夜空しか知らない

 争いのない世界を。
 そう願っていたのは、エリンシアの父の代からだった。彼女の父は武より文を愛するクリミアの国風を守り、そして歴代王どころか、他国の王が誰も試みようとも思わなかったことを成し遂げた。

 奇妙な運命の元、本来なら王族に列挙されるはずのなかったエリンシアが、隣国ガリアととの交流を深めている。父ラモンの跡を継いで。
 しかしそれは、エリンシアを新王として良く思っていない貴族の攻撃材料でもあった。
 元々、ガリアとの同盟は貴族たちの反対を押し切ってのことだと、彼女は後から知った。離宮で父が娘に話してくれたガリアの獣牙族。彼らの快活な性格を、ラモン王は嬉々として娘に語っていた。ガリア王カイネギスも、胸襟を開き、水魚の仲となろうとしたベオクを大いに気に入っていた。だからこそ、落ち延びたエリンシアを厚く城に遇していた。

 クリミアはデインのようにラグズを敵対視してはおらず、ましてやベグニオンのようにラグズを隷属させて来た訳ではない。むしろベグニオンが王国だった頃の親ラグズ派の貴族が興した国だ。
 それなのに、いつしかクリミアも反ラグズ思想が広がって行くようになって行った。ベグニオンの有力貴族から時の王侯貴族が釘を刺された、国境付近の村が獣牙族の襲撃に幾度も遭ったなど、様々な伝聞がエリンシアの耳にも入って来るようになった。

「―――支配をしたのはラグズもベオクも同様。今は過去にこだわっている時ではありません。現に、デインから逃れたわたくしを迎え入れて下さったのはカイネギス様であり、その後ベグニオンまで辿り着けるよう、路銀と兵まで貸してくださったではありませんか―――」
「しかしですね。陛下。この度は神使様の代理として元老院議員もお呼びしているのです。例えクリミアにとって大恩のあるガリアからの使者でも、ラグズとの同席となれば、議員殿のお気持ちが……」
「議員殿が神使様にどう告げようが構わないではないですか。むしろお喜びになるはずです」
 言い切ると、貴族たちは困惑顔で互いを見合わせた。
 我々の言うことを大人しく聞いていればいいものを。そう言っているのは明らかだった。
 軍人であるジョフレもアイクも御前会議には出席権はなく、ルキノに至ってはエリンシアの後ろに控えてはいるが、発言権はない。唯一の味方であるユリシーズは、黙って口髭を撫でていた。だが、決して看過しているのではないのはわかる。


 議題はエリンシアも家臣たちも一歩も退く様子を見せず、ユリシーズの次回への持ち越しとの言葉でようやく剣を鞘に収めた形となった。先延ばししても無意味だ、とエリンシアは宰相に目をやるが、ユリシーズは軽く首を振って答えた。心中でそっと溜息を吐く。彼の意図も解からぬ訳ではない。だが、釈然としないまま、別の議題へと行ける程、エリンシアも場数を踏んではいなかった。


 エリンシアが即位して二年目の、大がかりな式典の細かい取り決めだった。
 クリミアとしては、先の戦争での恩と、ガリアとの同盟がある以上式典に呼ぶのが筋だと言うのがエリンシアの考えだが、貴族はそうではない。恩や義よりも、格上の貴族の不興を買う方が恐ろしかった。
 クリミア再興の旗印であった時は、わずかな期間ベグニオン貴族と触れ合っただけで、彼らの本質を見抜いてはいなかった。サナキが「あ奴らは物の怪じゃ」と冗談じみたことをエリンシアに吐露するも、エリンシアはその言葉を気にも留めていなかった。だが今は、それをひしと感じる。

 国を挙げての行事の為、王侯貴族から末端の使用人まで、準備や会議は連日、太陽が沈んでも行われた。クリミアの復興を各地に強調する意味もあり、宮仕えの貴族らは普段の公務より精力的に動いていた。
  
