格子があるが、薄暗いその先には人の気配はない。だが、先刻の呟くような男の声が、リアーネの場所を指し示していた。せむしの後ろ姿、その男と鉄格子を挟んでリアーネを見つける。逸る心を抑え、ゆっくりと足を繰り出した。

「何かお困りでしょうか」
 相変わらずぶつぶつと何かを呟いていた男は、露骨に顔を歪ませてネサラを見る。鉄格子向こうに、もう一つの視線を痛いほど感じた。
「んん?なんだお前は?なぜこの私の思考の邪魔をする」
 カラスだという事がばれたか。そう思ったが、男は単に集中を遮られたせいで不機嫌になっているだけのようだった。
「交代でこの部屋を見張っております」
「見張りなどこの塔には意味もないのだがな。軍隊というものは何事も形式を重んじる。まあ、仕方がなかろう」
 男が皮肉に肩頬を上げる。それに合わせたように、止まぬ呻きの中から、雄叫びのような声が響く。ネサラは思わず顔を歪めた。兜の下のその顔に、男は歪ませた口を更に上げる。
「私の実験体どもがまた暴れ始めたようだ。お前はここを見張っておれ。鷺の娘を決して外に出すではないぞ」
「は。お任せください」
 兜の頭を下げるネサラの脇を、男はぶつぶつとまた呟きながら去っていく。ばたん、と扉を閉める音が聞こえると、リアーネに向き直った。二十年ぶりの再会だった。よく一緒にいた頃の面影を充分に残して、美しい娘と成長していた。兜の下で、ネサラは目を細める。何より、この環境で思ったより元気そうな様子に安堵する。
「さて、お嬢さん」
 口の端を上げ、格子の扉を開く。慌てていたのか、逃げ出す事は叶わないと踏んでいたのか、鍵は開いていた。リアーネは肩をぴくりとさせた。それでも、ネサラから視線を外さない。
 
