諦めは、やわらかくて心地いい




 漆黒の鎧が崩れ去った後だった。自分の脇腹に激痛が走ったのは。
 上げた呻き声はまるで他人のもののように聞こえた。あまりの痛みに立っていられず、片膝を付いて、ようやくこの痛みが現実だとわかる。仲間たちが自分の名を口々に叫ぶ声が鮮明に聞こえる。どうやら、漆黒の騎士―――いや、ゼルギウスの死が、見えない壁を解く鍵だったようだ。

「……大丈夫だ……」
 そう、大丈夫だ。おれはまだ戦える。まだこんな言葉が口から出るのだから、まだ大丈夫なはず、だ。だが、痛みは次第に熱に変わって行くのがわかる。傷を押さえていた手が濡れていた。それが自分の血だと知ったのは、最初に駆け付けたティアマトが、おれを見た瞬間咄嗟に布を脇腹に当てたからだ。
 大丈夫だ、と繰り返すおれの言葉が信じられないようで、ティアマトは青ざめた顔で、布をすぐに新しい物に取り変えた。その背後で、複数の足音が聞こえる。

「―――ああ、良かった……回復の杖を―――」
 複数の足音の中のひとりを、ティアマトがほっとしたように仰いだ。ティアマトと入れ違いで影が動く。その影がやたら白く、懐かしい匂いがふわりとした。
 ―――エリンシアだ。おれはそう直感した。そうだ、エリンシアもまた、共に塔へ昇っていたのだ。
 応急処置の布を素早く剥がすと、エリンシアは慣れた手つきで治療用の布を当てる。止血の効果がある薬草を染み込ませているせいか、痛みとは違う、新たな刺激が傷に加わる。だがそれは何度も経験しているゆえに、受け入れるのは問題ない。

「すまん、な……」
 血が出て行くのが少し緩やかになったらしい。エリンシアは杖の淡い光を包帯に当て始めた。こうなれば、回復はもうすぐだと経験上わかる。また立ち上がって剣が振れる。
 おれはそれに安心したのか、周囲を巡らす余裕ができた。エリンシアの肩越しに、魂亡き漆黒の鎧が横たわっているのが見えた。その前には、デインの、いや負の女神の巫女が祈りを捧げている。
 
 倒したのだ。親父の敵を、いや、おれはあの男を通して、親父を超えた。
 だが不思議な事に、確かに"親父の敵"に勝った実感はあるものの、斬った瞬間―――それこそ、脇腹を斬られた事すら感じないほどに―――あれほどおれの中に満ち溢れていた高揚感が、今ではすっかり消えていた。


 上げていた顔を漆黒の鎧から自分の身体に戻すと、緑の長い髪のひと房が、頬に軽く触れた。エリンシアが慌てて半身を引く。そう言えば、こうやって彼女に回復してもらったのは久方ぶりだ。最後はいつだっただろうか。
「なあ、エリンシア」
 呼びかけても、エリンシアは返事どころか、こちらを見向きもしなかった。おれが知っているのは、心配になるほど律義で、身分がはるかに下の自分たちにすら、隔てなく丁寧に受け答えしていたエリンシアだった。塔に昇る前日も、共に行こうと覚悟を固め合っていたではないか。

 塔の内部を照らす蒼い光のせいか、エリンシアの顔も青ざめて見えた。いつもとは違う、どこか堅い表情にも見える。もう一度名前を呼んだが、エリンシアの視線は脇腹の傷に向けられたままだ。

 すう、と回復の杖の淡い光が消えた。
 気が付くと痛みは大分なくなっていた。血は完全に止まっている。これなら立ち上がれそうだ。だが、腰を上げる前に、エリンシアに制される。
「もう少し、休まれた方が」
 ようやく聞けた声も、やはりどこか堅かった。
「いや、だが」
 戦いはこれで終わりではない。ゼルギウスは、おれ達に立ちはばかる敵のひとりに過ぎない。正の女神に辿り着くまで、どれほどの敵がいるか、負の女神すら計り知れない。ここで長い時間立ち止まる訳にはいかなかった。 
「巫女様より、しばし休まれるようにと言われております。まだ敵はいるけれども、深手を負ったあなたを無理させる訳にはいかないと」
「しかし……」
「アイクさま」
 エリンシアのいつにない強い口調に、おれは従うしかなかった。とは言っても、寝台や敷布がある訳でもない。いつものマント―――しかも、最後に洗った日など覚えていない―――を下に、座り込むくらいしかできなかった。