 そんな日々、思わぬ来客があった。
 彼女は常日頃から多忙な女王に、本来ならば謁見できる身分でも、城に簡単に上がれるような役もない。だが、小柄な少女をエリンシアは喜んで迎え入れた。
「お久しぶりです、エリンシア様」
 少女は野花を思わせる笑みを見せたが、どこか心配そうにエリンシアの顔を覗きこむ。連日の疲れが現れてしまったのだろうか、とエリンシアは明るい表情に努めた。
「ええ、ミストちゃんも元気でだったかしら?今日はお兄様に逢いに来たの?」
 そう尋ねると、ミストは少し困ったように笑い、一緒に城に上がった獣牙族の少女と顔を顔を見合わせる。レテは、城下町の復旧作業の為にガリアから派遣された同胞の様子を見に、数日前からメリオルへやって来ていた。
「本当は、お兄ちゃんに渡す物があってお城へ来たんですけど……」
 言い難そうにミストは口を開く。レテも普段通りの真面目な面に、少し陰りがあるように見えた。
 ミストの言では、城下町にて兄に逢ったらしい。だが、その時アイクは修復途中の教会の前で、誰かと言い争いをしていたと言うのだ。何とか二人を引き離し、何か捨て台詞を吐いて去る男を尻目に、ミストは兄に問い質したのだ。
「それで、気分転換がてら、二人で城下町を歩いていたんですけど、その一角が騒がしかったんです。どうも、教会を建て直している獣牙族の人が、街の人に言いがかりを付けられていたみたいで。それを見かけたお兄ちゃんが怒ってしまって」
「アイク様が……」
 父の代から親ラグズを謳い、同盟まで結んでいるが、その志は王族までだと国内外で批判されているのは知っている。実際、クリミアの民がラグズを迫害している場面も目の当たりにした。クリミア復興が始まり、手を貸してくれる獣牙族に今までの偏見を解くクリミア人も増えてはいたが、それは完全ではないのは知っている。現に、政の上層部ですら、未だラグズを忌む者もいるから、昨日の議会の紛糾は起こった。

「レテ様、折角手助けして下さったのに、ガリアの方々には不快な思いをさせてしまいました。申し訳なく思います」
「正直なことを申し上げれば、この様なことは既に想定済みです。部下達にもそれをよく聞かせ、短気を起こさぬようと言い付けてありますので」
 レテは皮肉気に笑った。ラグズとて、ほとんどの者はベオクに猜疑的だった。過去の隷属の遺恨はまだ強く繋がっている。だが、彼女は勿論のこと、今復興を手伝っている者は、ずっと引きずったままではいけないと感じ、進んで協力してくれる。それなのに、その気持ちを踏みにじるようなクリミア人に心痛めてしまう。
 両国の同盟が結ばれて数十年。父ラモンも、友好が一朝一夕になされるなど、考えてはいなかっただろう。エリンシアの代になっても、まだ道半ばなのだと、常々思い知らされてしまう。

 この日の夜も、城の人々―――とは言っても、使用人や兵士がほとんどだが―――は準備に追われ、普段城の外を灯す明かりはもちろん、城内の燭台も消えずにいた。
 今夜は泊ればいいとミストに勧めたのだが、彼女は固辞し、レテと一緒に傭兵団の砦へと帰って行った。何かと慌ただしい城に客人として泊るのは申し訳ないと思ってのことだろう。それに、レテもクリミアの宮廷に、いつも以上に居心地の悪そうな素振りを見せていた。宮廷内のベオクの反ラグズ感情は、終戦直後から膨らんでいるのがエリンシアの目にもはっきりと映っていた。

 エリンシアも着替えはせず、薄手の上着を羽織って城内を歩く。
 宮仕えの者が女王の存在に気付き、作業の手を止めて慌てて頭を下げる。エリンシアもうっすらと笑みを浮かべてそれに応えた。例えラグズに良くない感情を抱いていたとしても、彼らはクリミアの民。クリミアを故郷とし、戦争の後、荒廃したメリオルに一も二もなく戻って来たのだ。

 エリンシアは僅かな供を連れ、城の中庭へと出た。点々と明かりが灯る庭を進むと、簡素な煉瓦造りの建物が見える。
「アイク将軍はどちらに」
 本城を警護する兵を束ねるのが、"クリミアの英雄"の今の仕事だ。
 爵位も、将軍位も与えたのだが、貴族たちは平民の、しかも傭兵上がりの青二才が民や他国の王族の信頼を一手に集めているのが面白くないようだった。ベグニオン帝国皇帝までもが一目置いていると聞いて、彼らの自尊心は歪められたかのような顔を見せた。そして、そんな彼らに"配慮"しなければならない状況にも嫌気が差してしまう。だが、クリミア奪還の一番の功労者である本人は、嫌な顔ひとつせず、昼夜問わず外回りの仕事を引き受けたと言う。申し訳なさもあるが、慣習や儀礼の鎖が張り巡らされた宮廷よりかはましだと言うアイクも容易に想像ができた。