 あなたは……
 震える古代語が、ネサラの耳に届いた。常に一緒だった子ども記憶が脳裏に蘇る。心地よく響く声も、大人の響きを含んでいた。
「怖くないからな、大人しくしていろよ」
 そう言って白い手を取る。驚きの声を上げるも、リアーネからは否定や恐怖の気は感じられなかった。
 外が何やら騒がしくなる。扉越しにも「賊が出たぞ!」と慌しく走る足音が聞こえる。どうやら、何者かからこの塔が襲撃されているようだった。
 部屋を見回せば、一つだけ窓があった。鎧を着ていても何とかよじ登れる高さだ。ここは一階である。よほど脱獄の心配はないらしい。
「いいか。おれが先に出る。お前は飛ぶんだ」
 ネサラの言葉にリアーネがうなずくのを確認すると、ネサラは石壁を器用に登り、軽々と窓を越える。難なく地面に足を着けたと同時に白い翼が窓を越えた。その身体をネサラは受け止める。ふわりと、白い羽が舞った。
「ふう、何とかなったな……」
 無事に脱出できたはいいが、塔の向こう側、森の中から獣の雄叫びが空に響く。馬の蹄、鉄がぶつかる音や魔法の臭いまでも。間違いなく、戦闘が始まっていた。
「早くニアルチたちと合流しなきゃな。巻き込まれるのはごめんだぜ」
 抱きとめている腕から非難の声が上がる。この臭い嫌、と。始めは塔から発せられる負の気の事かと思ったが、しばらくして理解した。
「ああ。そうだな。鎧や兜ってのは窮屈なもんだ」
 兜、そして鎧の留め金を外し、次々と脱ぎ捨てていく。身軽になった解放感に、ふうと息をついた。
「二十年ぶりだな。どうだ?すこぶるいい男になっただろ?」
 伸びをするかのように黒い羽を広げる。鷺の姫は心底嬉しそうにうなずいた。
「さて、感動の再会は後にして合流を急ぐとするか。何やらドンパチが始まってるらしいからな」
 リアーネの細い指が、赤い空を指す。ネサラはそれにつられて空を仰いだ。茜の空にて緑がかった翼が目に付く。あの巨体は見間違えるはずもなかった。だが、普段は視界に入るのも忌まわしい鷹の姿だが、今は歓喜せずにはいられない。
「ティバーンか……!こりゃ丁度いい。上手くいきそうだ」
「ぼっちゃま!」
 頃合いを見計らったかのように、老カラスの声と羽音が聞こえた。
「突然戦闘が始まったので心配しましたぞ―――おお、姫様!よくご無事で!泣き王妃様によく似ておられて……うう……」
 老従者が白鷺の姫を抱きしている。呆れた眼差しを向けるネサラにニアルチに同行していた部下が告げた。この戦闘に、あのクリミア軍の若い将軍がいると。鷹王も加わり、デインにいた竜鱗族の女の姿もあったと。その報告を聞き、ネサラはすぐさま振り返った。
「おい、泣くのは後だ。後はティバーンに任せておれたちは脱出するぞ」
 袖を目尻に当てるニアルチにそう言い放つ。ティバーンが死ぬ事はないとは思うが、ここまで戦の爪がいつ伸びてもおかしくはない。悠長にしてはいられなかった。
「は、はい。さあ、お嬢様、こちらへ―――」
 しかし、リアーネはニアルチの手を取らなかった。小さな口は、ネサラに訴える。
「うん?アイク?あのニン、じゃなくてベオクの将はアイクっつうのか」
 それがどうした、と問えば、リアーネの訴えはさらに続けられた。
「……」
 リアーネの言葉に、ネサラは額に手を当て、ため息を吐いた。
「あのな」
 それが否定を含んでいる事はリアーネも知っているのか、大きな瞳は懸命にネサラを見上げていた。昔から、これに敵う者などいない。
「いいか。おれは、ティバーンに……」
 言いかけて、ネサラは続く言葉を飲み込んだ。リアーネの救出自体はネサラも労を惜しまない。しかし、そのきっかけはティバーンからの「依頼」であった。それを正直にこの姫に告げるのは、罪悪感が生まれる。しかし、これ以上の仕事は対象外だった。それをどうリアーネに説明しようか思考を巡らせていると、側にいた兵士が固い声で告げた。
「王、あの獣が……」
 部下の言葉に、ネサラは辺りを見回す。しまった。ネサラは舌打ちした。木々の影からおぞましい程の殺意にようやく気付いた。それも一つではない。
「ちっ、迂闊だった。お前ら、おれが何とか食い止めるから、お前らはリアーネを抱えて飛んで行け」
「はっ」
 リアーネがネサラの名を不安そうに呼ぶも、キルヴァスの兵らに抱えられる。だが、離脱が叶わなかった。空から風を切る音が直前に迫る。リアーネを庇うようにしてキルヴァス兵の一人がそれを寸でのところで避けた。彼が身に纏っていた紺色の布が斜めに切り裂かれた。むき出しになった肌に、うっすらと血がにじむ。
「よりにもよって、おれ達を狙うとは、いい度胸じゃねえか」
 標的を仕留めそこね、影のような黒い身体が飛翔する。くるりと赤い空を旋回し、再び黒いくちばしをネサラたちに向けた。
 ネサラが王に就いた頃より、不満の声は方々から聞こえてきた。ベオク相手に金銭のやり取りをするようになってからはその声はより大きくなった。中には、国を出た者もいた。そんな彼らをネサラは止めはしなかった。その結果の一つがこれだとしても、ネサラには微塵の罪悪感も憐憫も生まれなかった。国外で生きていようが、野垂れ死のうがそれが己の選んだ道なのだから。
「ニアルチ」
 老カラスは強くうなずくと、兵士らの腕からリアーネを引き継ぐ。
「さあ、お嬢様」
 リアーネは首を振るも、白鷺にも従順なはずの従者は、老体とは思えないほどの力でリアーネを抱え上げた。ネサラはリアーネに背中を向ける。精神を何とか集中させ、黒い羽毛を際立たせる。
「お前らは地上(した)の野獣どもをやれ」
 黒いくちばしでそう告げる。感傷など柄ではないが、彼らに同族の相手をさせるには酷だろう。すでにネサラと同じ姿になっていた兵士たちは、王の言葉と同時に、地面を走るように滑空していた。


 殺意よりも、怨恨に近い気と、痛みと苦しみが塊まり、それがカラスを象ったように映る。元より、その恨みも我を失う前から自分に向けられていたかもしれない。
「ニンゲンに捕まっちまうとは、不運だったな」
 デインが怪しげな実験をラグズに対して行っているとは小耳に挟んでいた。ラグズとしての誇りも、心までも失い、永遠に化身したままデインの道具とされるのだと。実際に対峙して、始めて胃に不快感がこみ上げてくる。
「楽にしてやるよ」
 ネサラよりも一回り小さなカラスは、その言葉に呼応するように甲高い声で鳴いた。



