一曲いかが?




 楽団が奏でる曲が途切れ、広間では手を取り合っていた男女が離れて行く。貴族の嗜みだと言われ、クリミア王家の典礼係りより習う事を勧められたが、当然頷くはずもなかった。確かに爵位と将軍位は受け取ったが、それは、煌びやかな空間で、好奇の目と狂言が飛び交わせる為ではなかった。曲が変われば相手も変わる。貴族の子弟から令嬢を紹介される前に、アイクは柱の影へと急いだ。丁度料理が置いてある卓の傍にある。身も隠せるし、腹も満たせる。一石二鳥だった。しかし、

「アイク様」
 名を呼ばれれば、無視はできない性分だった。観念して振り返るが、己を呼んだ貴人にさすがのアイクも目を丸くする。この夜会の最貴賓は、何とも簡素な服を纏っていたからだ。
「さあ、向こうへ」
「あ―――」
 答える前に手を引かれる。クリミアきっての大貴族の社交館は驚くほどの広さだが、生き延びた貴族すべてを招待したかのようにひしめき合っている状態だ。同胞の再会を喜び合っている者も少なくなく、質素な装いに身を包めば、例えその者が新王であろうとも、クリミア奪還の最功労者であろうとも気付かないらしい。

 手を引かれた先は、夜風にさらされたバルコニーだった。その広さは広間には敵わぬものの、窓からの距離はかなりのものだった。二人とも酒精は入れていないようだが、無数の蝋燭と人の熱気で籠った熱はかなりのもので、解放感がすうっと体を突き抜ける。
「すまんな―――だが」
「この格好ですか?」
 ああ、とアイクはうなずく。
 結い上げた新緑の髪も、先刻までは燭台の灯りに金と宝石のの髪飾りを輝かせていたのに、今は何も着けていない。エリンシアを知らない者が見れば、宮女だと思うだろう。驚くアイクを楽しんでいるように、うっすらと紅が引かれた口の端を上げる。エリンシアは、主催者に挨拶を終えた後、すぐに着替えに行ったのだと説明する。しかし、アイクの疑問はそこではない。
「ずっと離宮で育ったので、貴族の社交界なんて出た事がなくて。ベグニオンで初めて社交界に出た時に気付きました。とても窮屈なものなのだと」
 だがな、と口を開こうとしたが、次の言葉は喉で抑えた。国内の貴族にすら隠されていた王女が、突如一国を担う身となったのだ。彼女なりに羽目を外しているのだと思えば咎める気も起きない。
「あんた、意外と面白いんだな」
「意外でしたか?」
「ああ」
 バルコニーの手摺に背中を預け、アイクは空を仰ぐ。そう言えば、こんな夜空だった。エリンシアの初陣の夜は。
「本当に、意外だった」
「え?」
 脳裏に描いていた事が、つい口に出てしまったようだ。取り繕うのも妙な気がして、手摺に預けていた体勢を変える。
「あんたを助けたのは偶然だった。だから、あんたが王にまでなるなんて思ってもみなかった」
「それはわたしも予想外でした―――ですが、受け入れるしかありません。クリミア王家は、わたししか
いなくなってしまったのですから」
 そう言って、エリンシアはまつ毛を伏せる。初陣後のように、肩は震えてはいなかったが、あの時のようなか細さと突然重なって見えた。
「おれは、あんたの決めた事には反対した覚えがない。だが、一つだけ……いや、反対しなかった事を後悔している」
「それは……」
「あんたが戦場に出た事だ」
 エリンシアは口を噤み、視線を足元に遣る。 
 純白の鎧は、初めてまみえた時分は朝日を跳ね返し、幾人もの騎士を従えていた。その為に、無粋なアイクの目にも神々しいまでに映った。高貴な身分が、初めて胸に響いた瞬間でもあり、驚きと戸惑いが同時に産まれ出でもした。しかし、エリンシアが意を決して戦場に出た陽の夜。エリンシアが愛馬の前で打ちひしがれる姿をアイクは見た。身に纏う鎧は大仰なものの、留め金が鳴らんばかりに震え、大きく見せる肩当てがあろうとも随分小さな存在に見える。落ち延びたばかりの、亡国の姫君に戻ったように思えた。アイクの初陣の夜もそうだった。心も体も疲れ切っているのに、眠る事ができなかった。

「あんたの戦場は、これから"ここ"へ移るだろう。その前に、深く傷付くような事させて―――」
「アイク様」
 強い声は、アイクをまたもや驚かせる。
「確かに、周囲に流されるようにして新王になった身。ですが、皆さんと一緒に戦わなければ、わたしは王城に上がる事すらできなかったと思います」
 アイクを見る瞳には、強い光が湛えていた。彼は今こそ後悔した。自分が放った言葉が、エリンシアの決意に砂をかけてしまったのだと。
「すまんな」
「いいえ。こそまで思って下さって、嬉しいです、アイク様」
 項垂れるアイクに、エリンシアは笑いかける。先刻の、アイクを連れ出した時のような笑みだ。
「―――ところで、アイク様」
 言葉を切った矢先に、窓越しに曲調が変わり出す。ひらめく鮮やかなドレスやフロックコートは、まるで満開の花畑のようだ。蝶が新たな花を求めんとばかりに、貴族の靴は磨かれた床を滑り出す。
「一つお願いがあるのです」
「何だ?おれにできる事なら」
「"戦場"へ行くわたしへの花向けに、どうぞお一つ願えませんか?アイク将軍」
「なに……?」
 言葉の意味を探っている内に、エリンシアはどこからか二振りの剣を差し出した。エリンシア!と驚嘆の声を上げるも、エリンシアは上機嫌なままだ。
「あちらに戻るより、この方がアイク様も気安いでしょう」
「だがな、あんたのその……」
「ご心配なく」
 あっさりと答えると、エリンシアは剣を抜いた。剣は本物のようで、暗い空の下でもぎらりとした鋭さが見える。突如、エリンシアは白刃をドレスの裾に当て、迷いなく引き裂いた。アイクはそのさまを唖然と見ているだけだ。
「これで大丈夫です。ここは広さも充分にありますし。今までご指南下さった通りにしていただければ」
「あんた、酒が入ってるんじゃあないよな」
 答えはなく、代わりにもうひと振りの剣が乱暴に押し付けられる。
「さあ、曲が終わらない内に」
 楽団からの音楽が駆り立てるように奏で出す。剣を持ち構えられて受けない訳にはいかなかった。雇い主の命ならなおさら。アイクは観念して剣を鞘から抜く。
「ならば行くぞ。容赦はしない」

 

14/05/11   Back