 詰め所にいる兵の案内により、容易にアイクに逢うことができた。彼は部下に当たる兵の報告を受けている最中だった。
 政務や会議、諸国の使者との謁見で一日を追われる女王と、名ばかりの将軍が宮廷で見(まみ)える機会などはほとんどない。
 エリンシアは供の侍女と城内守護の兵を下がらせる。二人はアイクとエリンシアの顔を交互に見ると、頷いて持っていた包みを渡すと城へ戻って行った。アイクも同様に、部下を持ち場へ戻らせる。
「こんな夜中にどうした?」
 挨拶もそこそこに、アイクは別段驚いた様子もなくそう言う。どこか昔―――と言っても二年前ばかりの頃だが―――を思わせ、エリンシアは無意識に顔をほころばせる。
「……エリンシア?」
「あ、いえ、今日ミストちゃんが城に来てくれたので」
 急に名前を呼ばれ、懐かしんでいた思い出から我に返る。侍女から受け取った包みを差し出した。
「ミストちゃんからです」
「そう言えば、あいつ渡したい物があるとか言っていたような……済まんな。あんたにこんなことさせて」
「いいえ」
 むしろ嬉しかった。久しぶりにミストやレテとも顔を合わすことができた上に、こうやってアイクに逢える口実ができたのだから。
「……もしかして、妹から聞いたか?城下町でのおれの話を」
「はい。あなたにも、レテ様にも、申し訳なく思っております」
「いや、謝るのはおれの方だ。いくら難癖を付けてきたとは言え、おれは仮にも将軍で、貴族だ。軽率だったと思う」
 そう言ったアイクの顔は、松明の下でひどく暗く見えた。こんなアイクの表情をを見たことがあっただろうか。デイン軍に追われ、転戦していた頃に比べれば、今は少なくとも命の危険はなく、生活も安定している。だが、戦争の日々でも彼はつらそうな素振りなど見せたことはなかった。

「……なかなか、難しいものだな」
「はい……」
 つられてエリンシアも彼同様の表情を見せていたのか、アイクは苦く笑いながら首を振る。自嘲しているようにも見て取れた。
 互いにそれぞれ立場と責務がある。簡単ではないとは覚悟していたのだが、ここまで道は険しく、歩くには余計な錘が付き過ぎている。
 
 それがエリンシアだけならまだいい。ただ、戦争を終わらせる。国を取り戻す。本当ならば、傭兵であるアイクの仕事はここまでだった。いや、ベグニオンへエリンシアを送り届けるまでで良かったのだ。それなのに、彼はここまで付いて来てくれた。望んでいないのに、上流の位を与え、無理に重い責任を負わせてしまったのだ。
 
「アイク様」
 夜空をずっと見上げていたのだが、不意に、エリンシアはアイクへと向き直った。
「着いて来て欲しい場所があるのです。よろしいでしょうか?」
「ああ」
 アイクはふたつ返事で承諾した。元より、今の彼は警備兵で、エリンシアは警護の対象そのものなのだ。女王が移動すると言えば、付き合わない云われはない。二人はすぐにそれに気付き、顔を見合わせて笑った。
「一体どこへ行くんだ?女王陛下?」
 アイクの手を引いて、中庭のさらに奥へと進んで行く。
 本城からは遠く離れ、王族の私的な部屋が揃う小城を越え、小さな森へと差しかかった所に、古びた石造りの建物が見えた。
 アイクもその存在は知っていたが、足を踏み入れるどころか、近付くことも容易にはできないと教えられていた。
 建物自体は古いが、鉄の扉は新しく付けられ、松明の炎を真新しい錠が跳ね返していた。よく見れば、石壁には焼けた跡や、斧で削られたがある。デイン兵の仕業なのだろう。
「宝物を収める場所は細かに分けていたようですが、まともに残っていたのはここだけでした……とは言っても、ここも建物自体が形を成しているだけで、中はデインに持って行かれたのですけどね」
 石の焦げた跡を撫で、エリンシアは呟く。そして、上着の隠しから鍵を取り出した。
 中は当然ながら闇に染まり、何も見えない。いや、何もないのだ。復興が道半ばの今、溜めておける財などない。その証拠に、エリンシアは扉の両脇に掛っていた松明を持ち、中を照らすと、壊された木の箱や台らしき物だけが散乱していた。