 エリンシアは、血が滲んで来た包帯を再び取り変えようと手を動かす。
「エリンシア、ありがとうな」
 エリンシアはそれには返事はせず、押し黙ったまま手を動かしている。もうそれでも構わなかった。治療の手はいつも通りの丁寧さで、無口の不可思議さを差し引いても十二分に安心できる。
「これを代え終わったらもう行くとしよう。いくらなんでも皆を待たせ過ぎては悪い」
「ええ、でも―――」
「うん?どうした?」
 
 ここで初めてエリンシアの顔を正面からまともに見たと思う。青ざめた顔、眉間に皺。心配しているのではなく、怒っているように見えるのだが。
「アイク様、あなたと言う人は……あれほど」
 どこか呆れたような、咎めるような声だった。
「あれほど、わたしには無理をするなと仰ってましたのに」
「ああ……」
 
 無理をするな。
 確かに、エリンシアには散々言った言葉だ。だが、エリンシアも、おれのその言葉に従った試しはない。離宮でひっそりと生きてきた王女が戦場に出てから、クリミアの主になった今まで。思い返せば命を落としたかもしれない場面はいくらでもある。
「ですが、何ですかあなたは。いくらグレイル様の仇とは言え、あんな風に我を忘れて飛び出すなんて……」
 どうやら、エリンシアは先刻の漆黒の騎士との対峙を咎めているようだ。お互い危険を顧みない部分があるようだ。いくら批難し合おうが、それについて反省もしていなければ、謝るつもりもない。エリンシアもそうだったのだから。

「エリンシア」
 今度は、おれが堅い声を出す事となった。
「おれとあんたでは立場が違う」
 だが、これだけは主張できる。エリンシアは一国の女王。対しておれは団を率いてはいるが一介の傭兵。更に言うならば、おれはエリンシアの元家臣でもあった。救国の女王が危険を顧みず飛び出して行くのを見たくはない。その身を失えば、悲しむ者も、失うものの重さもおれとは比べ物にならない。

「ですが、身を案ずる気持ちは同じではありませんか」
「……確かに、ゼルギウスが望んだ事でもあったが、おれも強く望んでいた事だ。後先を考えていなかったのは自覚している」
 下手をすれば一陣の元に斬り伏せられたかもしれない。更に言えば、あの男に勝つ絶対の自信があった訳でもない。だが、どうしても斬り結びたかった。父の敵を討つというより、あの男とどうしても勝負したかった。仮令おれが敗れ、女神に立ち向かう戦力が削がれようとも。

 それでも、謝る気はない。エリンシアにも、もちろん、仲間たちにも。
 結果は勝ったから、それで良かった。問題はそうではないと、エリンシアの表情が語っている。理解できない訳ではない。
「わかって欲しいとは思ってはいない」
 吐き出すように告げると、エリンシアもそうですよね、とため息のように聞こえた。強張っていたエリンシアの周りの空気が和らいだ、と言うか萎んだように感じた。

「ですが、もう……いえ、何でもありません。あなたの剣を信じます」
「ああ」
 だからあんたも無理はするな。
 それを言うのは何だか不公平な気がして、喉元で止めた。代わりに―――と言うのも変だが―――頬に手を遣り、しばらく触れていなかった場所に触れてみる。エリンシアは驚いたようだが、すぐにすんなり受け止めてくれた。やはりそこは柔らかくて心地いい。謝罪や弁明などに口を動かすより、こうした方が遥かにいいものだ。



twitterお題 可愛いカップルかいちゃったーより。キスで仲直り。 
12/06/03