 黒い羽根を飛び散らせながら、肉塊となった同胞は地面に落ちていく。
 もう動く事はないと認識すると、ネサラの意識は眼下の森にあった。あちらこちらでまだ鉄の臭いと煙が立ち昇るも、それは先刻よりも小さくなっていた。部下たちも、何とか森にいた獣たちを片付けたらしい。
あのカラスとネコたち以外は、クリミア軍もここへは来ていないのだと安堵する。これ以上の面倒事は遠慮したい。
 しかし、黒い鎧ではないベオクが走ってきた。ネサラは、己に気付かない事を願う。だが、それは叶わなかった。子供が、ネサラを捕らえると弓を構えた。
「待て、おれは……」
「止めてください。彼は『なりそこない』ではありません」
 ネサラが否定するよりも早く、地上にて女の声が子供を引き止めた。少年はその声に、あっさりと弓を下ろす。走ってきたのは、褐色の肌をした女だった。見た事がある。デインにて参謀をしていた竜鱗族だった。
「キルヴァス王、我々はクリミア軍です」
 んな事あ知ってる。
 胸中で呟きながら、ネサラは化身を解きながら地上へと降り立つ。萌黄色の髪をした少年は、目を見開いてネサラを見ていた。
「あんた、処刑されたって聞いたけどな」
「訳あって生き長らえました」
 表情を崩す事なく、竜鱗族の女―――イナは淡々と答える。
「キルヴァス王、化身を解くにはまだ早いですよ」
「あ?おれに手伝えってか?冗談を言うな」
「もうすぐ日が暮れます。我が軍の天馬、竜騎士、鷹王だけではタカやカラスの討伐に追いつきません」
「下から打ち落とせばいい事だろ。ほら、このおチビだって弓持ってんじゃないか」
 会話に上がった少年はびくりとするも、すぐに恨みがましい視線をネサラに送ってきた。無論彼が「おオチビ」に反応した事など、ネサラは気付くはずもない。
「リアーネ姫がこの塔に幽閉されているのです」
「残念だな。リアーネはとうの昔におれの家臣が救出した。もうおれの役目はご免なんだ。後はあんたらだけでやってくれ」
 森から部下たちがネサラの許へ羽根を広げている。怪我はしているが、危惧するほどではないだろう。キルヴァスへ還る妨げにはならないはずだ。
「ネサラ!」
イナの要請を無視して、引き上げようと踵を返す。しかし、予期せぬ声がネサラの耳に届いた。それには、体が本能で反応してしまう。
 名を呼ばれ、ゆっくりと振り向いた。まさか、こいつまでいようとは。夕日を跳ね返し、金の髪のはずの彼の髪は、赤く染まっていた。ネサラとは正反対の、背中の白い翼も。
「先ほどニアルチ達と会った。お前には感謝するぞ」
 リュシオンは笑みを見せるも、渋面は解けずにいた。
「こんな所にいて、お前大丈夫なのかよ」
 ネサラや他のカラス達でも、気を抜けば吐き気をもよおす程にここは負の気が満ちていた。リアーネも、表面上は元気そうだが、かなり参っていると触れた時に感じた。
「何とか大丈夫だ。アイク達の足手まといにだけはならないように勤めている」
 生気あふれ、力強く答えるも、リュシオンの白い額には汗が浮かんでいた。鷺がここまで身体を張るなど、初めて見る。アイクの名が出された事もあり、ネサラは不毛な不愉快さを感じていた。
「そうだ。アイクがお前に会いたいと言っていたぞ」
 またアイクか。リアーネもそうだが、やたらとそのベオクを贔屓しているようだ。救出しているさなかも、頻繁にその名が出てきていた。
「残念だが、またの機会にな。おれはおれの役目があるんだ」
 ゴールドが絡まずに、ベオクと会うのは気が乗らない。それを一番の理由に幼馴染の要望を断ろうとする。だが、風切る翼の音で、一瞬にして意識が空に向けられた。側には竜の女も弓を番えた少年もいるが、幼馴染を残して離脱など、後でティバーンやニアルチに何を言われるかわからない。
 舌打ちも隠さず、黒い翼を再び広げる。結局は、リアーネの「お願い」通りになってしまったのだ。


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