「アイク様」
 エリンシアは宝物庫の中まで進み、振り返った。
「二年前、わたしは皆と一緒に戦場へ出ることが、わたしに出来る最大のことだと思っていました」
 エリンシアはじっとアイクの目を見る。あの頃を、天馬で戦場を、彼と駆けていた時を懐かしいと思うのは罪深い。誰もが冥府との境界線の傍にいたのだから。
「でも、今は違います。もう誰も血を流すことのないよう。そのような国を創って行くのが、わたしの役目だと思いました」
「そうだな」
 アイクも強く頷く。
 国防、治安維持の為の軍は必要だ。全てはクリミアの為。だからこそ、アイクも剣をエリンシアに捧げた。けれど、他国へ無為に侵略するような剣には賛成できない。グレイル傭兵団も、一度はデインに付く話が出たが、クリミアを大義なく奇襲し、丸腰の王女を大勢の軍隊で襲ったデインとは相容れる気にはならなかった。
「小さな決意表明ですが、是非あなたに見て頂きたくて」
 エリンシアは薄手の上着を捲り上げ、一振りの剣を取り出した。松明の明かりに照らされた剣は、アイクにもよく見覚えがある。先の戦で、天馬に跨るエリンシアが振っていた剣だ。
「これをどうするつもりだ」
 嫌な予感が走り、アイクは大股でエリンシアに近付く。だが、エリンシアは軽く微笑むだけだった。
「この宝物庫の新たな宝の一つにするだけです」
 そう言うと、壊れた土台の一部の埃を払い、上着にくるんで置いた。少し拍子抜けてしまったが、アイクは確かに見届けたと呟くように言った。
 最高級の材と技が詰め込まれた剣が、宝物庫とは名ばかりのあばら屋にひっそりと収められるのは、曾祖母には申し訳ないとは思う。けれど、これが新たな決意の一歩だとどこかで示したかった。

「ありがとうございます……ずいぶんと黴臭い場所に長いさせてしまいましたね」
「いや、それは気にならないが」
 去ろうとするも、アイクは足を動かさない。それどころか、エリンシアが剣を収めた場所をじっと見、彼も腰の剣を抜いた。
「……アイク様!」
 その剣がどういう物であるか、エリンシアも知っていた。
 エリンシアがグレイル傭兵団に助けられた時から振っていた記憶がある。父がくれた物だと、いつか話してくれた。
「あんたの意志に同意しただけだ、この剣に比べればかなりの安物で申し訳ないが」
「ですが、これは……」
 アイクはゆるりと笑った。
「親父は、軍事国家だったデインの将、しかもその中でも四駿なんて位にあった。その親父が国を出て、傭兵団を立ち上げても賊退治や護衛ばかりの仕事を請けていたのには、戦を嫌っていたからだと思う」
 デインは反ラグズ思想で固められた国でもあった。デインの軍属であるグレイルが、反ラグズ思想の影響を受けていないはずはなかった。だが、彼は妻を伴いガリアへ向かい、カイネギス王と唇歯の関係を得た。アイクの言葉も頷ける。
 そして、数奇な縁だが、自分と関わったが故に命を落としてしまったグレイルの為にも、クリミアは進まなければならない。

 肩にふわりと温かいものがかかる。上着のなくなった肩に掛けられた物は、赤いマントだった。
 上を仰ぐと、アイクもゆっくりと頷いた。彼もきっと同じことを思っていたのだろう。松明の明かりが、頬の紅潮を隠してくれたのが幸いに思う。
「行きましょうか」
「ああ」
 二人は、二振りの剣しかない宝物庫から、まだ夜も深い中庭へと歩いて行った。

 密やかに立てられた誓いが、僅か半年後に破られるなど、今の二人にも予想はできなかった。

11/07/23   Back